英米型のシビアな競争社会は結果的に「デジタル・デバイド」などマイノリティーと多数派の経済格差を縮める。日本経済新聞は最近の一面連載でこのように書いたが、このページの「愛と苦悩の日記」ではそんな考え方はあまりに楽観的すぎると批判した。
ちょうどいいタイミングで英『The Economist』2000/05/20-26号が、好況にわく米国経済の暗部をえぐり出して、日本経済新聞の能天気さと格の違いを見せつけている。同号の特集「米国の貧困」は「Out of sight, out of mind」と題し、米国の貧富の格差が全体的な指標としては一見改善されているように見えるが、実際には深刻さの度合いを増していることを、さまざまな統計から立証している。
以前からくりかえし書いていることではあるが、最近の日本経済新聞はニューエコノミー論など米国のアッパーミドルのための経済論調の尻馬に乗っている感があるので、そのあたりは英『The Economist』誌などを読んでちゃんと補正しておくよう、読者のみなさんには強くお勧めする(ちなみに日本語版の『エコノミスト』では英誌の代替にならないのではないかと個人的には思う)。
米国の下位20%の低所得者層の所得は、1993年から1998年の間にたしかに2.7%増加しているし、貧困率(4人家族で年収$16,660ドル以下)は1990年代で最低水準になっているが、1970年代と比較するとまだ高い水準にある。米国の子供の5人に1人が貧困というのは西欧先進諸国にくらべると倍の高さだし、黒人家庭の4分の1、黒人の子供の4割が貧困状態にあるということだ。また、世帯収入の高収入上位5%は伸び続けているのに対して、最下位の20%は横ばいで、高所得者層と貧困層の収入格差は拡大する一方だ。
これらは単に米国型資本主義の帰結である弱肉強食社会(Darwinian society)やセーフティー・ネットの不備だけが原因ではないと『The Economist』誌は書いている。では米国の貧困層が1960年代以来どのように変質しているのか、またその変質によって貧困層が貧困から抜け出しにくい条件が強化されつつあるということ(同誌はこれを「poverty trap(貧困の罠)」と呼んでいる)などについては、ぜひ直接『The Economist』誌の記事を読んで頂きたい。
同誌の記事についてはこれくらいにして、重要なのは『The Economist』誌が貧困の問題について決して諦観の姿勢をとっていないということだ。おそらく米国でニューエコノミーを手放しで賞揚している人々の多くは、貧困は競争社会の必要悪だと考えているだろう。競争の結果として一定の割合の人々が貧しくなってしまうのは当然だということだ。
しかし『The Economist』は米国の所得格差が拡大しつつある状態を「悪い」と判断している。この判断は経済学的というより倫理的なものだ。米国型資本主義の肯定的な面ばかりに注目しがちな日本経済新聞は、経済の背後に本来あるべき倫理的な価値判断ができていないということになる。『The Economist』と日本経済新聞の本質的な差異はここにある。
「経済的に低迷する日本は米国型資本主義を導入すべきである」と言う前に、それは何のためなのかを考える必要がある。好況になれば自動的にすべての人々に恩恵が及ぶと考えるのは、上記の『The Economist』誌の記事を参照するまでもなく、当の米国を見る限りにおいても誤りである。
しかし日本経済新聞などの論調は弱肉強食の社会への移行を自己目的化してしまっている。資本主義経済をより大きなビジョンから俯瞰できるほど日本の経済論壇は成熟していないということだろう。「失われた10年」以前と以降で極端な自己肯定と自己否定に振れる日本経済についての議論が、何よりもそのことを示している。