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幻想の女
( 19990207 )

Japanese/English

速水由紀子の『あなたはもう幻想の女しか抱けない』(筑摩書房)を読んだ。1998年11月10日刊の本がなぜ今ごろ名古屋ナディアパークの紀伊国屋書店の新刊書コーナーに並んでいたのか疑問だが(地域格差?)、桜井亜美の名前で小説を何作か発表しているフリージャーナリストが『AERA』に掲載した記事をまとめて単行本化したものである。

僕にとってはすでに慣れ親しんだ考え方の「おさらい」で、とくに新しく得るものはなかった。ここに取り上げたのは、このホームページの読者で、僕と同年代の男性にぜひ読んで欲しいと思ったからだ。

速水由紀子はいわゆるフェミニストとして群れているわけではなく、一人のジャーナリストとして「変わりつつある女」と「変われない男」の姿を、その様子がいちばんハッキリと現れているケースを例に取りながら追っている。それはこの本が1997年に殺害された東京電力OLを、象徴的なケースとして取り上げていることからもわかる。

そんなスタンスをセンセーショナリズムだとして煙たがる人もいるだろうが、社会の大きな変化はいつも小さな兆候からはじまる。その小さな兆候が実際に社会全体の変化を引き起こすかどうかはジャーナリストとしての「賭け」だけれども、僕は速水由紀子が嗅ぎ取っている兆候は正しいと思う。

この本の著者が嗅ぎ取っている変化とはどんなものか?読んでいただければいちばん早いのだが、僕なりにまとめてみる。男性がいまだに「家庭」とか「会社」とかいったものに属することで自分の存在意義を得られるという幻想を捨てられないのに対して、女性は「今、ここ」に生きている自分自身と向き合っているということだ。

男性はまだ集団への帰属意識でしか自己確認できないという「近代以前」の段階にあり、女性はそういう男たちの作ってきた社会に対する違和感から、はからずも「自分とは何か」を問うことができているという皮肉な現実がある。それでも男たちは会社や家庭という幻想にしがみつこうと、必死でゆりもどしをかけている。

ところで、例外的に「変わろうとしている男」と女の結婚生活の例として筆者があげているのは、広告代理店や雑誌編集部、芸能界など、典型的なサラリーマンとは言えない人たちばかりである。彼らは亭主関白型の夫婦幻想にとらわれず、友達っぽい夫婦関係を保っているという。

で、僕自身は、典型的な日本的経営の大企業につとめるサラリーマンで、まさに「変わろうとしない男」たちの巣窟のまっただ中に生活していると言っていい。

僕は高校生の頃にボーヴォワールの『第二の性』を読んでから、フェミニズム関連の本を読んだり、その活動に参加したりして、自分がいかに古臭い「結婚幻想」や「家族幻想」にとらわれていたかを痛感してきている。そして学生の頃は、大学院に進学して研究者になるつもりでいたので、すくなくともサラリーマンよりは「友達夫婦」的な男女関係を作りやすい環境になるだろうと考えていた。

だが、いろいろあって典型的な日本企業のサラリーマンとして働き始めることになり、その結果、ひとつ大きな発見があった。

サラリーマンになってしまえば、すべての男は否応なしに古臭い結婚をせざるをえなくなるものだと、僕は聞かされていた。夫は外で働き、妻は家庭を守るという典型的な性別役割分業のある家庭を作らざるをえないのだと。

でも典型的な大企業に入ってみれば、男たちは仕方なく「男はソト・女はウチ」の家庭を築いているのではなく、積極的にそれを望んでいるのだと分かった(彼らと結婚した女性はどうだか知らないが)。結婚した相手にそれまでの仕事をやめさせる男がいたのには、正直いって面食らった。結婚して家事に追われ、やむをえず仕事を辞めたというのではなく、妻に仕事をさせるのは男のプライドにかかわると信じている男が、いまだに存在したのだ。

つまり僕の発見とは、「サラリーマンの妻は家庭に入らざるを得なくなる」というのは、男の自己正当化以外の何ものでもなかったということだ。僕と同じ世代の男でさえそうなのだから驚きは大きかった。なぜそれほどまでに「結婚幻想」にしがみつきたいのか、今でも理解に苦しんでいる(もちろん「友達夫婦」的な結婚生活を楽しんでいる同年代もいるが)。

(「そういうお前はどうなんだ」という声が聞こえてきそうだが、少なくともサラリーマンとして「身ぎれいにする」とか「一人前になる」ために結婚するくらいなら非婚を選ぶ)

なぜ「結婚幻想」をいともかんたんに受け入れてしまう男が多いのか。その理由は速水由紀子の言うように、「自分の実存と向き合う」作業を怠ってきたからだろう。典型的なサラリーマンは、自分と向き合うことを「内にこもる」、「暗い」、「うじうじする」、「女々しい」などの表現で毛ギライする。「男らしさ」イコール、内にこもらず外に向かってガンガン攻撃的に生きるということであり、自分自身について悩むのは「非生産的」なのだ。

「内にこもる」くらいなら、フーゾクでもいってスッキリするか、スポーツでもやって気分転換するかして、とにかく「自分自身は誰か?」なんて答えのでない問題に思い悩むな、それがサラリーマンたるものだ、というわけである。

今後、能力主義が強化されれば、日本社会の文脈の中では、こうした「幻想」は当面は強まるのではないかと思っている。なぜなら会社を牛耳る「おじさん世代」がそうした「幻想」を必死で支えようとしているからだ。能力主義によって年齢による給料の差がちぢまる分だけ、「おじさん世代」は地位という無形の既得権にしがみつき、必死でゆりもどしをかけるだろう。

この本の著者は、フリージャーナリストという立場上、「幻想なき未来に向かって」すでに歩き出している人口の比率が多い世界で生活している分だけ、まだ楽観的になれるのだと思う。

40歳ちかくになってパートナーからいきなり離婚届を突きつけられたくない男性は、この本を読もう。


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