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![]() 市場主義はイデオロギーである ( 20000515 ) 今、日経朝刊一面に連載されている「2000年地球人は」は日経の連載としては最悪の部類に入る。経済のグローバル化というリベラルな経済論調の尻馬に乗っているだけで、本当に議論すべき事が何一つ書かれていない。市場主義になぜこれほど楽天的になれるのか、担当記者たちの見識を疑いたくなる連載だ。 たとえば情報化の進展にともなって広がるデジタルデバイドについて、2000年5月14日の第40回連載では「自動安定化装置」と題して、大胆にもデジタルデバイドを産み出した市場原理そのものがデジタルデバイドを解消すると言い切っている。少数民族の言語に対応したインターネット検索サービス、黒人にターゲットをしぼった検索エンジンなど、情報技術による経済格差そのものが商機になり、その商機の拡大にともなって経済格差は自然に縮まるという論の展開だ。 そこまで言うなら、日本における在日韓国人と日本人の経済格差と情報技術の関係について、ここまで楽観的な記事が書けるなら書いてみてほしい。 僕が言いたいのは「マイノリティーに同情的な記事を書いて下さい」ということではない。たしかに市場原理はデジタルデバイドを解消する方向に向かわせるかもしれない。それは認めてもいい。しかし、なぜデジタルデバイドが生まれたのか?そのことについてこの連載を書いている記者はまったく注意を払っていないように見えるのだ。 そもそもなぜ米国でデジタルデバイドが生まれたのか?それは依然として米国に根強い人種差別が残っているからであり、仮に情報技術による経済格差がなくなったとしても、人種差別そのものがなくなるわけではないのだ。たしかに第40回連載が触れているように、黒人と白人の所得格差を示す指標は拡大から横ばいに転じるかも知れないが、黒人が白人に追いつくことは、おそらく永遠にない。 同じことは南北問題にも言える。たしかに市場主義に反対するよりも、市場主義を徹底した方が南北の経済格差は縮まるかもしれない。しかし市場主義は先進国が自分の都合で発展途上国の人的・物的資源を利用するための免罪符にはならない。だからこそ市場主義が世界に広まるにつれて、かえって世界各地で民族対立・宗教対立が先鋭化しているのではないのか。 この連載を書いている記者が見落としているのは、市場主義がイデオロギーになってしまっているという現実である。連載の筆者は市場主義があたかも無色透明で中立的な理論であるかのように信じてしまっている。それが日経の記者をしてここまで楽観的な連載を書かせている根本的な理由だ。 しかし市場主義は本当にニュートラルなのだろうか?マイノリティーや発展途上国の立場に立ってみたとき、それは押しつけられた規範にすぎないのではないか。たしかにその規範を利用すれば多数派や先進国との格差を少しは縮められるかもしれないが、なぜそれを甘んじて受け入れなければならないのか。 同じことは「強者/弱者」「勝ち組/負け組」などという、最近の『ウォールストリート・ジャーナル』化した日本経済新聞の好きそうな対立構図にもあてはまる。たしかに弱者も強者の理論を受け入れれば強者との格差を縮められるかもしれない。だがどうしてそれを受け入れなければならないのか。 市場主義のイデオロギーであるとは、そういうことである。日本経済新聞が市場主義について楽観的な「イケイケ」の連載を書けば書くほど、ある意味で『赤旗』にとてもよく似てくる。『赤旗』はまだ自分がイデオロギーであることに自覚的だから救いがあるかもしれない。日経の記者は市場主義の「自動調整装置」で少数民族の問題が解決に向かうかのような筆の勢いなのだから、自らのイデオロギー性に無自覚すぎる。 おそらくこの連載の筆者はそこまで考えてみたこともなかっただろう。冒頭にも書いたように単にグローバリゼーションの尻馬に乗っているだけなのだ。その無邪気さはある見方をすればほほえましい限りだ。しかしそんな批判精神のない記事、時流に迎合するような連載で「日本経済新聞」と言えるのか。経済とはいったい何かをもっとちゃんと考えてほしい。 無断転載禁止
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