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![]() 正義のための不服従 ( 19980227 ) たまに週刊か日刊のル・モンド紙を名古屋栄の丸善で購入することがあるのだが、以前から毎日のように1面のインデックスに登場するフレーズがあることに気付いていた。 「Le Proces Papon」(パポン裁判)。ル・モンド紙には日本の新聞にない「司法」面というものがあるくらいだから、毎日なんらかの裁判の経過が取り上げられるのは当然として、こうも頻繁に取り上げられる「パポン裁判」とはなんだ?と気合を入れて紙面を熟読してみた。 結果として分かったのは、どうやらパポンという人物は、第二次大戦中、ご存知のようにフランスを支配していたナチスのかいらい政権であるヴィシー政権の下で、ユダヤ人の収容所への護送にあたって責任者のような役割を果たした高官らしい、ということだ。 ただ、その日の紙面を読んだだけでは、数十年前に法廷に提出された報告書がどうだのと、裁判のディテールしか分からないので、さっそくヤフー・フランスで「Proces Papon」と検索してみる。だいたい、どうしてフランスは今ごろ戦犯裁判をやらなきゃいけないんだ? 検索してみると、何とヤフー・フランスには、このパポン裁判専用のページができているではないか。この裁判の舞台はボルドーだから、僕はてっきりボルドーのローカルニュースだとばかり思っていたが。 ヤフー・フランスの「le grand debat」(大論争)のパポン裁判のセクションには、L'EXPRESS誌の世論調査結果へのリンクがある。 「第二次世界大戦は、あなたにとってどれくらい昔のことですか?」
これだけを読むと、教科書から従軍慰安婦や南京大虐殺などを消し去ってしまおうという一部の日本の人々と違って、フランス人の意識の高さがうかがえる。 同じ世論調査では、ヴィシー政権について「もう充分語られている」が51%、「不十分」が42%だが、これはむしろ大戦中の対独協力について自己批判は十分なされているというフランス人の評価だろう。 でなければ、今だにヴィシー政権の高官を裁くなどということもないわけだが、同じ世論調査で、パポン他、大戦中の「人間性に反する行為」による訴訟が、近年相次いでいることについては、
ヴィシー政権の過ちから十分に学んでいるという人は35%、不十分だという人は57%で、自分に厳しいフランス人の意見がうかがえる。 確かに、この世論調査を行った「L'EXPRESS」誌が左翼系の雑誌であることを割り引く必要はあるだろうが、1950年代、早々に「もはや戦後ではない」と決め込んだ国とは大きな差がある。だから、教科書をいまさら書き直そうという人々が、論壇で一定の発言力を持ったりする国なのだ、日本というところは。 そろそろ本題のパポンにもどろう。いったいパポンって誰? これも、ヤフー・フランスからリンクが張られているル・モンド紙のデータによれば、1942年から44年まで、フランスのジロンド県知事、パリ警視総監、大蔵大臣と高位高官を歴任している。 彼は1910年生まれで、地方名士の息子として育ったらしい。大学で法律学、心理学、社会学などを修めながら航空大臣秘書として働き始め、1935年に内務省に入省、その後さまざまなポストをへて、1936年、ファシズムの台頭に対抗した人民戦線内閣に参加、社会主義者としても活発に活動している。 1939年夏、少尉として召集され、植民地第二歩兵連隊に配属、トリポリに送られている。そして、1940年フランス対独降伏、ヴィシー政権が誕生し、パポンはフランスに残ることを選んだ。急進的社会主義者から、ヴィシー政権の掲げる国民革命へ、ゆっくりと傾斜していく。 内務省官房長官としての職務は、対独降伏によって混乱した行政の再建であり、とくに政治的なものではなかったが、1941年2月の副知事への昇進が、すでに大規模な粛正が行われていたこの時期、彼の立場を変えた。同年春に94人の官僚が罷免、104人が退職、79人が配置転換となった。 パポンは派閥闘争を楽に乗りこえ、1942年4月発足したラバル内閣の強硬な内政政策を支持、県知事人事の刷新が実行された。求めに応じてジロンド県の知事補佐に就任。パポン自身は、ヴィシー政権での自分の地位が、政権への批判やド・ゴールシンパを疑わせる率直な物言いのために、脅かされていたことを、その理由としている。 しかし、反政府に燃える青年を、知事補佐のような要職に任命するわけがないし、さまざまな資料も、パポンの積極的な協力を裏付けていると、ル・モンドの記事は書いている。 実際、1940年秋に成立した反ユダヤ政策に大きな助力をし、1942年7月パポンが作成した報告書によれば、204の企業の「非ユダヤ化」、64の地所の競売、493は「非ユダヤ化の途中」。パポンの署名した条例は膨大だが、大規模な土地収用も、ユダヤ人逮捕と強制収容所への送還には比べようもない。 ナチ親衛隊は、フランス警察に逮捕すべきユダヤ人の「申し分ない」人数を言い渡し、フランス各県は割り当てられた人数の男性・女性・子供を引き渡す義務があった。パポンももちろん1942年6月、ユダヤ人逮捕条例に署名しており、同7月には収容所への最初の護送列車を送り出している。この体制はフランスの解放まで続いた。 続きはまた後日。 「第二次大戦当時のフランスと言って、思いつくことは何ですか?」(複数回答)
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