homeup mail to
sub title

ミヤダイ
( 19981201 )

Japanese/English

宮台真司は、彼が擁護しようとしている当の女子高生にまで攻撃されたり、毀誉褒貶の激しい社会学者であるが、その成果を正しく認識することはかなり難しいと思う。

宮台氏が、女子高生の援助交際や、神戸小学生殺人事件など、現代の青少年の問題について論じるとき、他の論者と決定的に違うのは、こうした現象を社会システムと個人の実存の関数で考えている点だ。

たとえば小田晋のような精神分析学的な観点は、個人の内面を徹底的に分析することで、病理の原因を探ろうとするが、この手法の弱点は、個別のケースの特殊性を、完全に特殊化するか、完全に普遍化してしまう危険にある。

つまり、「酒鬼薔薇聖斗」の例で言えば、「酒鬼薔薇聖斗はまったく特殊なケースで、他の14歳は問題ない」となるか、「14歳のだれもが潜在的には酒鬼薔薇聖斗である」という主張に結びついてしまう。

一方で、学校や家族といった集団の影響力を過大評価する論者がいる。管理教育・偏差値教育が原因である、核家族化の進行が原因であるなど。この手法の弱点は、個別のケースの特殊性を普遍化してしまう点にある。「だれもが酒鬼薔薇聖斗だ」論になってしまう。

内的要因を論拠にするミクロ分析も、外的要因を論拠にするマクロ分析も、ある共通の基盤に立っている。それは、なんらかの事件や現象の原因は、数個に特定でき、したがって、処方箋はその数個の原因をひとつずつつぶしていくことである、という考え方。大きな問題は小さな問題に分割でき、論点を明確にしさえすれば、解決法も見つかるという、近代的な要素還元主義の立場である。

たしかに、原因を特定すれば対策も打ちやすいし、だれにも分かりやすい議論になる。ただ、こうした要素還元主義の立場に立つ人たちは、現代社会の典型的な問題群が、そうした要素還元主義そのものに発していることに気づいていない。

一個の個人を、個人の精神世界と、社会的な顔という要素に分割し、それぞれに原因を求めるやり方そのものが、問題の根幹なのではないか。

宮台氏が誤解される最大の理由は、彼の理論が外見上あいまい(両義的)で、節操がなく、逃げているように見えるからであるが、それは、宮台氏が、要素還元主義的な発想を注意深く避けようとしている結果にすぎない。

ハイデッガーは、問題を正しく立てたとき、すでにその問題は解決されていると言っている。裏を返せば、問題の立て方そのものに、よほど慎重にならなければ、問題そのものを見誤ってしまうということだ。

そのために方法論が重要になる。宮台氏の方法論は、一見すると、個人の実存と社会システムのどちらを取っているのか分からない、どっちつかずの議論になっているが、それも当然であって、彼はその2項の相関関係に徹底的にこだわることで、2項を同時に救おうとしているのだ(考えてみれば、個人と社会が分離可能な独立した実体と考えるほうがおかしい)。

宮台氏の議論は、あるときは社会システムの歴史を描き、あるときは個人の精神史を描き、モダンな要素還元主義にどっぷりひたった僕らからすると、「いったいどっちが言いたいんだ!」と苛立ったり、彼のマーケティング的なポーズにばかり目がいったりすることになりがちである。

宮台氏自身、「まぼろしの郊外」という著作の前半で、個人と社会の関係の相関関係が無限遡行(にわとりが先かたまごが先か)に陥ることを認めているが、そこでにわとりかたまごかのどちらかを取ってしまうことは、現代的な問題を成り立たせている枠組みそのものを追認してしまうことになる。それを宮台氏は理解している。

たとえば、宮台氏が若者たちに推奨している「まったりした生き方」と、彼が同時に提起している「インセンティブ・システム」という2つのキーワードを考えてみよう。

「まったりした生き方」とは、個人の側から見たときの「終わりなき日常」への適応である。それは、個人と社会システムの現状の静的な切り口(微分された断面)を言い当てている。

それに対して、「インセンティブ・システム」は、社会システムの側から見たときの、個人と社会システムの力動を言っている。

宮台氏には、個人が団結して社会システムを動かせる時代は終わったという了解がある。

個人が団結するためには、明快な論旨(イデオロギー)が必要だが、そのような明晰さは、まさに宮台氏が標的にしている近代の成立基盤である。宮台氏が繰り返し「おじさん」たちの道徳的なお説教を批判しているのも同じ理由だ。

現代の社会システムを変えるには、もはや明快な論旨は無効だ。若者に喝!を入れるような意見も無効だし、若者の理解者になってしまう意見(宮台氏はこちらの方に誤解されがちだが)も無効だ。

ましてや、サルトルのアンガージュマンような組織化や実行力によっては、言説が今や逆効果しか生み出さないことも織り込みずみだ。だからこそ宮台氏はメディアを戦略的に利用するのである(それにしても、講演会や学園祭の依頼があればちゃんと応じてしまう宮台氏は、ひじ掛椅子の思想家では決してない)。

宮台氏は、個人と社会システムの関係において、イニシアチブをとるのは社会システムの側であると考える。そして、社会システムを構成するのもまた個人である以上、そこに無限遡行(にわとりが先かたまごが先か)が存在することも認めている。

そのとき、方法として、無時間と時間をもちだすのは自然なことである。

宮台氏の言う「終わりなき日常」は、終末論の外見をしているけれども、実は静的な、無時間な個人と社会システムの関係性を言っている。

つまり、宮台氏は「終わりなき日常」が、ほんとうに「終わりなく」続くと主張しているのではなく、現代の若者の現時点での瞬間、微分された時間の断面を見たときに、個人と社会システムの関係が、「終わりなき日常」という終末論的な様相を呈していると主張しているだけなのだ。

したがって、宮台氏が「終わりなき日常」には「終わりがある」と主張しても、なんの矛盾もない。まったりと生きる若者たちの「終わりなき日常」という無時間の切り口をあえて提示することで、その無時間の瞬間から、次の時代の力動を生み出す契機を探り当てようとしている。

そして、「終わりなき日常」という無時間で自由のない混沌から、次の社会、新しい社会を生み出すための個人と社会システムの関係・力動を生み出すためには、「インセンティブ・システム」などの契機(ビッグバン?)が必要だと言っているのである。

「終わりなき日常」論と「インセンティブ・システム」論をともに線形の時間軸上に同時に存在する矛盾した2つの出来事と理解するのは、完全な誤解である。

個人と社会システムという、要素還元主義の観点では無限遡行に陥ってしまう動的な関係を正しく論じるためには、線形の時間観念そのものにくさびをうちこんで、個人と社会システムが分化する契機そのものを考え直す必要がある。

自分たちの味方かどうかという基準で宮台氏を批判する女子高生は、自分たちの「終わりなき日常」がほんとうに「終わりのないもの」と誤解しているのだし、「終わりなき日常」と「インセンティブ・システム」に不格好なツギハギを見ることしかできない者は、自分がシンプルさを要求する近代的な要素還元主義に陥っていることに気づいていない。

どちらかを決定することは、近代的価値観の下では、たいへん潔く、分かりやすく、かっこいいことだが、結局そういう態度は、近代的価値観を補強するに終わる。それよりは、ニヒリズムやどっちつかずという謗りを受けながらも、近代的価値観の枠組みそのものを疑問に付す宮台氏の態度の方が、「潔く」はないか。

近代の呪縛を徹底的にふりはらおうとすれば、個人対社会システムという「対立」の構図を捨てて、個人と社会システムの関係、もっと言えば、個人と社会システムをつなぐパイプ(天使?)そのものの役回りを演じる必要がある。

その天使は、神とも人間ともつかない、中途半端な代物に見えるが、それは近代人にとってそう見えるだけであって、唯一それだけが二項対立という近代の本質的な分裂を克服し、神の観念と人間の無限遡行の入れ子構造を解く鍵でもあるのだ。


無断転載禁止

サラリーマンを考える 日本的なるものを考える 日常生活を考える
「おじさん」を考える 映画/音楽/書物を考える 情報システムを考える
愛と苦悩の日記 筆者のYouTubeチャンネル

homeup mail to