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子供あつかい
( 19980206 )

Japanese/English

少年によるナイフを使った犯罪が増えているという。報道がかえって犯罪を過熱させるのは、現代では避けられないマスコミの副作用としても、その報道の中身がほとんど的外れだ。

そうした犯罪の原因について、今一般的に言われているのは、少年たちのストレスが日々昂じて、ある日突然暴力的に爆発する、というものだ。しかし、中学生たちから寄せられている新聞への投書や、テレビへのFAXを読み聞きすればわかるように、彼ら・彼女らは学校で恒常的に大きなストレスを感じている。ストレスが徐々に増えていくのではなく、彼ら・彼女らは、常にひどいストレスを感じているのだ。

つまり、中高生たちが恒常的にかかえているストレスと、ナイフなどを使った暴力的な行動は、別物として考えるべき、ということだ。

まず、ナイフの問題から考えれば、ここには神戸小学生殺人事件や援助交際に共通な、今の中高生の倫理的認識にかんする問題がある。彼ら・彼女らは、従来の倫理観からみると、倫理的な遠近感を欠いている。

たとえば、従来の倫理観を身に付けている人間は、「どの程度悪いか」という観点から、万引き、カツアゲ、強盗、殺人の4つを、「悪い順」にならべることができる。そして、万引きぐらいはまあ「若気の至り」で許されるレベルだが、殺人なんて絶対やっちゃいけないことだ、という判断がはたらく。

つまり、ある社会的基準に照らして、悪さの程度に「遠近」をつけて考えることができる。当然、殺人なんて「遠すぎて」考えもおよばないことだが、万引きくらいならひょっとしたらやっちゃうかもしれない「近い」犯罪である(もちろん犯罪には違いないが)。

しかし、今回犯行におよんだ少年たちは、ナイフで英語の教師をめった突きにすることと、SONY PLAZAで消しゴムをくすねること、あるいは、警官をナイフで襲って拳銃を奪うことと、ABCでスニーカーを盗むこととの間に、「遠近の差」を感じることができないのだ。

じゃあ自分自身をふり返ってみて、いったい僕らはどうして万引きよりも殺人が自分からより「遠い」罪だと考える遠近法を身に付けているのか、考えてみるべきだろう。いったいいつの間に、だれに教えられて、そのような倫理的な判断基準を身に付けたのか?

おそらく、ナイフで教師を殺した少年の周囲にいた大人たちは、自分たちは生まれながらにして「罪の遠近法」を身に付けていたと、思いあがっているのだろう。つまり、人間は何も教えられなくても、生まれながらにして「罪の遠近法」を身に付けていると。

実際にはそんなことはウソで、僕らが「罪の遠近法」を身に付けているのは、ものごころ付く前から、日常生活のごく些細な「罪」を、周囲の大人たちに見咎められ、責められてきたからなのだ。生まれる前に身に付いているルールなどはなく、すべては他者との関係から学んでいくルールである。

これは行動のレベルの問題ではなく、あくまで認識のレベルの問題だ。だから、暴力的なTVゲームや、木村拓哉がナイフをふり回すシーンが、犯罪の原因なのではなく、そのようなTVゲームやドラマといった外部からの刺激を解釈する、彼らの内部の認識のメカニズムそのものが狂っているのだ。

だから、いくら持ち物検査をしてナイフをしめ出したところで、彼ら・彼女らの認識が変わるわけではないので、また形を変えて同種の犯罪はくり返されるだろう。ワンパターンな小手先の対策しか打てないところに、PTAや教育委員会の想像力の欠如がある。

中学生になってから「罪の遠近法」を身に付けさせ、彼ら・彼女らの認識を変えるのは事実上不可能だろう。少年・少女犯罪といえども大人並みに罰することで、犯罪の抑止効果を狙うしか手がない。

持ち物検査みたいな文字どおり「子供だましの」小手先のことをやる必要はまったくない。そのかわりに、犯罪を犯したとき、きっちり実刑で償わせるという社会的な処罰を明確にすることの方がよほど重要ではないか?

そしてこのことは、彼ら・彼女らが学校で抱くストレスの問題ともかかわってくる。

ここまでで述べたように、ナイフの問題はあくまで中高生の認識のレベルの問題だが、ストレスの問題は、彼ら・彼女らを行動に誘い出すことである程度解決できると思う。ひとことで言えば、中高生を「子供あつかい」するのは、もうやめたほうがいいということだ。

今の学校は基本的に、教師と親だけが支配する空間である。

カリキュラムは文部省によって画一的に決定され、クラブ活動も学校側が決定され、給食や学内の売店も学校側が運営する。体育祭も毎年教師側の企画でプログラムが決定され、年中行事も学校が決定したお決まりのイベントが毎年くりかえされる...。

ちょっと考えれば、いかに生徒たちの決定権がなさすぎるか、そのことに驚くだろう。

自分の中学高校時代をふりかえってみればいい。なにからなにまで、学校や教師が作ったお仕着せのカリキュラム、プログラムの中で、僕らはそれに参加させてもらう、といった関わり方しかできない。せいぜい修学旅行の行き先を、選択肢の中から投票で選ぶくらいだ。

しかし、これはあまりに中高生を「子供あつかい」しすぎではないか。はっきりいって今の中高生は、かつての中高生になかったほど多くの情報を処理し、経済的には一人前の消費者として国内需要の牽引に一役かっている。そんな彼ら・彼女らをいつまでも「ガキ」あつかいするのはもうやめた方がいい。

たとえば、学校側がはっきり予算を示して、そのなかで修学旅行のプランを生徒に立てさせるくらいはやってもいい。学内の売店の運営も、業者からの調達が無理なら、昼休みに店員として働かせるかわりに、店のレイアウトやディスプレーを自由に企画させるくらいは、生徒に任せてもいいだろう。体育祭や文化祭にしても、修学旅行と同じく、予算枠だけは学校で決めて、その中で教師のアドバイスを受けながら企画を考えさせるなどなど。

カリキュラムを生徒たちに決定させるのが時機尚早なら、今言ったように学校の中にはそれ以外にも生徒たちの決定にまかせられることが山ほどあるはずだ。それを教師が自分の仕事として抱えこむから、教師は教師で「本業より雑務が多い」と嘆き、その嘆きが生徒へのしめつけになってストレスを産み、結局いいことなしだ。

教師たちが考え方を変えて、生徒を「子供あつかい」するのではなく、どんどん生徒の自己運営・自治にゆだねて、教師は自分の重荷をおろすと同時に、生徒たちの社会性を育てる試みをすべきだろう。一石二鳥じゃないか?

(なぜ学校が生徒の自治を許さず、生徒を「子供あつかい」するようになったか?その理由は、60年代に大学闘争の余波で一部の高校の急進的な政治勢力がラディカルな「自治」を要求したことにあるのかもしれない。しかし、時代は変わっている。いまどきの中高生が自治を政治的にはき違えるはずもないだろう)。

中高生を子供あつかいせず、同じ目の高さで話し合いながら、共同で「学校」という一つの場を作り上げていく。今、教師側・学校側がそのような努力をしなければ、中高生たちはますます学校から離れていき、離れていこうとするのに旧態以前のやりかたで無理やり引き止めようとする教師たちにストレスをつのらせ、ナイフを振りまわす奴も出てくるだろう。

むしろ、今の学校に生活する中高生たちは、ストレスをつのらせて当然というべき環境にいる。教師たちは、ひとりで何もかも背負うのではなく、自分の肩の荷を生徒と分かちあう方向へ、一歩踏み出してはどうか。


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