![]()
![]() 僕らの「場」 ( 19981214 ) このページの「非日常的日常」というコーナーでは、小森まなみというラジオのディスクジョッキー(彼女自身の命名によれば「トークジョッキー」だが)をフォローして、彼女が十代、二十代のリスナーのかくれた支持を集めている理由を分析している。 重要なのは彼女の人気が「マス」メディアには載らないという点だ。 最近、日経新聞の「Nikkei X」でこんな記事があった。若い世代の間で、従来のようなビッグなタレントではなく、近所のスニーカー屋の店長や、フィットネスクラブのインストラクターなど、ごく身近な人を「スター」のようにおっかける傾向がある、というのだ。 こうした流れそのものは、社会学者である宮台真司の言葉を借りれば、若者の価値観が「島宇宙化」していることの現われだから、それほどめずらしがることもないが、問題なのは、社会で実権を握っている大人たちと、若者の認識の食い違いである。 大人たちは、有史以来(?)若者のモラルの低下をこぼしながら、自分たちが比較にならないほどひどいモラルハザードに陥っている。これはまあ、いつも変らないジェネレーション・ギャップである。 ただ、現代のジェネレーション・ギャップは、このページでもくりかえし言っているように、ちょっと性質が違うように思う。 これまでのジェネレーション・ギャップは、単なる時間差であって、質の差はなかった。つまり、ある時点で若者である世代は、自分たちが大人になれば、かつて反発した大人の立場が「なるほどそういうことだったのか」と納得できた。 実際に、倫理より自由を重視した石原慎太郎の世代も、その少し後のサザン・オールスターズの世代も、今となっては倫理を体現せざるを得ない状況に追い込まれている。僕がふだん生活している会社の中で見ても、僕らの世代に理解があるふうな中間管理職も、立場上、結局はかつての中間管理職的な権威を標榜せざるをえなくなっている。 むかし若者だった世代が、今や社会的発言力をもった圧力団体となり、青少年保護条例のようなナンセンスな法整備を急がせる結果になっているのは、彼らが、かつて反抗の対象だった大人たちとまったく同じかたちの「権威」に収まってしまった(または、収まらざるをえなかった)という悲劇である。 しかし、現代という時代で問われているのは、これまでは確かにうまく機能してきたそのような「権威のかたち」そのものである。 小森まなみのラジオ番組を聴いていると、父を亡くした彼女をいたわるリスナーのハガキや、いじめに対する考え、リスナーどうしの連帯感など、その「倫理観」は稚拙なほど大人たちの標榜する倫理観とぴったり重なっている。 これは、やはりこのページで取り上げた『石黒寛のみんな元気か』や『ドリアン助川の正義のラジオ・ジャン・ベルジャン』にしてもそうである。十代、二十代の若者は、不思議なほど今の大人たちの「倫理観」に忠実である。 言いかえれば、今の若者と大人たちの「倫理観」に中身の違いはない。何が正しくて、何が間違っているかについて、若者と大人は不思議なほど一致している。 では、どうして世代間のすれちがいが問題になるのか。その理由は、若者が自分たちの言葉で「倫理観」(たとえそれが親の世代からの借り物であっても)を語る場があまりに少なすぎるということだ。 同じことを大人の立場から言えば、大人たちは若者の「倫理観」の内容だけでなく、それを語る「場」までをコントロールしようとやっきになっている。問題なのは、大人たちが「場の支配」までやらかしてしまっていることにあるのだ。 毎週日曜日、日経新聞に掲載されている養護教諭のコラムで読んだものだが、保健室をおとずれた教師が、教室ではエゴむき出しで「順番」というものを守らない生徒たちが、保健室では決められた「順番」を守って「保健のせんせい」に診てもらうことに驚く。 保健室でのふるまいと、教室でのふるまいの二面性は、そのまま、おそらくふだんは学校で徹底的に「冷めた子供」であろうリスナーが、小森まなみの番組で見せる「あたたかい思いやり」という二面性に通じている。 保健室という「場」は、学校の中で唯一、保健室をおとずれる子供たち自身が、自分たちでルールを決めて運用できる「場」である。そして、小森まなみの番組も、やはりリスナーである若者たち自身が作り上げていける「場」である。 たとえば、小森まなみの番組では、毎週のように「リスナーのつどい」の告知がされている。参加者は腕にバンダナを結ぶのが決まりで、「リスナーのつどい」でなくても、街で腕にバンダナを巻いた人を見かけて声をかけたら、まみ姉のリスナーだった、というハガキもたまに紹介される。 文字どおり北は北海道から南は九州(沖縄にはネットされていないようだ)まで、「リスナーのつどい」というリスナーどうしのお茶会やパーティーが、毎週日本のどこかで開かれていると言ってもいい(この原稿を書いている日にも、どうやら岐阜で「リスナーのつどい」が開かれているらしい)。 いずれにせよ、子供や若者たち自身がルールを決めて、おたがいに意見しながら運用できる「場」さえあれば、そこではたいてい大人が期待するような「倫理」が優勢になるのだ。大人はもっと若者を信頼してもよい。 ただし、保健室にしても、小森まなみの「リスナーのつどい」にしても、重要なポイントがある。それはもちろん、養護教諭や小森まなみという人物の存在である。大人の言葉で言いかえれば、そこには必ずなんらかのまとめ役が必要だ、ということだ。 まとめ役というと、大人たちはすぐに「管理能力」を問題にしたがるが、養護教諭や小森まなみはけっして威圧的な管理者(=父親的な存在)ではない。小森まなみはつねに自分がリスナーと対等であることを強調する(「自分が父を亡くしても生きていけるのは、リスナーたちに支えられているからだ」、などなど)。かといって、リスナーを息苦しい過保護な愛情で包み込むような母親的な存在でもない。 今の若者がもっとも忌避する大人の典型は、たまに顔を合わせるとやたら高圧的な父親と、やたら自分の生活に干渉してくる過保護な母親である。PTAのような圧力団体は、青少年のためと称して、「父親的管理」+「母親的過保護」を同時に、組織的に、権威的に展開しているもっとも始末の悪い組織である。 これに対し、養護教諭や小森まなみは、まず、組織ではなく個人である。なおかつ、威圧的な父でもなく、過保護な母でもない。限りなく透明に近い、純粋な「媒体」、たんに若者Aの意見を、若者Bに伝えるメディアの役割に徹しているように思える。 養護教諭や小森まなみは、場を支配する存在ではなく、単に場を与える存在である。だからこそ、子供たちやリスナーたちは、その場を自分でコントロールし、生き生きとふるまえるのだ。 その結果、彼らの「倫理観」が大人たちの「倫理観」と重なるのはむしろ当然で、彼らがほんとうに望んでいるのは、大人と違った自分たち独自の「倫理観」を確立することではなく、自分たち独自の「場」をもつことである。 それを大人は完全に誤解して、若者たちが自分たち独自の「倫理観」、大人たちから見れば「反倫理」と映るものを作り上げようとしていると考え、その結果、いつまでたっても「場の支配」という自分たちの権威主義的な戦略を見直そうとしない。それは、援助交際に対する青少年保護法に端的に現われている。 現代の若者と大人のすれちがいは、「倫理観」の内容にあるのではなく、方法にある。そしてこのすれちがいを改める責は、明らかに大人の側にある。 で、最後に残された問題は、この文章を読んだあなたは、若者か大人か?ということだが...。 無断転載禁止
![]()
|