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![]() 正義のための不服従 ( 19980419 ) このページのとある読者からもリクエストがあったので、パポン裁判第2弾といきたい。 ついにパポン被告に判決が下った。去る4月2日のことだ。なぜ4月2日のことを今ごろ(このページを書いているのは4月19日)書いているのかと言えば、週刊の「ル・モンド」紙でパポン裁判判決が掲載されたのは4月11日号。その4月11日号が日本で(名古屋で?)手に入るのは4月14日ごろ。だから、僕がゆっくり記事を読んでこうしてホームページに掲載できるのは、判決から2週間以上もたってからになるのだ。 ただし、米「ニューズウィーク」誌の4月13日号に掲載された同じパポン裁判判決の記事は、4月11日にもう読むことができた。地元フランスの週刊紙よりも米国の週刊誌の方が早いというのは、まぁ両国と日本の親密度を考えれば仕方のないことではある。 ここで問題にしたいのも、「ニューズウィーク」誌と「ル・モンド」紙でのパポン判決の取り上げ方の違いだ。そのあまりの違いに、みなさんも唖然としてしまうこと請け合い。 まず、地元「ル・モンド」紙から。もちろん国際版週刊「ル・モンド」4月11日号は、1面トップで報じている(ちなみにそのすぐ左には、円の急落、日本23年ぶりの大不況の記事がある)。さらに、8面の論説、9面の司法面と、ほぼ丸々2面を割いて報じられていることからも、フランス国内でいかに物議をかもした裁判であるかが分かる。 ひとことで言えば、すくなくとも「ル・モンド」の論調を見る限りでは、フランスはできるだけ多くのことをパポン裁判から学ぼうとしている、ということだ。それはもちろんヴィシー対独協力政権をもう一度反省することであり、いまだに存在する、ヴィシー政権をなかったことにしようとする意見への挑戦でもある。 同紙は書いている。「人道に対する罪の罪科を決定することは、ユダヤ人に対する占領下フランスの行動をすべて(globalement)裁くことである」。「諸外国と同じくフランスでも、多くの人々は記憶に埋もれた時代を裁くようなことはありえないと考えていた」けれども、「不可能な、ありえない裁判が、起こった」。この裁判は「政府の犯罪を白日の下にさらし、政府高官の責任逃れをしりぞけるものである」。「これまで以上に、政府高官、そして市民も、非人道的な法律の言いわけのために、服従の義務をもちだすことはできないのだ」。 そう論じた上で、同紙の記事はパポン裁判から「教訓」を引き出す。職務上の義務に従っただけだ、というのは言いわけにならない。「服従にもそれなりの美徳はあるが、責任こそが最高の美徳である」。 さらに、ボスニアからルワンダまで、パポン裁判の残した教訓の射程は現代にまで及ぶとして、「人道に反する罪のあるところ、組織の歯車のどの一つとして無罪ではありえない」と断言している。 「別の名、別の顔で彼ら(パポンやナチ)が現れたとき、このことを思い出そう。私たちが何であるか、そしてどうあるべきかについて、二度と欺かれないために」。これがパポン裁判に関する記事の結びの言葉だ。ちなみにこの記事のタイトルは「Savoir desobeir」(日本語に訳しにくいー。「不服従を知る」、「不服従の能力」。要は、言われたとおりにやっただけです、ではすまんぞ!反抗すべきときは反抗しろ!という意味)。 確かにパポンに対する懲役10年の判決では、ユダヤ人虐殺に関する直接の関与は否定され、強制移送の罪の部分だけが裁かれたわけだし、パポン氏は即日上訴したため拘禁されず、今は「自由の身」である。その意味で損害賠償請求人(parties civiles)を完全に満足させる判決とは言えない。 しかし、ミッテラン大統領時代に政治的圧力で一旦は「ブレーキのかけられた」裁判が、有罪の形で一応の決着をみたことは、フランスの正義(=司法)がちゃんと機能していることを示してはいないか。 もちろんフランスが移民などのマイノリティーの問題について御手本になる国だとは言い難いかもしれない。だからこそパポン裁判が現代的な射程を持っているのかもしれない。しかし、50年前を倫理的に再検討する意志を、この国は持っている。 さて、次に「ニューズウィーク」誌のパポン裁判に関する記事を見てみよう。タイトルは「有罪、ただし軽罪(Guilty, But Not Very)」。このニューズウィーク誌の記事だけを読んだ人は、パポン裁判はフランス人にとって郷ひろみの『ダディ』程度の意味しか持たなかったのだ、と思うだろう。 原告側裁判官の一人が、この判決をpolitically correctと言ったことに言及し、「裁判、と言ってもいいかどうか分からないような裁判は一応終ったが、多くのフランス大衆は、老い衰えた文官がおそらく刑務所で一日も過ごすことはないだろうと知って、ホッとしているようだった」 ご存知でない方のために。politically correctとは、政治的配慮の行き届いたというような意味で、たとえば実業家のことをbusinessmanと言うのは、政治的マイノリティーとしての女性にたいする配慮に欠けるから、business-personと言いかえましょう、といったような、どちらかと言えば些末な問題に使われることが多い概念だと思う。 「ニューズウィーク」誌は、パポン裁判の判決をpolitically correctな判決だと言い、guilty, but not veryとして解決したとだけを取り上げることで、まるでフランス人の大半は、ヴィシー対独協力政府のことなど過ぎ去った過去で、無関心であるかのように報じている。 「ル・モンド」は、ヴィシー政府は過ぎ去った過去ではなく、いま起こりつつある過去であるとさえ言い、「ニューズウィーク」は、そんなの過ぎ去った過去であると軽くあしらう。この温度差は一体何なんだ?と問わずにはいられないだろう。 で、日本は?まぁ、南京大虐殺はでっちあげだ!なんて言い出す人たちがいるくらいだから、言わずもがなだ。僕らにとっては、従軍慰安婦も、南京大虐殺も、過ぎ去った過去も過去、そんな過去の遺物にかかずらわってるヒマがあったら、今の不況をどうにかしろ!ってことだね。よきパートナーであるアメリカ合衆国ももちろん、「ニューズウィーク」を見て分かるように、この考えに大賛成でしょうね。今さら過去を云々してどうなるって。 でも、「ル・モンド」は書いている。より大きな倫理のために、ときにはdesobeir(不服従)も必要だと。会社のためなら犯罪をおかしてもいいんだろうか?国家のためなら殺人も許されるのか?「人道に反する」とはどういうことか? パポン裁判からより多くのことを引き出そうとしている点で、「ル・モンド」の記者の方が、はるかにまともだと言えるのではないか? 賢明な読者のために付け加えれば、「ル・モンド」紙の記事にも問題がないわけではない。高潔なフランスと犯罪者ナチ(とその加担者)を対比させることで、フランス革命以来のいかにもフランス的なスタイルで、愛国心をあおっているという読み方もできるかもしれない。「ル・モンド」紙の記事が、やたらと高揚した調子になっているのも、ややうさんくさいところはある。 しかし、同じ記事の中で、1990年から1994年にわたるルワンダの大虐殺で、フランス中央政府が武器供与などの形で間接的に関与していることにも触れ、これとホロコーストの連続性を指摘している。この点、たとえ「自由=平等=博愛」の「博愛(fraternite)」が上野千鶴子の言うように、「フランス人」かつ「男性」を意味しているとしても、何の理念もないどこかの国のopportunistたちよりはましだと言えるだろう。 無断転載禁止
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