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![]() 倒錯したオリエンタリズム ( 19990609 ) 野中郁次郎+竹内弘高著『知識創造企業』(東洋経済新聞社)を読んだ。この本は最初に英語で出版されて日本に逆輸入された翻訳書である。 正直言ってかなりの奇書だ。この本の主旨をアナロジーを使ってひとことで言えば、「富士山はすごいだろう!日本人が作ったんだぞ!」ということだ。確かに富士山はすごいが、日本人が苦労して作ったわけではない。太古の昔から富士山はそこにあっただけのことだ。 まず、この本の論旨を要約してみよう 「これまで欧米の経営学は、知識が創造されるプロセスを論じたことがない。それは欧米企業が知識創造のプロセスに無自覚だったからだ。それに対して日本企業には独特の知識創造プロセスがある。この本は知識創造のプロセスを世界で初めてまともに論じた書物である。 知識には形式知(マニュアル化・データ化された知識)と、暗黙知(経験から得られた職人技のようないわく言い難い知識)の2種類がある。知識創造のプロセスは、暗黙知を形式知に、形式知を暗黙知に、という絶えざる循環に存在する。この循環プロセスこそが日本企業の強みである。 欧米企業はトップダウン組織とボトムアップ組織の2つに類型化できる。トップダウン組織は、人間を情報処理機械と見なす極端に合理的な組織であり(例:ジャック・ウェルチ率いるGE社)、ボトムアップ組織は平社員の自発性を最大限に尊重する組織である(例:個々の研究者の独創的なアイデアがヒット商品を次々生み出している3M)。前者は形式知に、後者は暗黙知にかたよっている。 日本企業はその中道の『ミドル・アップダウン組織』であり、中間管理職が非常に重要な役割を果たす。これこそ暗黙知と形式知の循環による知識の創造に最適な組織である」以上、要約おわり。 では僕の反論スタート。まず最初に、著者は日本企業がトップダウン/ボトムアップ、形式知/暗黙知の二元論を克服したと主張するが、日本企業はいかなる意味でも二元論を克服などしていない。最初から二元論がなかっただけのことだ。(富士山は最初からそこにあっただけのこと) 次に、著者の言うミドル・アップダウン組織は、日本という特殊な環境でしか成り立たない組織である。つまり社長と平社員の報酬格差が小さく、ホワイトカラーとブルーカラーの教育水準の差が小さく、人種の多様性がなく、男性がほとんどであるという日本の特殊な職場環境・社会環境の前提があって初めて成立するものである。(富士山は日本的風景の中でしか見栄えがしない) (同書p.329で「民族的・文化的多様性が、組織的知識創造の五つの要件の一つである最小有効多様性の『天然の』源泉だ」と述べられている。ならば人種のるつぼであるアメリカ企業の大多数が日本企業よりも知識創造企業に近いはずだ) さらに、ある企業が、トップダウン、ボトムアップ、「ミドル・アップダウン」のどの組織形態を目指すかは、結局トップダウンでしか決定できない。一部の日本企業が、著者のいう「知識創造企業」であるのは、その企業がトップダウンで組織形態を決定することができたからである。つまり「ミドル・アップダウン」であるためには、まずトップダウンでなければならないという循環に陥っている。 これらの矛盾点をまとめると、最初に僕が日本人向きのアナロジーを使って言ったようなことになる。富士山は日本人が作ったのではなく、そこにあったのだ。著者は、日本企業が自覚的に知識創造企業になったかのような主張をしているが、それは間違いで、日本という特殊な環境においては、そうならざるを得なかったというだけである。 この本の功績は、富士山をほめたたえる新たな修辞法を発明したことあり、新しい分析の枠組みを発明したわけでもなく、経営学に思想的な転換点をもたらしたわけでもない。つまり新しい知識を創造したわけではない。 それはこの本が最初に英語で出版されたことに端的に現れている。ここには倒錯したオリエンタリズムがある。欧米人に向かって日本人が必死で富士山の美しさを説いている。著者は「知識創造企業」が欧米企業にも適用可能な経営手法だと主張するが、富士山は起伏の多い日本的風景の中でこそ美しいのであって、果てしなく続くテキサスの荒野にぽつんとそびえていたのでは不恰好なだけなのだ。 無断転載禁止
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