読者の方から、なぜ僕が「清貧」について批判的なのか詳しく説明してほしいとのご要望があったので、今回は清貧批判がテーマ。
このエッセー集で「清貧」は人間の自由を制限するものだと批判したのは「『消費』の快楽」であるが、要点をひとことでいうと、現行の社会システムから遊離したところで精神論をぶちあげたところでムダだということである。
確かに「地球環境を守るために40年前の生活にもどりましょう!」という精神論が「完全な」ムダだとは言えない。長い目で見れば今の大量消費社会がひどくなるペースを多少はおさえることも出来るだろう。
しかし、そんなことを言って聞く耳を持つ人は、はじめから環境問題に対する意識の高い人間だけだ。皮肉な言い方をすれば、精神論に耳を傾けるのは、精神論などはじめから聞く必要のない人である。
問題なのは精神論など聞きたくない人間の方である。「清貧」のような精神論は年長者のノスタルジーを喚起するものでしかない(「昔は良かった」というパターン)。
環境問題を例にとって見ると、僕はこの問題の解決に実質的な効果をもたらすには、現行の社会システムに環境破壊を緩和するシステムを組み込むのがいちばんいいと考えている。
たとえば今月から名古屋市では粗大ゴミの回収が有料化された。粗大ゴミを捨てる人は近くのコンビニで捨てたいゴミのサイズに見合った所定の用紙を購入する。もちろん大きいゴミほど高価になっている。
そしてその用紙を粗大ゴミの目立つところに貼り付けて、ゴミ集積場に出しておく。回収車は用紙が貼り付けてある粗大ゴミだけを回収する(そのせいで不法投棄が増えるという議論もあるが、なら不法投棄の罰金を一千万円にすればいい)。
僕が学生時代、東京都に住んでいたときは、ふつうの可燃ゴミにも専用の袋があった。その袋は義務ではなかったけれど、将来はおそらく所定のゴミ袋に入ったゴミでなければ回収しないというシステムになるだろう。
こうしたシステムが成立するには、コンビニやスーパーなどの生活インフラが整備されていることが条件で、ゴミの多い都市部ほど当然この種のインフラは整備されている。
つまりゴミ収集の有料化によってゴミ処理コストを廃棄者へ正しく負担させるというシステムは、都市部の現行のシステムにうまく組み込まれたというわけだ。
仮に粗大ゴミを出すための負担が、同じ物をリサイクルするための負担と拮抗してくれば、リサイクル・ビジネスは拡大するだろう。
名古屋市に出すよりリサイクル業者に出した方が安いとなれば、みんなリサイクル業者を利用するだろうし、企業が製品のリサイクルを義務づけられれば、消費者は廃棄コストの負担を避けるためにリサイクル可能な製品を選んで買うようになる。
また、つい先日からアルゼンチンで第4回の地球環境会議が始まった。去年京都で結論が出なかった排出権取引や温室効果ガス排出量の算定基準などが争点になりそうだが、この排出権取引というのも現行の市場システムに排出の抑制に向かう力を組み込もうという工夫だろう。
もちろん排出量の算定基準そのものがあいまいなままで、排出権取引にどの程度の有効性があるかは疑問だが、それでもこのようなシステムをまず始動させることで、次の一歩への基礎が固まることには違いない。
このように、粗大ゴミ回収の有料化にしても、排出権取引にしても、この世の中が個人の利害と市場システムで動いているということを逆手にとって、そのシステムの内部からシステムの害(外部不経済)を取り除こうという、非常に実践的な知恵である。
前回このページで「清貧」を批判したのは、現代人の消費への欲望を否定しようとしたって土台ムリな話しで、それよりも、物質の消費を出来るだけともなわない消費に転換させることが現実的だ、という文脈だった。
そのキーになるのがイメージの消費(ヴァーチャルな消費、精神的快楽・満足の消費)への転換である。これも大量消費という現行の社会システムを逆手にとって、その内部に物質を消費しないシステムを組み込んでいくという発想である。
都市の住民が全員アウトドアでなければレジャーにならない!と思えば、週末の大渋滞による大気汚染、キャンプ場建設のための自然破壊は深刻だろうが、プレステやドリームキャストのおかげで、それほどひどくならずにすんでいると言えなくもない。
現行の社会を成り立たせているシステムから遊離したところで、「省エネ」だ「質素な生活だ」と精神論をものして、書物として出版する人には次のように言いたい。
「あなたの本こそ、森林資源のムダづかいです」