![]()
![]() 悲しみを語る言葉 ( 19980321 ) このページの読者で、僕の宮台擁護に賛同するメールをくれたことのある男子高校生の及川君が、「週刊金曜日」に記事を書いたので是非読んで欲しいと知らせてくれた。3月13日発売の号で、記事は少年のナイフ犯罪に関するもの。彼自身が宮台氏に取材したインタビューも、小さな囲み記事として添えられている。 「週刊金曜日」といえば、筑紫哲也や落合恵子が編集責任者に名を連ねている硬派の週刊誌だ。そこに自分の書いたものを載せてしまう高校生としての彼の行動力には敬服すべきものがある。そんな人物を読者に持つとは、まったくホームページ開設者冥利につきる。 前置きはこれくらいにして、柔道部部長をやっているという及川君の記事は、今の中高生の間で、一番クールな男子はどんな奴か?ということに言及している。いわく、普段はおだやかで面倒見もよいが、マジ切れすると恐い、そんな奴がカッコイイ奴ということだ。 傍証として彼は『寄生獣』など、男子中高生の間で人気のあるマンガをあげているが、確かに一連の少年によるナイフ犯罪には、「マジ切れパワーで、一目おかれたい!」という少年たちの願望を見てとれる。 僕は、及川君のように豊富なマンガのリファレンスを持ち合わせていないが、たとえば十年ほど前、フジテレビの深夜枠でカルト的な人気を誇っていた、豊川悦司・武田真司主演の「NIGHT HEAD」や、このページでも再三取り上げている「新世紀エヴァンゲリオン」にも、「マジ切れパワー」が魅力的に描かれている。 「NIGHT HEAD」における武田真司の役柄は、日頃は豊川演じる兄に甘えっぱなしで頼りない少年が、さまざまなきっかけて怒り心頭に達すると、超自然的な力を発揮するというもの。「エヴァンゲリオン」でもやはり、いくじなしの主人公シンジが、危機的な場面に信じがたい能力を発揮する。 そんな登場人物が少年たちの支持を得るのには、理由がないわけではない。名古屋鉄道の大曽根駅には、マトリックスに配置されたブラウン管群があり、ケーブルテレビの宣伝のために各局の番組が音声ぬきで垂れ流しになっているが、たまたまかかっていた「新世紀エヴァンゲリオン」の画面を、小学4年生くらいの男の子が瞳を輝かせて指差していた。シンジ君は彼のヒーローなのだ。 僕らよりも上の世代にとって、男性の美徳とは、押しの強さや、ずうずうしさである。とにかく声が大きく、強引に周囲を引っ張っていく明示的なリーダーシップを備えた人間こそが、理想的な男性像というわけだ。 ふだんから陽気で外交的。よくしゃべって、裏表なく行動する。そんな加山雄三タイプの男性が、かっこいい奴と見なされていた。 しかし、僕らより新しい世代の中高生にとって、加山雄三タイプは単なる「バカ」でしかない。裏表のない性格は、デリカシーのなさを意味するにすぎず、そのようなキャラクターは生活の彩りにはなるだろうが、誰も彼を理想形とは見なさない。 今の中高生が一目おくタイプは、及川君が「週刊金曜日」の記事で指摘しているように、二面性を持った奴だ。ふだんはどちらかというと寡黙で物腰も柔らかだが、いざとなると暴走する。 確かに、暴走したエヴァ初号機を見るとき、僕らは恐怖と同時に、ある種の爽快感を抱く。それは、ナイフ犯罪に走った少年たちに対して、一部の中高生が「スッキリした」「すごい奴だと思う」などの感想を漏らしていることに通じる。 80年代までの不良と彼らの違いは明らかだ。90年代の少年に対して「不良」という語彙を使いつづける愚鈍な大人たちにならって、ナイフ犯罪に走った少年たちを「不良」と言うなら、かつての不良は四六時中、隠すところなく不良であったが、今の「不良」少年は、日常的にはあまりに普通の子であり、ある瞬間だけ「不良」になる。 大人にとっては、かつての不良の方が御しやすかっただろう。一目見れば不良であることが歴然としている。かつての不良は、安保の新左翼学生がそうであったように、反体制の旗幟鮮明であった。 だから、宮台氏もある著書の中で指摘しているように、伝統的な意味での不良、つまり、シャコタンを乗り回す暴走族のような連中は、そうした不良行為を「卒業」すると、一転して超保守的な家庭を築く。そして若さゆえの過ちを、懐かしくふり返ったりするのだ。 しかし、今のナイフ犯罪を犯す少年にとって、「切れる」ことに文脈はない。かつての不良の不良行為が、飽くまで学校や親たちに対する反乱という政治的社会的な文脈を持っていたのに対して、ナイフ犯罪の少年たちの「切れる」行為は、純粋なエネルギーの爆発であり、社会的な文脈からまったく自由である。 及川君も「週刊金曜日」の記事でそのことについて、彼ら少年たちは「切れる」ために「切れる」のだ、と「切れる」ことの自己目的化に言及している。まさにその通りで、彼らは何者かに対して「切れる」のではない。単に「切れる」ために「切れる」のだ。 ただ、彼らが「切れる」ことにはある程度社会的な文脈に依存した理由がある。今の中高生たちは、内申点の重視という文部省の「全人格教育」の下で、親や教師に一挙手一投足を監視されているため、常に「良い子」として振る舞う技術を身につけて適応している。 親たちの世代の、すべてを白日の下にさらそうとする暴露主義の文化の中にあって、子供ににプライバシーはなく、カバンの中から心の中まですべてをさらけだすことを求められている。 そのため、子供たちは、最小限の秘密を残して他のすべてを明けわたすが、大人は倦むことなく「もっと見せろ」「もっと正直に」と言い続け、子供の心に入り込もうとやっきになる。 子供はますます自分の秘密の部分を追い詰め、小さく、かつラディカルに育てていく。秘密は小さく凝縮されるほど、ますます過激なエネルギーを持つ。かつての不良は反社会性に自分の存在意義を見出していたが、今の少年は自分の中の凝縮された核、大人たちには見えない(透明な?)秘密の部分に、それを見出している。 反社会性は可視化されている分、大人よってに馴致されやすいが、今の中高生が心に秘めている透明な核は、彼らがそれを徹底的に隠そうとしているだけに始末が悪い。「マジ切れ」という行為になって現れるまで、決して露呈しない性質のものなのだ。 少年たちが使わないなりに隠し持っているナイフは、そうした透明な核の具現化に過ぎない。ナイフを持っている少年はTV局のインタビューに答えて、「ナイフを持っていると安心する」と答えているが、誰にも見えない隠れた力だけが彼らに存在理由を与える、そのような状況に彼らは生きざるを得ない。 なぜ彼らは、決して大人の目に触れない部分にしか、自分の存在理由を見出すことができないのか?大人に本当の自分をさらせば「下らない。さっさと勉強しろ」と言われるのがオチであり、大人と正面切って対立することの愚かさを知っている(勝ち目などない)からだ。 及川君は、「週刊金曜日」の記事で、少年は少女に比べて想像力が欠如しており、かつ、宮台氏の論を受けて、少年は言葉を持たないことを述べている。 少年が好んで読むマンガには暴力の線形のエスカレートがあるだけであり、少女マンガのような紆余曲折やこまやかな心理描写は皆無である。それが、現代の少年の、他人の心情に対する想像力の欠如をよく表わしているというわけだ。 「北斗の拳」「ドラゴンボール」など少年マンガの典型は、主人公は徐々に手強くなる相手を打ち負かしていくというリニアな物語でしかない。それに対して、「ガラスの仮面」など少女マンガの典型は、あるときは火花を散らし、あるときは互いを必要としながら、何年にもわたって競い合う人間関係を描く。 このような少年マンガの文化と、少女マンガの文化の差異を深いところで規定するのが、言葉による感情の分節の有無である。少年マンガは「アタタタタタタ...!!」「ウリャー」であるが、少女マンガは、
今の少年たちに必要なのは、自分の透明な核に、言葉を与えることだ。心の奥底に隠された感情を、言葉で分節してやることだ。 ところが、大人たちの男女のステレオタイプにおいて、感情的な問題にかかずらわるのは「女々しい」こととされているので、情緒的なことがらに男は言葉を与えてはいけないことになっている。 加山雄三タイプの人間は、自分の心情をつらつら言葉で語るような女々しい行為を軽蔑し、つねに外側に向かって行動することを良しとする。しかしそれは、子供が振る舞いたいように振る舞うことが大目に見られていた古き良き時代へのノスタルジーでしかない。 学校を中心に編成された息苦しい日常生活の中で、今の少年たちはかつての少年たちが地域社会で思うままに発散していたような思いを、内側に向かって屈折させるより他ない。そんな彼らから、自分の感情を分節する言葉さえも奪ったのでは、透明な核は「アタタタタタタタ...!」となるか、神戸の少年のように妙な神様を頂いた秘儀的なものになるのは当然だ。 僕も「週刊金曜日」の宮台氏にならって言おう。今の少年に必要なのは、自分の感情を言葉にする習慣だ。それは決して女々しいことではない。人間的なことだ。 及川君がナイフ犯罪に走る少年たちを、自分が当事者の年齢にありながら冷静に分析することができているのは、彼らの心理を明晰に語る言語能力を持ち合わせているからだ。 国語が苦手なのが男らしさである時代は終っている。少年たちよ、感情を語る言葉を持とう。怒りや悲しみを口にすることを恥ずかしがらなくてもいい。辛いときは辛いと言おう。悲しいときは悲しみを語ろう。日記でもホームページでも何でもいい。そうして自分の感情を言葉にすることが、本当の存在理由を確認する作業でもあるのだ。 無断転載禁止
![]()
|