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![]() 人畜無害のフィクション ( 19970819 ) 僕が生まれたのは大阪市生野区、日本有数のコリアンタウンである「猪飼野」の近くである。 3歳頃まで暮らしたその町の商店街に、極彩色の民族衣装を売る店があったのをわずかながらおぼえているが、その衣装をチョゴリというのだと知ったのは随分後になってからだ。 今さらのように生まれた土地を思うのは、このごろ「リアリティー」というものについて考えることが多いからかもしれない。 僕は、自分が理屈っぽいことや純文学が好きなのは現実逃避から来るものだと考えているいるせいか、社会人、とくにサラリーマンと呼ばれる人々にコンプレックスを持っていた。実業にたずさわるサラリーマンは厳しい現実に立ち向かっているが、自分は空想のぬるま湯にひたっていると。 しかし実際に足を踏み入れるてみると、サラリーマン社会そのものが一つの大きなフィクションであることを痛感させられる。構成員の8割が特定のスポーツを趣味としている集団は、僕の目には全体主義国家の一糸乱れぬマスゲームと同じレベルの「フィクション」に映ってしまうのだ。 サラリーマン社会では会社の規則は絶対だが、国家の法律は相対的であり(実例多数)、会社のためという大義名分さえあれば部下に対して独裁者のようにふるまえる社会でもある。 だからサラリーマン社会に「リアリティー」を語る資格はないと、僕は見切りを付けている。サラリーマンはひとつのロールプレイングであり、間違ってもそこで「リアリティー」を追求してはいけない。 大学に残って哲学の研究を続けていれば、それがそのまま「リアリティー」の探究になっただろうが、サラリーマンとして生活している僕にとってよりどころにできるのは自分の生まれ育った環境だけだ。 僕が「猪飼野」の近くに生まれたという事実は、「リアリティー」を追求するひとつの契機として与えられたのかも知れない。そう言えば、柳美里も在日韓国人だ。 そんな漠然とした考えが形を取り始めたのは、『風の丘を越えて』という映画を見てからだろうか。パンソリの歌い手を通じて描かれた「恨(ハン)」の世界は、日本人である自分とは確実に異質なものでありながら、遠い郷愁をさそう。 もしかすると、鶴橋商店街のあの民族衣装店の極彩色と、BGMに流れていた韓国民謡は、生まれて初めての異文化体験として知らぬ間に現在の僕の一部分になっているのかもしれない。 小学生のとき、姓に「金」の字がある通名を名のっていた瞳の大きな同級生の女の子は、親友でさえもときにおびえるような目で見つめることがあった。生徒たちの父兄の間では彼女が在日朝鮮人・韓国人であることがささやかれていた。 先輩に誘われて入った大学の劇団で音響効果を担当していたが、その劇団に客演した女性は切れ長の瞳が美しい在日韓国人の女性で「キム」という本名を名のっていた。彼女は卒業後広告代理店に就職したらしい。 ちょっと振り返ってみるだけでも、僕は「リアリティー」の核心を回避し続けてきたことがわかる。父親の世代のように「朝鮮人は日本人より劣っている」と断言するようなこともない代わりに、在日朝鮮人・韓国人と正面から向き合うこともなかった。 その欠如を僕はいつ埋め合わせることになるのだろうか。 僕が生きている間に朝鮮半島が統一されるとしたら、日本も当然無関係ではいられない。1991年に参政権をのぞいて在日朝鮮人・韓国人が日本人とほぼ同じ権利を獲得した。現代や三星といった企業が日本で中途採用を行い、在日三世は大半が日本人と結婚するという時代である。 「リアリティー」を回復するチャンスはありそうなのだ。今まで回避し続けてきた、多民族国家日本という「リアリティー」を。 97年大宅壮一ノンフィクション賞受賞作である「コリアン世界の旅」は、在日朝鮮人・韓国人をめぐるさまざまな現実を活写して、日本が多民族国家であるというリアリティーを見事に提示している。 ナインティーナインの「めちゃいけ」で相変わらず強烈なボケをかましている、往年のアイドル・にしきのあきら、日本の心を歌った大御所・美空ひばり、戦後復興のシンボル・力道山、天才映画監督(?)・北野武、彼らにコリアンの血が流れていると知って、日常と「リアリティー」は決して同じものではないと感じないほど鈍感な人はいないだろう。 僕らが毎日顔を合わせている人々が、必ずしも日本人ではないということから、「リアリティー」の回復が始まる。 むしろ僕が一日の大半を過ごす「会社」のように、みながスポーツ新聞を読み、みながゴルフの腕を磨き、みながペナントレースに熱中する、そんな均質な環境はきわめて「特殊」な環境なのだ。 どちらかと言えば、「会社」という制度そのものが、均質さという「フィクション」を作り出すための装置である。均質空間に順応してしまった人々(僕も含めて)が「リアリティー」を取り戻すのは難しい。大震災や異常な事件が起こって初めて開く傷口から粘液質の「リアリティー」が顔をのぞかせる。 おまけに、在日朝鮮人・韓国人のかかえるリアリティーは、僕のような日本に住む日本人よりもはるかに複雑だ。「コリアン世界の旅」は、在日コリアンが長年の日本人による差別ゆえに抱えている複雑なリアリティーにも深く言及している。 在日の人々は朝鮮籍の人々・韓国籍の人々に分かれ、本名で生活する人と通名を名のる人がいる。本名でも日本に帰化する人、通名でも帰化しない人がいる。 無味乾燥な数学をやると、この3点を考慮するだけで在日朝鮮人・韓国人の社会的立場には8パターンある。そして、このような複雑な状況を作り出してしまった日本という国がある。その偉大なフィクションをリアリティーと取り違えて生きている大多数の日本人がいる。 日々「みんなと同じ」であることを確認しようとやっきになっている日本人がいる。先輩がゴルフを始めれば自分もゴルフを始め、酒をつがれればつぎかえす。先輩が通っているパブと同じパブに通い、先輩と同じようににぎにぎしい結婚式を挙げ、そうして一糸乱れぬ均質さを維持しようとする日本人がいる。 しかし、そんなものが単なるつくりごと(フィクション)だと感じざるを得ない人々が一方には存在する。今、日本人は日本人自身の中に均質社会というフィクションの被害者を増やしている。小中学校のいじめ、不登校、果ては神戸小学生殺人事件の被害者。 日本人どうしのいじめの理論を法律の形で制度化すれば、在日朝鮮人・韓国人の困難な立場を作り出してきた日本の法律にほぼ重なるのではないか。いわば日本人は、今まで避け続けてきた在日朝鮮人・韓国人問題の「借り」を、日本人に対して返しているのだ。異質なものを排除するという精神構造が、日本人自身を標的にしている。 在日朝鮮人・韓国人の問題と正面から向き合うことで、学びとれたかもしれない教訓を、結局は学ばなかったために、今、いじめや不登校の問題を目の前にして僕らはなすすべをしらない。 僕らの内部でいつの間にかリアリティーになりすましてしまった「排他」の公式が、僕ら自身に矛先を向けている。僕らは自分で築き上げてきたフィクションの中で、ほとんど息もできなくなりかけている。 無断転載禁止
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