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さよなら中間管理職
( 19980727 )

Japanese/English

久しぶりに英『エコノミスト』誌の記事をとりあげる。先の参議院選挙での自民党大敗がトップ記事の、アジア版7月18〜24日号である。

後継総裁に選ばれた小渕氏に「dull(鈍い)」という形容詞を冠して、相変わらず日本に手厳しいが、国内でもにこきおろされている同氏をこのホームページでわざわざ取り上げても面白くない。

僕が注目したのは「ビジネス」欄のトップ記事の方だ。ご承知のように『エコノミスト』は、アメリカ合衆国、ラテンアメリカ、国際、ヨーロッパ、イギリス、ビジネス、金融・経済、科学・技術、などに章立てされている。

その中でも「ビジネス」欄は、世界中の企業が直面するさまざまな問題をかみそりの切れ味で批判していて面白いが、今回取り上げる号は日本企業の中間管理職を断罪している。題して「さよなら、サラリーマン」。

このホームページの英語版では、去年すでに日本の中間管理職が日本企業の変革を阻害していると論じるエッセーを公開しているが、『エコノミスト』のこの記事も容赦がない。

「日本企業が生き抜くためには、中間管理職の役割を変革しなければならない。しかしそれは簡単なことではない」という文章で始まるこの記事の挿し絵は、経営者とおぼしきスーツ姿の男が、ダンボール箱に見立てた高層ビルを頭上にかかげて、この箱の中にある小さな人形たちを、涙をのみながらゴミ箱に捨てている図だ。この小さな人形たちは、もちろん中間管理職のことであろう。

記事は、まずアメリカ合衆国のホワイトカラーを評価している。合衆国のマネージャー層は、企業のダウンサイジングによる首切りで苦境に立たされたこの10年間、新たな時代に適応しようと必死の努力を続けてきた。

これに対して日本企業は、重厚長大型産業からハイテク産業へ転換するビジネス環境に依然として適応できないでいると断じる。日本企業は、経済成長を前提とする終身雇用を、もはや維持できなくなり、早期退職制度を導入し始めている。

しかしそうした雇用の流動化の最大の障害になっているのが、「中間管理職」であるとし、「窓際で怠けている人々(all those men idling by the window)」を大量に生み出してしまった日本企業の人事制度を批判している。

つまり、入社以来、たいした能力調査もなしに、あちこちの職場や事業所を転々とさせ、日本のマネージャーは専門的能力を身につける機会がまったくない。会社側は彼らに「職場の政治学(office politics)」を体得させるだけ。「サラリーマンは、よりよい三菱マン、三井マン、あるいは会社が望めばどんな人間にでもなろうと、身を削る」


「こうした慣行を何十年も続けてきたために、日本企業の歩兵はジェネラリストの集団になってしまった。中間管理職たちは、ほかでも通用するスキルがなく、忠実な雇われ人になること以外の訓練をうけていない。日本企業は幹部候補の採用・研修・昇進すべてを変える必要がある」

このような問題点に気づいている日本の経営者は少なくないが、誰も変えようとしない。こうした雇用慣行に不満をもつ若者や、専門的な能力をもったマネージャーをねらって、外資やヘッドハンターが日本に進出していることを紹介した上で、この記事は次のように結論づけている。


「多くの欠点はあるけれども、ジョブ・ローテーションや、会社特有の研修といった雇用システムのおかげで、日本企業は欧米企業に対してある程度優位に立つことができた。しかし残念ながら、資本が高価になり、未来が不確実になった今、それでは生き残れなくなっている。おそらく、革新的な日本企業は、両方のシステムの良いところを組み合わせるだろう。しかし欧米企業もまたつかみどころのない第3の道を追い求めている。そして、欧米企業の経営者たちが日本の経営手法を褒めたたえる記事のおかげで、外国人たちは2つのシステムの中庸を見出すのに(日本企業よりも)10年先んじている」

この結論部分は重要であるが、ほんとうの意味を理解できる人がどれくらいいるか、僕は不安だ。

おそらくほとんどの人が、「日本の経営手法にも良いところはあるんだから、すべてを捨てろとは『エコノミスト』も言っていない」程度の理解にとどまるだろう。しかし、事は「手法」のレベルの問題ではない。

嘆かわしいことだが、最近は日本経済新聞の朝刊第一面「新しい会社」という連載記事でも、日本の経営手法のすべてが悪いわけではない、という論調が目立つ。確かにそのとおりだが、逆に考えれば、「すべてが悪い方法論」なんて世の中には存在しない。すべての方法論は、良い点もあり、悪い点もある。

つまり、日本企業が採用している方法論にも一長一短あるし、欧米の企業が採用している方法論にも一長一短ある。じゃあ、日本企業に非難されるべきところなどないじゃないか、という結論になる。

この点で日経新聞の連載は自己矛盾に陥っているが、どうやらそれに気づいていないみたいだ。やはり日本的企業に勤務する記者の認識上の限界だろうか。一方『エコノミスト』は、このような矛盾に陥ることなく日本企業を批判できている。

繰り返すが、事は手法のレベルの問題ではない。流行の言葉で言えば、パラダイムの問題なのだ。日本企業と欧米企業の違いは、単なる手法レベルの違いではなく、手法に対する「考え方」の違いなのだ。

欧米企業にとって、手法とはまさに単なる手法であり、時代の変化に応じていくらでも取り替えの効くものである。むしろ取り替えなければならないものである。一方、日本企業にとって手法こそが企業文化を支える基盤であり、それを変えることは企業のアイデンティティーそのものをくつがえすことになってしまう。

たとえばJITを例にとってみると、欧米企業はそれが今の時代にまさに必要になったから採用したのであり、将来、必要がなくなれば惜しげもなく捨ててしまうだろう。しかし日本企業にとってJITとは自分が自分であるための理由みたいなものだ。時代が変わったからといってそう簡単に捨て去れるものではない。

終身雇用やジョブ・ローテーション、ジェネラリスト指向の研修メニューにしても同じこと。日本企業がそれを捨て去ることは、ひじょうに難しい。このように、日本企業と欧米企業の違いは、手法の違いにあるのではなく、手法に対する態度の取り方にある。

それを考えれば、日本企業の適応能力のなさが絶望的であることに気づくだろう。『エコノミスト』が批判したいのは、まさにこの点なのだ。つまり、『エコノミスト』は日本企業に、欧米企業の手法を取り入れろと言っているのではない。手法に対する「考え方」や「態度」を取り入れろと言っているのだ。

ものの分かったような日本の批評家たちは、よく「和魂洋才」と言う。魂は日本的なままで、手法だけは欧米のものをどんどん取りいれようという意味だ。しかし、彼らは完全に間違っている。

日本企業に本当に必要なのは、「洋魂和才」である。つまり、時代の変化に応じてこれまでの手法を惜しげもなく捨て、身のこなしの軽い欧米流の「魂」をもつことだ。そいう「魂」をもちさえすれば、おのずと正しい手法は選ばれ、変化のない時代にも、変化の大きな時代にも適応できる。

日本企業は、頑迷におのれの思想を説きつづける哲学者に似ている。それに対して欧米企業は、さまざまな哲学者の説く思想を自由にコラージュして、自分にあった方法論を作り出す才能にたけている。両者の違いは、手法のレベルの違いではなく、パラダイムの違いであるという意味がお分かりいただけただろう。

こうした類型論にはあまり意味がないとおっしゃる読者もいるだろうが、はたしてそうだろうか?会社員の方は自分の勤めている会社を振り返ってみられるとよい。

さまざまな方法論のコラージュ、自由に飛躍する発想、膨大な情報から自分に適したものを選択する能力、こうした遊牧民的なスピリットは、ネオアカの洗礼を受けたものにとってはポストモダンの思想を思い起こさせるイメージだろう。

そう考えると、ポストモダンの思想は、大きな変化を迎えた時代に生まれるべくして生まれた、ひとつの経営戦略であるとも言える。


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