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![]() ゆたかな海の島々 ( 19970914 ) システムエンジニアの求人広告を見ていると、採用担当者が決まって口にするのが対人折衝能力だ。単なるオタクではだめで、コンサルティング能力こそ重要であるということらしい。 確かに会社を見まわしてもそれなりのポストにある人は、だいたい対人折衝能力に優れている。それだけの人もいる。会社にとって望ましい管理職像は、コミュニケーション能力に優れ、部下の面倒見のよい統率力のある人物だ。誰かさんが書いた『父性の復権』(中公新書)などという下らない本を立ち読みしてみても、リーダーシップの回復などと書いてある。 X世代を眺めると、従来の意味での「管理職」向きの人間は激減しているように思う。他人を構っている余裕などなく、自分がちゃんと生きていくのに精一杯というタイプが増え続けているのではないか。こういう傾向は企業の採用担当者にとって嘆かわしいばかりだろうが、自分の息子はリーダーたる素質十分だとでも胸を張って言うつもりだろうか? 内向的な若者について、すぐにTVゲームやパソコンをやり玉に挙げる短絡的な評論家がいるが、若者が内向的になるのは、少子化などがもたらした大きな社会システムの変化による。TVゲームが原因で内向的になったのではなく、地域コミュニティーという遊び場を失った子供たちが、不可避的にTVゲームなど個人的なな遊びに流れ込んだのだ。 原因はどうあれ、X世代に内向的で自分自身に関心が強い人間が多いのは間違いない。このことは、おじさん世代の自己認識が、多くの場合「強者としての自己肯定」として組み立てられているのに対して、X世代の自己認識は「弱者としての自己肯定」であることと強い関係がある。 おじさん世代は現実として自分がみじめな窓際族である場合にさえ、弱者としての自分を認めようとしない。家族の手前父親としての虚勢も死守するし、それが最後の砦のようなところがある。したがって性役割を強調し、男は仕事・女は家庭という性差別的な分業を固定する傾向も副作用として生み出される。
しかし、おじさんの子どもたちである僕らは、おじさんの「強者としての自己肯定」が完全な「張り子のトラ」であることを見抜いている。「強者としての自己肯定」は、企業が管理職であるおじさんたちに与えた飴であり同時にムチである。おじさん世代は裸の王様であることを僕らは知っている。 「強者として自己肯定」は社員としてのモラールと不可分である。おじさんは強者としてのプライドと引き換えに、我が身を組織に捧げる。「強者として自己肯定」するやいなや、企業や社会といったより大きな組織に利用されることを、X世代は嗅ぎあててしまっているのだ。 体よく利用されるわけにはいかない、大切なのは自分らしさだ。そう考えるX世代は、「弱者としての自己肯定」というまったく逆の戦略をとる。 「弱者として自己肯定」することで、僕らは周囲の期待をあらかじめ無効にする。僕らに期待してもムダだというメッセージを発する。僕らは一人ひとりが心のどこかに寂しさを抱え、将来に不安を抱く弱者だ、ということだ。 戦中世代の男性が寮歌でわれらが栄光を歌い上げ、団塊世代の男性が企業戦士としての誇りをダンディーに演じるのに対して、僕らの世代はお互いの心の傷を理解し合う。 エヴァンゲリオンの主人公であるシンジがX世代の投影であるのはこの意味においてだ。シンジは弱者として自己肯定するがゆえに、最後までネルフやゼーレといった大きな組織に利用されずにすんでいる。むしろ「人類補完計画」という、「所得倍増計画」のメタファーであるかのような計画を、最後の最後に頓挫させる力を持つ。 シンジの父親であるゲンドウは、「人類補完計画」という自らの野望のためにかえって破滅に向かったが、その姿は過労死した企業戦士に重なる。 まさに、ゲンドウは僕ら(シンジ)から見た団塊世代のメタファーである。彼らは確かに企業で高い地位につき、そのおかげで僕らの生活も豊かである。しかし、ある見方をすれば企業にプライドをくすぐられている操り人形にすぎない。 すべては、今まで社会が良しとしてきた価値観、つまり、(男性は)強くあるべきであるという価値観に、彼ら団塊世代が見事に洗脳されてきたためである。そして企業の採用担当者たちもいまだにそうした価値観にしがみつこうとしている。 しかし、X世代はそれが巧妙に仕組まれたワナであることに気づいてしまっている。採用を勝ちとるためには「強者として自己肯定」のポーズもとるだろうが、X世代のアイデンティティーの核になっているのは「弱者としての自己肯定」である。 おそらくいじめ問題の始末の悪さもここからきている。 いじめられる側だけでなく、いじめる側も、自分を「弱者」として規定している。ならば弱者どうし理解しあう道があるはずだが、社会があからさまに競争をあおり続ける限りは、弱者の内部に否応なしに区別が持ちこまれる。 その区別とは、強・弱の二分法ではなく、弱・無の二分法である。いじめる側も自分は弱者であると思っている。自分が弱者でありながら、自分といじめられる側を差別化する方法はただ一つ、いじめられる側が人間としては存在しないことにしてしまう方法である。 つまり、弱者として自己を規定する者どうしのいじめは、強者と弱者の間の権力論ではなく、弱者と非存在の間の存在論である。だからいじめられる側の生命がかかっているのだ。 弱者どうしに区別を持ち込むのは、単一基準による競争社会である。社会が相変わらず単一のものさしによる競争原理を維持しようとしている。競争原理そのものが悪なのではなく、評価基準が一つしかないという点が悪なのだ。 団塊の世代は単一基準による競争原理に見事に洗脳され、受験戦争を勝ち抜き、企業でも強者としての生き残りをかけて、身を粉にして働いてきた。しかし、X世代はそう安々と洗脳されるわけではない。 X世代がそうした単一基準の競争原理を回避するひとつの行動が、マイブーム現象などにみられる価値観の細分化である。 ある時点で見たときに、X世代はそれぞれの好み(ブーム)によって多数の小さな集団に分かれている(宮台先生にならって「島宇宙」と呼んでもいい)。それによって唯一の基準による大競争に巻き込まれるのを回避している。 さらに、個人のレベルで見たときにも、時点によって好みがコロコロと変わっていく。ひとつの趣味に深入りすると、どうしても同じ集団の中で競争意識が芽生えてしまう。僕のほうがよく知っている、私のほうがセンスがいい、など。これを回避するために、簡単に新しい趣味(ブーム)に乗り換える。 ひとつにブームに熱中しているときさえ、「今ジャイロがきてる」など人ごとであるかのような表現を使うのも、無用な競争を回避するためである。真剣になって打ち込んでいる身ぶりをすれば、それは他の人に対する「戦線布告」、つまり競争開始の宣言になってしまうからだ。 X世代のマイブームは主体性のなさではなく、団塊世代がやっきになって維持しようとしている「単一基準の競争原理」に対する主体的な抵抗である。 以前このホームページで批判した日経新聞の記事のように、団塊の世代は一つの道に全霊で打ち込むという「単一価値型の競争」を維持しようとする。団塊の世代が「単一価値型の競争」にあくまでこだわり続けるのは、はっきり言ってしまえば、彼らが経験した受験戦争への郷愁でしかない。 何度も言うように、競争そのものが悪なのではない。たった一つのものさしですべてを競争させることが悪なのだ。それに対して僕らの世代が打ち出した「多様化戦略」はひじょうに優れてはいないだろうか。 単一価値型の競争の中で、おじさん世代は不幸にも個性のない世代になってしまっている。娯楽と言えば、会社関係の知人とつるんでゴルフ。なんと貧困で不毛な価値観を生きていることか。 僕らは、たしかにマスコミが用意してくれたお仕着せかもしれないけれど、とても多様な価値観をそれぞれが生きようと努力している。ときにはお互いに言葉が通じないほどだけれども、みなが単一の価値観の中でひしめきあって競争するよりは、なんと豊かな人生だろうか。 おそらく「7つの習慣」のようなくだらない書物がベストセラーになるのも、なにか良いものがあると全員で手を伸ばすという「単一価値型」に慣らされてきた団塊の世代の悲劇(=喜劇)なのだ。 そして企業の採用担当者も、「対人折衝能力」「コンサルティング力」などという単一のお題目に飛びついてそればかり繰り返す。 X世代の僕らは楽観してもいい。 X世代が社会にとって重要な働き手となるにつれて、単一価値型の競争は修正を迫られるだろう。現場がX世代どうしで動くようになったとき、「弱者として自己肯定」する僕らはより多様で豊かな共通の基盤を手に入れているだろう。 団塊の世代が、選択肢の少なさゆえに過当競争を迫られたのに対して、X世代はいくつもの選択肢に「譲歩」の道を見いだすことができる。いつでも身をかわす用意がある。それは逃げではなく、社会は循環(リサイクル)するという当たり前のことを認めているだけなのだ。 正しいことは一つしかないのではなく、複数の正しさがある。社会は単一の価値(成長や発展)に奉仕しているのではなく、たえず多様な価値を生み出しながら循環している。そうした当たり前のことに、X世代はちゃんと気づいている。 少なくとも僕はそう確信している。X世代の作り出す世界は、おじさん世代の作り出した世界のようには人々を不幸にしないだろうということを。 無断転載禁止
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