先日、弟が結婚式を挙げたので、彼とそのパートナーに贈る祝福の言葉を考えあぐねていた。そしてこれほど考えあぐねるからにはきっと祝福を与えるという行為そのものに何らかの困難さがつきまとっているのではないかと思い当たった。
「祝福を与える」という行為には二重の意味での不可能さがある。まず第一に、僕が祝福を与えるべき立場にあるわけだが、それは彼らが祝福されるべき存在であることがあらかじめ分かっているからだ。僕が祝福を与えることによっても僕は何も与えることができない。というのは、もし僕が祝福を与えることで何かを与えるのだとしたら、彼らは僕が祝福を与えるまでは祝福されていなかったことになり、そもそも僕が祝福を与えるべき立場に置かれることもなかっただろう。
つまり、祝福を与えるという行為は、それによって祝福する者が祝福される者に何も与えることができないという不可能性によって初めて成立する行為なのである。
そして祝福を与えるという行為にはもう一つの不可能性がある。それはその行為のエコノミーに関するものだ。たとえば僕が彼らに祝福を与えることによって、彼らが僕に対して何らかの負債を負い(借りをつくり)、将来彼らがそれを弁済する義務を負うのだとすれば、彼らがその借りを返したとき、祝福は「チャラ」になって、そもそも祝福など存在しなかったことになってしまう。
しかし祝福を与えるという行為は、そのような等価交換のエコノミーのうちにあるのだろうか?おそらく違う。僕が彼らに祝福を与えたとき、彼らがその祝福を受けたという事実によって同時にすでに祝福を与えた僕自身が祝福を返されているという事態になる。
そうして僕が返された祝福を受けたという事実によって、彼らはふたたび祝福を受ける、という具合に、まるで二枚の鏡を向かい合わせたようにして、ひとたび祝福を与えるという行為が始まるやいなや、それに巻き込まれている人々がみなお互いに祝福され続けるという終わりのない相互応酬のプロセスこそが、祝福のエコノミーではないか。
以上のように、祝福を与えることの困難さは、その行為が二重の不可能性を刻まれていることから来るものだった。一つは祝福を与えることによって何も与えることが出来ないという不可能性の上に初めて祝福を与えるという行為が成り立っているということ。もう一つは、祝福を与えるという行為は「終わらせることが出来ない相互応酬のプロセス」という不可能性のエコノミーに宿るものであること。
これら二重の不可能性によって、僕と彼ら、そしてその場に立ち会ったすべての人たちは、際限のないプロセスの中で永遠に祝福され続けることになるだろう。