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Irrational Self-confidence

自信過剰な自己中心主義

2003/09/10

僕は奇妙な会議に出席した。まずはこの会議にまつわる状況を描写しておきたい。2人の西洋人の同僚と僕を含む2人の日本人がその会議に出席していた。会議の目的は、とあるITコンサルタント会社からの提案書をレビューすることだった。その提案書は情報技術の特定の事項についてのものだ。その情報技術に関する事項はふつう、非常に高い専門知識か、豊富な経験を必要とする。しかし会議の参加者の中にはこの事項の専門家は残念ながらいなかった。僕らがテーブルの上に用意していたのは、その前の2日間にインターネットから集めてきたいくつかの参考文献だった。以上がその会議の状況である。

2人の西洋人にとって、ITコンサルタント会社からの提案書をレビューするということは、そこに列挙されている項目が完全かどうかを確認することを意味している。列挙されている項目が完全かどうかを確認するために、彼らは国際標準化のためのさまざまな組織が出している文書や、僕の所属している会社の関係会社の文書などを参照するのが適切な方法だと考えている。これは一見合理的な進め方のように見えるが、本当にそうだろうか。考えてみよう。

第一の仮定として、その会議の参加者がその情報技術の事項について完全に何も知らなかったとしよう。この場合、提案書と参考文献のどちらがより良いかを参加者はどうやって知ることができるのだろうか。もちろんできない。そもそも参加者には提案書の品質を(品質という言葉が何を意味するにせよ)レビューする権利がないと言わざるをえないだろう。この仮定に立てば、列挙されている項目が完全かどうかを確認するのはまったく馬鹿げたことだ。しかしこの仮定自体に無理がある。会議の参加者は全員IT部門のスタッフなのだから、その事項に精通していないにしても、何がしかのことは知っているはずである。

第二の仮定として、その会議の参加者がその情報技術の事項について部分的には知っているとしてみよう。この仮定は現実的だ。この場合、僕はすこし違った問いを立てたい。自分たちは提案書と参考書のどちらが良いかを判断できるのだと、僕らは自分自身どうやって確信できるのだろうか。その判断基準を持っているということを自分自身どうやって確信できるのだろうか。その作業をする資格があると、自分自身にどうやって納得させることができるのだろうか。ITコンサルタント会社からの提案書をレビューする資格があると自分自身を確信させるためには、少なくともそのプロジェクトに参加しているコンサルタントよりも自分たちの方がその事項についてよく知っているということを知っていなければならない。僕はそのコンサルタント会社のすべてのコンサルタントについて言っているのではない。少なくともプロジェクトに参加しているコンサルタントについては、その事項について自分たちのほうがより多くの知識をもっているということを僕らは知っていなければならない。

この点に西洋人と日本人の興味深い違いがある。西洋人の同僚たちは僕らはコンサルタントを信用できないと前提する。なぜならコンサルタントは客観的に適切な提案書を書くのではなく、彼らの製品を僕らの会社に売りつけようとするからだ。西洋人の同僚たちは基本的に提案書の品質を信用していないと言える。これは西洋人の同僚たちがコンサルタントより僕らのほうがその事項についてよく知っていると思っているということにはならない。しかし少なくとも西洋人の同僚たちがコンサルタントよりも自分自身を信用しているということは確かである。彼らは非常に自信たっぷりなので、自分たちがあまり知らない事項についてさえ、コンサルタントよりも自分たちのほうが信用するのである。しかし彼らはいったいどのようにして、コンサルタントよりも自分たちのほうが信用できると確信できるのだろうか。これは典型的な西洋的自己中心主義であると認めざるを得ないだろう。というのは、僕らがあまり知らないことについてさえ、他人よりも自分たちのほうが信用できると信じることは、その「他人」がコンサルタントでなくても、明らかに非合理だからだ。西洋的な考え方に関するさまざまなことがらのうちで、自己中心主義はもっとも重要な不条理の一つである。

他方、僕ら日本人はそのような自己中心的な考え方をとることはほとんどない。日本人は自分たちがよく知らないことについて、コンサルタントよりも自分自身のほうが信用できるとも考えないし、コンサルタントよりも自分自身のほうがよく知っているとも考えない。したがって僕らは提案書をそのまま取るか、参考文献をそのまま取るかを、迅速に決定することができる。この点では僕らは西洋人の同僚よりも効率的だ。しかし僕らはすくなくとも自分の会社についてはコンサルタントよりもよく知っていると信じることはできる。だから提案書または参考文献を、自分の会社の特殊な必要性に応じて改造しようとする。僕らにできるのは、それらの文書を改造することだけなのだ。

自分たちが良く知らないことについて、他者よりも自分自身の方が信用できると考える権利は僕らにはない。自分たちが良く知らないことについて、他者よりも自分自身の方が多くを知っていると信じる権利は僕らにはない。もし僕らがこれらのことを信じて自己中心主義的になったとすれば、たぶん間違った判断を下すだろう。適切な判断を下すためには、自分たちの良く知らないことについて、他人よりも自分たちの方が信用できるなどということを疑うだけの謙虚さをもたなければならない。これこそ自己と他者の間の真に実践的で実用主義的な倫理なのだ。そして倫理はつねに合理的である。西洋的な自己中心主義の意味においてではなく、合理的という言葉本来の意味において、そうである。異なる文化を学ぶとき、この謙虚さが最初に学ぶべきことである。ところが西洋人はこの最初に学ぶべきことを決して学ばない。

提案書をすこし改造するだけでそのまま受け入れるべきだと僕が提案したとき、西洋人の同僚の一人は、私たちは他人に管理されたくない、たとえ何かをコンサルタントに外注しても責任は私たちにあるのだ、と言った。まるで彼の考え方が自明であり、僕が何か馬鹿げたことについて話しているかのように。しかし以上の議論を読めば、彼と僕のどちらが本当に合理的か分かるだろう。彼らは自分たちがいかに「西洋的」であるかに無自覚である。それが僕をいらいらさせるのだ。



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