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夢見られぬ憐れな人々

即物的生活の捕囚たち

2001/12/06

秋も終わりだというのに直射日光が照りつける窓際のソファは上着を脱いでも暑いくらいだった。天井が高い上に壁いっぱいにとられた窓は、ブラインドを取りつける設備がないらしい。まだ秋だから良いものの、真夏ともなればいくら空調を効かせても耐えがたいだろう。たとえ日光に耐えられても紫外線にやられてしまう。

いったいこのビルの設計者はスターバックスのような飲食店に貸すというのにブラインドの内装もほどこさなかったのか。コーヒーを飲んで一息ついてから仕事にかかる会社員もこのオフィスビルには多かろうに、朝、まともに太陽の差しこむ東向きの窓に日よけさえつけないのだ。

先客の女性2人組は同じく窓際、いちばん隅のソファに荷物とコートを日にさらしたまま、室内にむき出しの支柱が日陰をつくる別の席でしきりに何か打合せをしている。

乾いたボロ切れのような不味いクロワッサンをかじりながらの遅い朝食で、窓の外からは1年ほど前、道をはさんで向かい側にある中学校の温水プールへ通いなれた陸橋が眺められる。休日の朝10時、都会のど真ん中のオフィスビルにあるスターバックスでどうして朝食などとっているのだろうか。

ここへ来る前に出てきたビルもやはりかなり高層で、この辺りでは視界から避けようと思ってもかなわないほど目立つランドマークである。正面の自動ドアを入るとエントランスホールには中央に大きな鉢の生け花が自らの優雅さを誇るような押し付けがましさで鎮座している。

そのまま右に入ればフロントがあり、清潔で明るい合板の内装に立方体を人の座る形にくりぬいたようなデザインの革張りのソファーが、無機的ではあるが暖かく待ち合わせのゲストを迎えますと言いたげにならんでいる。

生け花といいソファといい、この空間に取ってつけたようなホスピタリティーを感じざるを得ないのは、ある種の中途半端さがあるからだろう。ここは日常の雑事から逃避するために訪れる場所なのか、それともここで日常生活を送るための場所なのか。

もしここが日常から逃避するための場所なら、人が期待する以上の歓待がなければならない。その種の場所としては、エントランスから始まって、エレベータの室内の狭さ、それを降りた後、部屋まで歩く幅の狭い回廊、それらすべてがそっけなさすぎる。

逆にここが日常そのものであるなら、場所そのものが決して自己主張してはいけない。ところが縦縞の壁紙、大理石張りの玄関、エレベータ内にどういう理由か設置してある液晶テレビ、エントランスの天井の高さ、それらすべてが落ち着きを失わせる。

真実を書けば、ここは月100万円を出しても住むことができない超高級賃貸マンションなのである。そしてこの空間に中途半端さを感じるのは、僕にとっての日常がひどく平凡であり、かつ、僕にとっての非日常が形をもたない想念の世界にしかないからである。平凡すぎる日常にとってここは日常を横溢し、非凡すぎる想念にとってここは卑属すぎる。

僕はそういう自分を特段不幸だとは思わない。いくら日常が平凡であっても想像力は決して貧困ではない。自分が触れる現実の枠をはみ出す何か、目に見える形としてさえ描くことのできない何かをちゃんと頭の中に浮かび上がらせる力を持っている。むしろ現実に感覚で触れることしか感受できない人は不幸だ。

単にここへ住むというだけで100万円以上の金を払うのは判断として明らかに不合理である。なぜなら近くのホテルに泊まるほうが安くあがる上に手厚いサービスを受けられるからだ。つまりここに住む人は単に住むという以上の何かにたいして対価を支払うつもりで入るのだ。

ではそれは一体何なのだろうか。僕なら500円の文庫の哲学書一冊で享受できるような形にならない幸福感を、数十万円を毎月支払わなければ得られないほど即物的な生活に追われているのだとしか考えられない。

夢見るということにおいてそれほどまでにコストパフォーマンスの悪い、想像力の貧困な哀れな人々のための慈善事業として都心に異形の住空間を築くのは、確かにひとつの事業としてとても興味深いことである。もちろんそれだけの需要があれば、の話であるが。



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