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「みんな日本人」という夢

『もう一人の力道山』小学館文庫

1998/05/05

先日、なんとなくNHK衛星放送を見ていたら、ハンク・アーロンのインタビュー番組が放映されていた。僕は野球にまったく興味がないが、ベーブ・ルースの持っていた本塁打記録を打ち破ったことで大リーグの歴史に残る名選手だということ、そして、彼の記録をさらに破ったのが王貞治であることくらいは知っている。

ただ、そのインタビュー番組ではじめて知ったのは、ハンク・アーロンがベーブ・ルースの記録を破る前後、人種差別的な脅迫状に悩まされつづけていたいたということだ。それほど昔の話ではない。つい二十数年前のことである。当時の彼は脅迫状に対して毅然とした態度をマスコミに示しており、見事に最多本塁打の記録を達成する。

もっと驚いたのは、いまや隠居生活(というほどの年齢でもないのだろうが)のハンク・アーロン氏が、その脅迫状事件のことを「あれは昔の話だ」という言い方では決して語らないことだ。このインタビュー番組の中で彼は、あの脅迫状事件が過去のものではなく、これからもわれわれは人種差別に対して闘っていかなければならないと明言している。

ところで、「日本の」本塁打王・王貞治は在日中国人であり、最多通算安打数を誇る「日本の」安打王・張本勲は在日コリアンである。彼らが「日本」記録を打ち立てようとしたとき、ハンク・アーロンのような人種差別的な圧力があっただろうか。もちろん、ないわけがないだろう。

ただ、ここに日本の二面性があると思う。多くの日本人たちは王貞治や張本勲が「日本の」ヒーローであると素朴に思いなして応援していたに違いない。もちろん日本人のファンのほとんどが、彼らが日本人でないことを知っていた。しかし、「そんなことは大きな問題ではない」というのが共通の意識ではなかったか。これが一見、民族・人種問題に寛容な日本人の一面である。

しかし他面では、王貞治に通名(日本人風の名前)を使うような圧力があったり、張本がじっさいに通名に変えざるを得なかった社会的な圧力が存在する。これが民族・人種問題に不寛容な日本人の一面である。

この一見相反する態度は、表裏一体になって日本人の意識を形成しているのではないか。僕ら日本人が「まあまあ、そう目くじら立てずに。王貞治も張本勲も日本人なんだ」というとき、そこには犯罪的なまでの日本人への同化意識が巣食っている。つまり、日本に住む人間には2種類しか存在しない。日本人か外国人である。そして、王貞治や張本勲は、本人たちがどう思っていようと、日本人が認めた「日本人」である、という強力な同化意識である。

最近、このホームページの読者である在日コリアンの方からメールを頂いたのだが、日本人から「あなた日本語お上手ですね」と感心されて、その誤解を解くのに一苦労したという話をうかがった。多くの在日外国人2世・3世が、同じような体験をしているようだ。

日本で生まれ育った彼ら彼女らが日本語ができるのは当然なのに、僕ら日本人は彼ら彼女らをいともかんたんに「外国人」とカテゴライズしてしまう。差異を差異として受け入れるよりも、完全な異邦人ととらえた方が楽だからだ。

ずいぶん前置きが長くなったが、つい先日、小学館文庫から21世紀国際ノンフィクション大賞最終候補作である『もう一人の力道山』(李スンイル著)が文庫化された。以前から、「日本の」戦後復興のシンボルである力道山が、現在の北朝鮮出身であるという逆説に興味を持っていたので、さっそく読んでみた。

著者の李スンイル(馬へんに日の「イル」の字がパソコンで出ないのでカタカナで失礼します)は、精力的な取材によって、関係者一人ひとりの記憶に埋もれた過去の断片から、今までだれも描かなかった在日コリアンとしての力道山の苦悩の日々をつむぎ出している。

特に、本書の単行本出版の後、関係者からの連絡で明らかになった事実が、「補遺 力道山の鞄」として巻末に納められているが、その金静姫さん(仮名)の証言は、「日本のヒーロー」と祖国統一の夢に引き裂かれていった力道山最後の日々を端的に物語っている。

おそらく当時、街頭テレビで力道山の空手チョップに熱狂した人々のほとんどは、彼が朝鮮の出身者であることを知らなかっただろう。その点は、王貞治や張本勲と事情が違う。しかしたとえ知っていたとしても、日本人は彼を「日本人」として受け入れ、声援を送っただろう。別の言い方をすれば、力道山が自分の出自にかかわらず、「日本人」というアイデンティティーを受け入れる限りにおいて声援を送っただろう。

この本によれば、力道山こと金信洛の心は、彼が日本で得た名声によって3つに引き裂かれていたようだ。ひとつは飽くまで彼を「日本の」ヒーローとして、つまり、悪役「外人」レスラー VS 正義の「日本人」力道山として活躍させようとする日本プロレス興行界、2つめは、彼の実の兄や娘が暮らす北朝鮮と日本でそれに対応する組織である総聯、3つめは、日本と同じ「西側」である韓国と日本でそれに対応する組織である民団。

(ちなみに、力道山はもともと力士として日本に呼ばれたが、相撲をやめて日本のプロレスを起こしたのは、この本によれば角界の人種差別が原因とのことである。たしかに、高見山関の昇格問題はまだ記憶に新しい)

力道山が刺殺されたのは、東京オリンピックを間近にひかえ、南北合同選手団を要請する国際オリンピック委員会と、南北別々の選手団を主張する2つの朝鮮が対立していた時期である(結局、参加したのは韓国選手団だけ)。

「日本の」ヒーローとして成功すれば成功するほど、自分の出自を隠さなければならない皮肉、しかも冷戦の激化にともない、2つの祖国に引き裂かれる思い。それが、日本人の決して知ることのなかった力道山の苦悩であり、同時に、今なお残る在日コリアンの苦悩の側面であると、この筆者は書いている。

まさに力道山の生き方は、在日コリアンの抱える苦悩を凝集していたという意味なのだろう。さて、問題は、この筆者が書いているように、力道山の苦悩は「過去のこと」ではないということだ。

上述したように、日本人の同化意識、つまり、日本人と外国人を峻別して、相手が日本人である限りにおいて「寛容」であるが、外国人としての差異は拒絶するという意識は、ひじょうに根深い。アメリカの人種差別のように、問題が先鋭化しない分、かえってタチが悪いとも言える。

先日、インターネット検索のinfo seekで「鷺沢萠」をキーに検索していたら、彼女の『ケナリも花、サクラも花』の感想を書いているHPが見つかった。そこには「彼女の言葉にはトゲがある」のであまり好きにはなれない、と書かれてあった。

『ケナリも花、サクラも花』については別のページで触れたけれども、彼女個人が、自分のコリアンとしてのルーツをいろいろな形で手探りする過程を描いたもので、もともとの彼女の作風からしてとても「トゲ」のあるような文体ではない。

しかし「トゲがある」と書いたそのHPの作者の感想は、きわめて日本人的であり、僕もよくわかる。日本人にとっての「政治」とは政治屋の政争でしかなく、日常生活に政治的な力関係が発生しうることに、日本人はあまりに無頓着なのだ。

政治という言葉が悪ければ「差異」でもいい。和をもって尊しとなす日本人は、日常生活に「差異」を持ち込まれることを本能的に嫌っている。だからほんのかけらでも、民族とか人種とかいった「差異」を持ち込まれると、「そう堅いこと言うなよぉ」と、逃げる。

女性差別にしても、民族や人種の差別にしても、日本人は「差異」がまったく存在しないという居心地の良い幻想のなかに生きている。その夢見心地を破られると、異常に不機嫌になるのがいかにも日本人的である。その不機嫌さが「トゲ」という表現にあらわれている。

55年体制と経済成長によって熟成された均質的日本社会、その中で甘美な「夢」を見続けている日本人は、力道山が戦後復興という「夢」のスターである限りにおいて彼を受け入れ、今も彼の功績を称える。

しかしその影で、多くの在日コリアンたちが力道山と同様の辛酸をなめていたことを、きれいにフレームの外にトリミングしてしまっている。

日本人としての僕らの快適な社会は、そうした「夢」の中でしか成立しないことを、僕ら日本人は認識すべきである。王貞治も張本勲も、僕ら日本人の「夢」の中ではあこがれの「日本の」ヒーローである。ただそれが「夢」である限りにおいて。

在日外国人に対して「あなた日本語お上手ですね」と言ってしまう僕らは、その「夢」にすっかり溺れて、重要な感覚を完全にマヒさせられている。このページを読む人がその「夢」から覚めようと思うなら、まず知ることだ。手がかりは力道山の素顔でもいい。そして考えること。



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