think or die :
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幸福な家族という幻想
斎藤学『アダルトチルドレンと家族』
1998/04/28

斎藤学『アダルトチルドレンと家族』(学陽文庫)を読んだ。

今さらという感じもあるが、わざわざ単行本を買うつもりもなかったので、文庫化されたのを機会に購入して読んでみた(ちなみになぜ図書館に行くのをしぶっているかというと、名古屋には徒歩でぶらっと行ける図書館が鶴舞図書館くらいしかないからだ。その鶴舞図書館も館内の色づかいや暗めの照明がなんとも陰気くさく、1時間もいると気が滅入ってくる)。

名古屋の文句はさておいて、『アダルトチルドレンと家族』に話をもどそう。アダルトチルドレンとは何か、定義をご存知ない方は、ヤフーやinfoseekで「アダルトチルドレン」をキーワードに検索していただきたい。

この『アダルトチルドレンと家族』を読んでみて、改めて自分がアダルトチャイルド、より正確にはアダルトグランドチャイルド(アダルトチャイルドの親を持つ子供)であることを確認した。しかし、自分がいかなる意味でもアダルトチャイルドではないと言い切れる人がいるかどうか?

この本で、アダルトチルドレンを産み出す傾向のある家族として描かれている家族像は、決して「異常」な家族ではなく、日本ではありふれた家族像だと思う。仕事ひとすじの父、寡黙で厳格な父、社会との接触を断たれて自己実現の欲求をわが子に投影する専業主婦、干渉しすぎる親、干渉しなさすぎる親、などなど...。むしろアダルトチルドレンと無縁な家族の方が少ないのではないか?

もちろん病理としされるアダルトチルドレンには、精神医学上の定義があり、それを「アダルトチルドレン的」な人々とひとくくりにするわけにはいかないだろう。ただ、斎藤学氏が、アルコール依存症の親をもつ人という「アダルトチルドレン・オブ・アルコホリック」本来の意味を拡大解釈したとき、アダルトチルドレンという概念の射程が明らかになったと語るように、「アダルトチルドレン」という概念を広くとらえることで、僕らは家族と社会の関係のもつ問題を考える足場を得る。

この『アダルトチルドレンと家族』という書物は、筆者が自分の専門領域に忠実に、あくまで精神医療の範囲内で、いわばミクロレベルで、アダルトチルドレンという概念の紹介や、アメリカから導入されている治療プログラムの解説を行っているだけであり、マクロレベルの問題は社会学者などに任せている。したがって僕としては、家族の理想化ということそのものの問題性を考えてみたい。

家族にはいろんな形があっていいし、現実にさまざまな事情を抱えた家族が存在する。むしろ問題なのは、家族というものを必要以上に理想化し、その理想形に家族をねじこもうとする考え方の方である。そしてその考え方は、ある場合には法制度として固定化されている。未婚の両親の子供の完全な法的権利を認めない戸籍法など。

なぜ人はそれほどまでに、「理想の家族」にこだわるのか?家族というものに過剰な期待を寄せるのか?家族には「本来の姿」「本来の機能」など、本来性があると信じたがるのか?卑俗なレベルで言えば、なぜ「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」、橋田寿賀子のホームドラマなど、家族の理想形を描くアニメやドラマが、あれほど根強い人気を得ているのか?

(さらに言えば、「家なき子」「母をたずねて三千里」タイプの物語は、起こりうる家族の悲劇を描くリアリズムというよりは、近代家族制度を維持するためのプロパガンダであると思う。つまり、家族はかくも大切なものだという、家族を理想化するメッセージなのである)

昨今の少年ナイフ犯罪についても、学校の限界を指摘し、家族の役割を重視する論調が目立っている。家族が「本来の機能」を果たしていれば、子供が「非行」に走ることもなかっただろう、等。ここでも家族の究極の「理想形」が、なんの根拠もなく前提とされてしまっている。家族への回帰を促す論調は、ナイーブすぎて逆に危険である。

無批判に家族の理想形・本来性を前提してしまう傾向の原因はなんだろうか。

一つは、もちろん家族が「血縁」であることだろう。人は、血のつながりが知性以前の感情的な共感を産み出すと、勝手に思い込んでしまっている。血のつながった親子であろうと赤の他人であろうと、相互理解のためにはコミュニケーションが必要であることに変わりない。血のつながりという生物学的な条件が、状況を良くしたり、悪くしたりすることはない。それなのに人々は血がつながっているというだけで、そこに以心伝心を見たがる。

もう一つは、家族が人々にとっての「最後の砦」であることだ。会社でタテ社会の重圧に屈服している父親が唯一暴君たりうるのが家族、社会との接触を失った専業主婦が、子供を通して唯一自己実現できる場が家族、不登校の子供が最後に閉じこもるのも家族、破綻した老人介護制度を最後に押しつけられるのが家族、などなど...。

社会という公的領域で解決不可能な問題、達成不可能な欲望が、最終的な逃げ場を見出すのが、家族という私的な領域である。フェミニズムの分析が明らかにしたように、家族は社会というものが産み出した「外部」であり、結果として社会の矛盾が最終的にはそこへ押しやられる場所である。

だからこそ、人々は社会が崩壊しても、家族は崩壊しないと信じたい。理想の社会が実現できなくとも、理想的な家族は実在すると信じたい。そうして家族の理想形という幻想は社会の矛盾の噴出とともにますます強化されることになる。

では、なぜ家族はそうした理想化を、うけいれやすいのだろうか?社会の矛盾をあきらめたり、そこから目を背けたり、あるいはまったく無関心だったりする人々も、理想の家族の実現にはひじょうに熱心である。社会問題に無関心な人ほど、マイホームパパだったり、子煩悩だったり、良き主婦だったりする。社会問題は難しいけれど、愛する人と理想の家族を築き上げるのは簡単とでも言わんばかりに。

その理由は、ややうがった味方になるが、家族はごまかしが効くからである。都合の悪いことはいくらでも隠蔽できるからである。社会の悪弊は良心的なジャーナリストや批評家がいる限り、いつかは明らかになるだろう。しかし、家族の悪弊は徹底的に隠蔽することができる。幼児虐待や性的虐待、家庭内暴力は、それが私的領域にとどまっている限り、つまり、犯罪など社会的な問題として露呈するまでは、きれいに隠蔽することができる。

いくら家庭の中がめちゃくちゃでも、社会に対して理想の父親・母親であるかのようにふるまうことができる。それが、家庭の理想形をどこまでも肥大させる原因になっている。親は離婚して失敗したけれど、自分はうまくやれる。だって、もともと家族の絆は強いものなんだから。そうやって家族の理想形を正当化するあまり、人は家族の抱える問題に目をつぶり、隠そうとする。それがさらに家族の理想と現実の乖離を広げ、問題の根を深くする。親たちは「うちの子に限って」と言い張り続ける。

これ以上、家族にかかわる病理を悪化させないための唯一の方法は、家族を理想化しすぎないことである。家族なんてひとつの幻想にすぎないというリアルな視点を持つことである。離婚や家庭内暴力、児童虐待は「起こるはずのないこと」ではなく、「誰にとっても起こりうること」という認識に転換することである。

そして、多様な家族像を受け入れることである。家族でどうにもならない問題は、地域や学校、同好会や趣味のサークル、サイバースペースなど、さまざまな人間関係に持ち込めばいい。家族は最後の審級でもないし、最後の砦でもない。そのためにアダルトチルドレンのための避難所となる施設があるし、そうした草の根レベルの「駆け込み寺」はもっと増えた方がいいだろう。

家族の抱える問題は、そのように家族の多様性を認め、家族以外の共同体の可能性を広げることで解決すべきであって、間違っても家族を「本来の姿」にもどすことで解決しようとしてはいけない。そんなことをすれば、家族の病理をますます深めるだけである。

とくに「父権」なる正体不明のものを持ち出すことで、家族をその「本来の姿」にもどそうとする論調が目立つ昨今、僕は家族の脱=理想化と、家族以外の選択肢を増やすことを強く主張したい。