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![]() 見えない王国への旅 ( 19971112 ) 「家族擬制としての職場」という日本的雇用慣行にのっとって、先日社員旅行に参加した。上司と部下が親睦を深め結束を固めることで、組織としての生産性を向上させることが第一の目的であり、第二の目的は上司が部下の素顔を知ることだ(上司が部下の私生活まで知らなければならないのは、そうでなければ実現できないような強引な人事異動の方に原因があるのだが...)。 その途中で立ち寄った大阪港・天保山。参加者の多くは日本で一二を争う規模の水族館である「海遊館」に期待をふくらませていたに違いないが、僕は出発の前日、インターネットで「天保山」をキーワードに検索して仕入れた情報から、ひそかに海遊館に隣接するサントリーミュージアム[天保山]で開催されている展覧会を楽しみにしていた。 その展覧会のタイトルは「パリの写真家たち、ポンピドー・コレクション写真展」である。海遊館はいつ訪れてもそこにあるが、ポンピドー・コレクションは98年1月18日までの期間限定である。 もちろん海遊館の大水槽は素晴らしかった。ジンベイザメが群遊魚たちをしたがえて悠然と泳ぐ姿は圧巻だし、水を円錐形に切り裂きながら滑ってゆくイルカは、泳ぎの得意だった小学生時代から僕のあこがれだ。 考えてみると、厚さ30cmのアクリルガラス越しに魚たちを「見る」という体験は、写真を「見る」体験の序章としては悪くないものだったかもしれない。すべてを見せるためのアクリルガラスは、逆に向こう側で泳ぎまわるイルカとこちらでそれを眺めている僕自身の無限のへだたりを否応なしに意識させる。すべてを見せるためのアクリルガラスは、水槽の向こう側にいる人間をも見せてしまう。そして何より、すべてを見せたつもりのアクリルガラスが見せている魚たちは、檻の中のライオン同様、自然とはほど遠いフィクションである。 僕らが何かを見ようとするとき、そこにはどうしても限界が生じてしまう。逆に言えば、ある境界線を画することによってしか、僕らは何も見ることが出来ない。写真はそのことをフレームという形で端的に表している。写真を撮るということは、フレームの外部にある被写体を切り捨てるということだ。後からトリミングをおこなう場合にはさらに外部を捨て去ることになる。 そして僕ら自身が実生活でいろいろなものを見る場合にも、やはり視界の外部にあるものをあきらめることによってしか、なにかを見ることはできない。すべてを見ることは原理的に不可能である。すばやく頭をめぐらせれば360度見わたすことはできるだろう、なんて言わないでほしい。ここで僕が問題にしているのは、文字どおりの見るという行為ではなくて、その瞬間自分の意識がなにに向けられているかということだ。たんなる網膜の残像は、それが像と意識されない限りなんの意味ももたないだろうから。 冒頭にも書いたとおり、僕の職場の権威ある方の意見によれば、上司は部下の職場での様子だけでなく、その私生活も十分に認識する必要があるという。この権威ある方はもちろん終戦前後に生まれた方だが、ここから団塊の世代にいたる世代は、「真実は暴かれるべきものである」という抜きがたい固定観念を持っている。 もちろん真実は自らをかくすというのは古代ギリシア哲学以来のクリシェだけれども、とりわけ戦後民主主義の成立要件として「見えないものを明らかにする」というスローガンは、否定すべくもない正義そのものだったと言える。 現実には「見えないものを明らかにする」運動は、政治的に頓挫し、技術的に成功する。これには多言を要しないだろう。新左翼運動の後退とカラーTVの普及はほぼ同じ時期のことである。TV中継が「見えないものを明らかにする」運動の断末魔の叫びを数十時間の生中継によって「明らかにした」とき技術の勝利が確信され、後に残るのはスキャンダル暴露大会だけになる。 いまだに嬉々として「女性××」というゴシップ誌を買い求める女性たち、スポーツ新聞の自称「スクープ」に群がる疲れたサラリーマンたちは、やはり「見えないものを明らかにする」信仰が支配する時代に生き続けている。つまり、真実は初めから見えているはずがない、わざわざ暗がりから引きずり出されたものこそが、価値ある真実である、という信仰だ。 この信仰は、おじさんたちが情報技術を拒絶する格好のいいわけにもなっている。本当に価値のある情報は足で稼げ!、というわけだが、そこにあるのは、単にインフォーマントが情報を出し惜しみしている「持てるもの」の横暴という事態だけだ。 部下のすべてを知ろうとする上司も、やはり「見えないものを明らかにする」時代に生きてきた団塊の世代である。そして今親になろうとしている僕らの世代も、子供部屋に監視カメラを付けることでその信仰を受け継ぎかねない。 僕らの世代が団塊の世代のスキャンダル暴露合戦から学ぶべきことは、明らかにされた事実も決して真実ではないということだ。見えないものが支配する、という真実を確認するために、どれだけ暴露合戦を繰り返したところで、本当の構造などいつまでたっても明らかにされない。イギリスの白バラの花弁をむしり続けたところで、そこには無残な死骸しか残らないのだ。 僕らにとって「明らかにする」=「見せる」ということは、すなわち同時に何ものかを「隠す」ことなのだ。このホームページの別項でも述べたように、誰もアニメの主人公の毛穴やニキビのつぶしたあとを見たくはない。ムラのない塗料でぬられたアニメのセル画は、すべてを視覚化するためというよりも、不必要なものを隠すための手段に他ならない。 むしろ、真実が見えないものであるという仮定に立てば、それはいつか見えるものになるのではなく、永遠に見えないままであることで辛うじて真実であり続けるような性質のものなのだ、と僕らは考えている。ただでさえもろく崩れやすい真実の真実性を確保するために、僕らは永遠の不可視という戦略を取っているのだ。 それが、「見えないもの」への僕らのこだわりになっている。電話の向こうの彼や彼女は見えない。ポケベルの相手はなおさら。メール友達も顔は見たことがない。FAXフレンドもそう。テレクラの話し相手も見えないから無茶な話ができる。深夜の声優ラジオはイヤホンを耳になじませて目をとじると、おだやかな闇が広がっていく。 綾波レイの毛穴は見えない。剣心の傷口に流血は見えない。神戸の「透明な存在」もまた、不可視である。 見せたくないし、見たくもない。それが、すべてを見せるという正義の上に築かれてきた括弧つきの「戦後民主主義」に無理やり引きずり込まれている僕らが取ることのできるほとんど唯一の戦略ではないか? にもかかわらず、おじさんたちはなおも見ようとする。暴こうとする。隠れている真実を可視化することの誘惑に抗しきれないでいる。 社員旅行のバスの中でひとりの上司が語る。「旅の恥はかきすて。すべてをさらけ出していきましょう!」 さらす。さらけ出す。腹を割る。本音を吐く。胸襟を開く。隠されたものを白日の下に!! 僕らがどうしてその言葉を信用することが出来るだろうか。すべてを見せるという正義の名の下に、もっとも重要な真実をひた隠しにしているという事態こそが真実であるということを、僕らは知ってしまっているのに。 だから僕らは、見えないものに真実を求めるのだ。 無断転載禁止
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