think or die :
1970年代生まれの
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エッセー集
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Definition of Words
定義にまつわる日本的なるもの
2003/07/06

今、丸山真男の『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)を読んでいるのだが、他の著書と違って講義形式の話し言葉で書かれているので非常に読みやすく、面白い本だ。内容は、丸山真男が、みずからもっとも影響を受けた思想家であると言ってはばからない福沢諭吉の『文明論之概略』に注釈をつけて読み進めていく、というもの。限られたメンバーでの読書会がきっかけになって出版された本だという。

本書の中に僕にとって興味深い部分があった。引用してみると、「他動詞を名詞化する例は、ヨーロッパの言葉にはたくさんありますけれども、日本に入ってくると、何故かスタティックに凝固した意味になってしまうのですね。オーガニゼイションを『組織』というでしょう。オーガニゼイションとはもともとオーガナイズすること、つまり組織化ということなのですけれども、組織といってしまうと、すでにでき上がってしまったものとしてだけ受けとられる」(94頁)。

僕はご承知のとおり外国人と日本人の間で日々仕事をしているわけだが、言葉の定義や言語感覚にもとづくこの種の誤解にはよくつきあたる。「organization」という言葉についても、丸山氏が書いているように、ほとんどの日本人は完成された状態のものとしてとらえ、組織化のプロセスを同時に考えることができない。丸山氏は別の事例として「政府」という言葉をあげている。「ガヴァンメントも、ガヴァンすることという動詞の名詞化です。だから、政治過程と政治体制とは実際は不可分です。これを政府と訳してしまうと、決定の不断の過程という側面がドロップしてしまう」(94頁)。

「Organization」という言葉の誤解については、僕は別の原因もあると考える。「Organization」は組織化のプロセスと、その結果でき上がった組織の両方を意味しているのだが、さらに人だけでなく、規則も含んでいる。日本語の「組織」という訳語は、組織を構成する人とその役職しか意味せず、組織を正常に機能させるための規則を除外してしまっている。このようにして日本人は西洋人が「organization」という言葉を使うときの、本当の意図をくみとりそこねている。

もう一つ別の例をあげることもできる。それは「improvement」という言葉だ。1980年代に日本の経営手法が西洋諸国に輸出されているので、多くの外国人が「カイゼン」という日本語を「継続的改善」という意味に理解することができる。「カイゼン」は終わりのないもので、最終到達地点を前提とするものではない。したがって「カイゼン」という言葉が英語に翻訳されるとき、つねに「継続的な」という形容詞をともなうことになる。

しかし日本人にとって「改善」はいかなる理念や方向性も含んでいない。日本の「改善」は経営者の意図を考慮することなく、つねに純粋にボトムアップのスタイルで行われる。「改善」の背後にある前提とは、現場の労働者が自分たちのなすべきことをいちばん良く知っている、ということである。したがって現場の労働者は自分たちの作業を自分の意思で、管理職からの干渉を受けることなく改善する自由を与えられている。日本の「改善」はこのような権限委譲と、労働者の自発的な活動を基礎としている。

逆に、西洋人が「カイゼン」という言葉を使うときは、この側面をすっかり落としてしまっている。西洋風の経営スタイルでは、トップマネジメントの意図はつねに、現場作業者の日常作業にさえも適用される必要があるのだ。作業者の日々の継続的改善活動は、つねに管理職の意図と一致している必要がある。それには管理職が絶えず介入し、変更を加える必要がある。現場作業者の自由をゆるさない継続的改善は、日本人にとっては改善でも何でもない。日本人が改善という言葉を使うとき、現場作業者は自分のやっていることについて意思決定ができる、ということを意味している。

したがってトップマネジメントが現場作業者の日常業務について明確な方向づけをするといったことは、改善の考え方とは相容れない。しかし西洋人はまちがって「カイゼン」という言葉に、トップマネジメントによって明確に定義されたビジョンを付帯させてしまっている。結果として、西洋人と日本人の間に「カイゼン」という言葉に関するすれちがいが生まれる。

以上のような言葉の定義に関する誤解にはすべて、言葉の意味についての西洋人と日本人の根本的な違いが見出せる。西洋人はつねにそれぞれの言葉の意味をはっきりと定義しようとする。それはお互いを理解するための共通の基盤を作る目的もあるが、同時に、当面は言葉の意味を限定しておくことで、定義が変化する可能性を温存するためでもある。

しかし日本人は、はっきりと、しかも静的に定義できる言葉など存在しないと考えている。言葉がその真の意味に達するのは、さまざまな人物に解釈されることを通してなのだ。憲法や六法でさえも、日本の司法システムはそれらの条文に対する解釈をほどこし続けている。

日本人にとって法律とは、じっさいにその法律を使う人たちが解釈することによってしか、現実の世界に適用することはできない。日本人はいかなる種類の規則も、その意味を解釈することなしに考えることはできない。西洋人は法律は将来変更できることを前提としている。そして将来の変更のために、当面の間法律をはっきりと定義するのだ。しかし日本人はこの論理を理解することができない。将来法律を変える可能性があるなら、どうして今その意味を解釈することをしないのか?と考える。

日本的な思考において、定義の変更はつねに解釈する権利を自分たちの手元に置いておくことを含意している。他方、西洋人ははっきり定義するという現時点の行動と、定義を変更する将来の可能性を明示的に区別する。したがって、西洋人が何かの言葉をはっきり定義しようとすると、日本人は、意識的か無意識かにかかわらず、言葉の明確な定義を拒絶する。日本人は言葉はそもそも静的に定義できないものだと仮定しているのに対して、西洋人は将来定義を変更するのに備えるためにこそ、言葉ははっきり定義されなければならないと考える。

西洋人と日本人は、言葉の定義は将来変わりうるという点については完全に意見が一致しているのだが、その将来変わりうるということにどのように対処するかという点では、完全に食い違っている。西洋人は変化の中に不連続性を見出している。彼らは一時的な定義は可能であると考え、もし定義が変更される場合は、はっきりとそう宣言した上でなければならないと考える。逆に日本人は、変化の中に連続性を見出している。僕ら日本人は一時的な定義などする価値がない、なぜなら言葉は現実の世界に適用するために、絶えず解釈しなおされなければならないからだ、と考える。

西洋的な変化の概念は、不連続性と異なる段階の並置だ。日本的な変化の概念は、連続性と異なる瞬間の相互浸透とでも言うべきものだ。加えて西洋人は、第三者(例:時代精神、トップマネジメント等)によって定義されたなんらかの抽象的な原則によって変化は推進されると考えている。しかし日本人にとって、変化とは人間の介入、たとえば現場作業者の自発的な活動のようなものなしには起こりえない。時間の概念についても同じことが当てはまる。このようにして西洋人が「カイゼン」に含まれる連続性の意味を本当に理解することは非常に難しくなっている。カイゼンにおける連続性は、じっさいにその作業をする人が絶えず改善を推し進めることを意味するのであって、その作業をしない人は無関係だ。

差異はときに非常に深く、西洋人と日本人の両者とも容易に理解することができない。そして職場はこの種の哲学的な訓練をする場ではない。僕はこの種の哲学的な議論を避ける方法を知っている。それは、深く考えずにとにかくやれ!という方法だ。