名古屋に住んでいる関係で、大阪への帰省に近鉄特急をよく利用する。いよいよ終点の難波に近づいてくると、列車は鶴橋駅を通過する。車窓から見下おろす雑然とした町並みを眺めながら、これがほんとうに僕の生まれた町なのだろうか、と思う。
それを確かめるために、十数年ぶりに自分の生まれた界隈を訪れた。幼い頃は両親に手をひかれて訪れたこともあろうが、一人で訪ねるのは初めてだ。
僕は大阪の桃谷で生まれた後、幼稚園に入る前に泉南の新興住宅地に引っ越し、中学生でふたたび大阪市内の集合住宅に移った。大学は東京で過ごし、今は名古屋で生活している。
中学生のころから過去を振り返りたがる年寄りじみた性癖があって、たびたび昔住んでいた場所を訪れている。
小学生時代を過ごした新興住宅地へは、大学時代に訪れている。JR阪和線の駅からなだらかな坂道を上りつめた台地に、百棟もの集合住宅が群れをなしている。
真昼の新興住宅地はまるでゴーストタウンで、児童公園のジャングルジムは記憶よりやけに小さく見える。いちばん幸福だった時代の面影を求めていったつもりが、そこはコンクリートで塗り固めたれたよそよそしい土地でしかなかった。
社会人になってからは、大学の一時期を過ごした東京の日野市を訪ねている。
アルバイトをしていた駅前の学習塾は盆休みでシャッターが閉まっている。僕によくなついてくれた母子家庭の男の子、私立探偵になりたいと相談を持ちかけてきた中3の女の子。教え子の姿を駅前に探すけれども見つかるわけがない。
いったい自分は何を期待して昔暮らした土地を訪ねるのか。おそらくそこに、あたたかく迎え入れてくれる「ふるさと」のようなものを期待していたのではないか。
かつて「猪飼野」と呼ばれたJR鶴橋−桃谷駅界隈は、僕の本籍ではあるが「ふるさと」と呼べる場所ではない。父方の祖父母は僕が物心つくまえに亡くなっているし、母方の祖父母ももう存命ではない。暖かく迎え入れてくれるものはなにもない。
近鉄鶴橋駅の改札を出ると、JRの高架下に鶴橋商店街が広がる。
商店街という言葉から、ガラス張りのアーケードに、整然とならぶブティックやドラッグストア、などといったものをを想像してはいけない。昼間でも外の光が差し込まないガード下に、頭のつっかえそうな狭い路地が網の目のようにはいまわっている。
路地にはみ出す勢いでならべられた店頭の棚に、野菜にまじって韓国の食材が積み上げられている。食材の包装にはハングルのロゴ。大阪弁の雑踏をぬけだしてようやく真夏の太陽の下に出ると、高架沿いの商店の看板にもハングルが描かれている。錆付いた金網に「朝鮮・韓国同胞結婚相談所」という文字の消えかかった看板が傾いている。
いつかホームページで見た「Welcome to Korea Town」というスマートなキャッチコピーにほど遠く、たぶん僕が生まれた頃と寸分違わぬ泥臭いエネルギーが鶴橋商店街の狭い路地に充満している。不思議と手足に力が満ちてくる。
僕の世代はたぶん「ふるさと」というものを持っていない。
生まれたときから都会のど真ん中で生活し、両親も都会で育った場合が多いのではないか。だから自分のルーツを問いたくなる年齢に達したとき、自分の過去を昔語りしてしまう。中学生の女の子が「今まで生きてきた中で...」なんていう台詞を、何のきざっぽさもなく口にする。
今までのできごとをひとりで反すうしながら、誇張された自分史をでっちあげ、それを自分のルーツにする。歴史とはつまり自分が生まれてから今までのできごとであり、それ以外の何物でもない。
僕にとっても、自分の生まれた場所である限りにおいて、鶴橋や桃谷は歴史的な場所になる。そこが「Korean Town」と呼ばれるにいたった経緯は、僕にとって歴史ではないのかもしれない。
ちょうど昼どきだったので、思い切って駅前の焼き肉店に入り、もやしナムルと冷麺を注文する。辛いものが苦手な僕は、27歳の今になるまでキムチをキムチと分かって食べたことさえなかった。
ナムルを僕のテーブルに置こうとしたウェイトレスの手が一瞬止まり、
「2番テーブルでええの?」
と、調理場に確認してから皿を置いてくれる。
ほどなく銀色のボールにたっぷりと赤いスープ、そのなかに透きとおった麺が折りたたまれた冷麺が出てきた。
麺の上には白菜のキムチが2、3切れへばりついている。いかにも辛そうな色にためらいがあったが、食べ始めると歯ごたえのある麺が次の一口を誘う。僕にとってはかなり辛い部類の食べ物に入る冷麺を、一気に平らげてしまった。
店を出てJRの高架沿いに桃谷駅に向かって歩いていく。高架下のそれぞれの区画には小さな印刷会社が連なって、流れてくるインクの臭いが鼻を突く。
鶴橋の雑然としたミクロコスモスが嘘のように、桃谷駅周辺はすっかりおとなしく飼い慣らされた顔になっている。どこにでも見かけるファーストフード店やコンビニ、明るいアーケードの商店街。
高架下をくぐって、ふたたび鶴橋駅に向けて歩き出す。静かな住宅街だが、二階建ての家はほとんどなく、長屋のようなつくりの背の低い家が並んでいる。自分が育った家もそんな家だった。いつの間にかもとの道に出たり、路地が行き止まりになったりをくり返す。
どの路地にもぼんやりとした記憶がある。四散した記憶の断片をもとどおり張りあわせても、育った家への道ができあがらない。いくら歩いても核心を迂回して永久にじらされ続けているような気分になる。
とうとうあきらめた僕はいつの間にか、もとの鶴橋商店街に迷い込んでいた。濃密な空気に息詰まりそうになりながら、やっとのことで近鉄の改札をさがし当てた。
ホームから見下ろす鶴橋の町は、近鉄特急の車窓から見慣れた表情にもどっている。やっぱりここにも何もなかった。たぶん僕らの世代の日本人は、どうあがいても失われたルーツを取り戻すことはできないだろう。
この夏、僕は在日コリアンの人々が書いたさまざまな文章を読みあさっていた。
日本人の嫌韓感情を糾弾する激しい文章から、二十代もなかばを過ぎてから自分がクォーターのコリアンであることを知った鷺沢萠の韓国留学エッセーまで。もちろん柳美里の最新エッセー集も。
日本と韓国が抱える問題について正確なことを知りたいという欲求と、最近とあるインテリ漫画家がやっきになって批判している自虐精神も理由にあっただろう。
しかし、鷺沢萠のエッセー集『ケナリも花、サクラも花』を読んで、自分の「韓国熱」のほんとうの理由を思い知らされた。
渡航手続でとちった彼女に、韓国領事館の女性がかけた「ガンバッテネ」という日本語。新宿梁山泊の守珍さんが、僑胞に混じっている彼女の肩をたたきながら言った「そうか、えらいねえ」という言葉。
韓国を嫌っていた彼女の母が初めて韓国を訪れてから、ハングルに愛着を感じるようになるという部分。そしてエッセー集のタイトルになっている、韓国の女性ジャーナリストとのエピソード。
こうしたくだりで、僕は目頭が熱くなるのをおさえられなかった。ぜひ皆さんには原文をあたっていただきたい(『ケナリも花、サクラも花』鷺沢萠・新潮文庫:彼女の書くものは芥川賞選考委員の先生方にはお気に召さないようだが...)。
柳美里が解説文に書いているように、在日コリアンが本国の韓国人に親切にされるのはひじょうにまれなことらしい。しかし、あえて不謹慎な言い方をすれば、朝鮮・韓国人の人々が使う「同胞」という言葉のあたたかさに、僕は嫉妬を覚えるのだ。
日本人がショービニズムや「帝国主義」の臭いなしに、日本人としての民族意識を肯定することは難しい。むしろ日本人は敗戦後、日本人であることを否定することで前進してきたと言えるかもしれない。
そのせいで、とくに僕らの世代は完全にルーツを失っている。自分が何者であるかという最低限のよりどころさえなくしている。それが僕に在日コリアンの人々の「同胞」という意識をうらやましく思わせていた違いない。
日本人はその民族主義ゆえに多くの過ちを繰り返してきた。在日も含めて、韓国・朝鮮の人々はそのために過酷な境遇に耐えなければならなかった。
僕らはその罰を確実に受けている。つまり、自分が日本人であるという当然のことさえ、「帝国主義」の含意なしに肯定することができないでいる。僕らが過去をきっちりと清算するまで、在日コリアンの人々がいう「同胞」にあたる言葉を口に出せないということだ。
いったい僕らが日本人であることを素直に肯定できる日は、いつ来るのか?
韓国人クォーターであることに、自分の新たなアイデンティティーを見出しつつある鷺沢萠の「明るさ」を前にして、僕はどうしたらその日が来るのだろうかと考えている。
鷺沢萠
1968年、東京生まれ。父方の祖母が韓国人であるクォーター
上智大学外国語学部ロシア語科除籍
1987年、18歳のとき「川べりの道」で文學界新人賞受賞
1992年、「駆ける少年」で泉鏡花賞受賞
1997年、「君はこの国を好きか」で芥川賞候補に