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遠い声の再来
( 19981209 )

Japanese/English

日本のインターネット人口は1000万人を超え、「情報倫理学」や「メディア・リテラシー」など、新しいネット社会にふさわしいルールが模索されている。にもかかわらず、いまだにネットサーファーを「オタク」呼ばわりする言説が流布しているのには、怒りを通り越して、ただあきれてしまう。

たとえば12月9日の日本経済新聞の朝刊は『春秋』でこう書いている。

「面と向かってだれかと会話するより、パソコンに向かってキーをたたく方が気楽――『オタク型』の人類がさらに増えていくのかもしれない。」

大新聞の記者が臆面もなくパソコンユーザを「オタク」と書き、情報インフラの発達に水をさす。こういうマスコミの認識の低さこそが、この国のネット社会の未熟さを助長しているのではないだろうか。

同じような批判は、若者のケータイの使い方についても聞かれる。このエッセーでも以前、電車でケータイを使う人間を批判するより、ケータイ専用のブースを作るなどの適応努力が必要だと書いた。

最近では、ケータイ批判は会話の内容にまでおよんでいるようだ。街中で若者がケータイで話していることと言えば、「今どこ?」「何してるの?」など、わざわざ携帯で話す必要もないようなことばかり、というものだ。

こうした批判と、パソコンユーザを「オタク」呼ばわりする『春秋』の筆者には、ある共通した思考がある。それは、コミュニケーションと「近さ」に関するものだ。

ケータイで「今どこ?」と話すコミュニケーションの正反対のものとして、同じく携帯電話で会社の上司が外回りの営業マンを呼出すというコミュニケーションを考えてみよう。

「営業マンを携帯電話で呼出すのは、その特性を生かした上手な使い方である」。この意見には次のような前提がある。「携帯電話本来の使い方は相手との距離をゼロにすることだ」。

携帯電話がなければ遣いを走らせたり、帰社するまで待たなければならない。その空間的・時間的な差が携帯電話によってゼロになる。これこそ本来の使い方だという考え。

この考え方は携帯電話だけでなく、遠隔地との通信(=テレコミュニケーション)一般に広げることができる。電話やポケベル、FAXといった私的な通信、テレビなどのマスメディアも距離・時間の差をゼロにするというわけだ。

この前提に立てば、たしかに若者がケータイで「今どこ?」的な会話をしたり、ポケベルで「おはよう」と打ったり、毎日学校で顔を合わせる友達と文通したり、Webチャットでとりとめのない会話をしたりするのは、ムダなおしゃべりに思える。

しかし、若者は距離や時間の差を縮めたくないのではないか?

遠くから聞こえる声を、遠いままに聞きたい。そこにテレコミュニケーションの「価値」を見出しているとしたら...。若者にとってのテレコミュニケーションは「近さ」への指向ではなく、お互いの距離をそのまま楽しむことに変わってきているのではないか。

テレコミュニケーションが本質的に「近さ」を指向するものなら、すべての通信手段は一時的な不便さをしのぐ道具にすぎない。遠くにあるものは一時的に遠いだけで、本来「手もと」に存在すべきものだ。友達は見かけ上遠くにいるが、電話で話すことによって友情本来の「近さ」を回復できる。

こうした考え方は、自己と他者との関係を本来「近い」ものだと考えることから来ている。

これに対して、ケータイで「今どこ?」と話すのは、お互いの距離そのものの確認である。「今どこ?」という会話が無意味になるのは、面と向かって話しているときだけ。お互い離れているからこそ「今どこ?」が意味のある会話になる。

またポケベルや電子メールは、距離だけでなく時間差も産み出す。返事がくるまでに時間がかかる。もしかすると返事は来ないかもしれない。僕らはテレコミュニケーションのもつ空間的・時間的な差異そのものを楽しんでいるのであって、「近さ」を求めているわけではない。

「近さ」指向のコミュニケーションは、他者の声をも自分の声のように「近く」で聞きたいという考え方にもとづく。そのさらに背後にあるのは、自分の声を自分で聞くことでアイデンティティーを確認できるという幻想だ。「近さ」こそ同一性の条件であり、コミュニケーションとは他者と自己の同一性を確認することである、という考え。

ここには、面と向かった対話こそ本来のコミュニケーションであり、顔の見えないコミュニケーションは非本来的だ、という序列化がある。そこから「顔が見えなければ責任は果たせない」という発想が生まれる。

しかしこの序列化そのものが、「近さ」の責任を主張するかわりに、「遠い」ことの無責任さを容認してしまっている。「遠い」ところで顔の見えないまま進行する事態を放置する無責任を生み出している。

むしろ「遠く」から聞こえる声であっても、それに答えるのがテレコミュニケーションの時代の責任であり、それにはまず「近さ」=「遠さ」の序列を捨て、「遠さ」をそのままで認める必要がある。

僕らは自己同一性をそう簡単に確認できなくなっている。自分自身の声さえ「近く」聞こえない。自分が口にした言葉でさえ、自分とは無縁であるかのようにあたりをさまよい始める。そしてその言葉は忘れたころに再びもどって来る。まるで他者の言葉であるかのように。

遠くから顔の見えないまま聞こえてくる声、そうしたものによって僕らは少しずつズレた自分を確認することしかできない。この「遠さ」は「近さ」からの堕落ではなくて、テレコミュニケーションの時代を生きる僕らなりの距離感なのだ。


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