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![]() ”子”のつく名前の女の子は頭が良いか? ( 19970904 ) 僕も「”子”のつく名前の女の子は頭が良い」の筆者と同じく、「僕らの世代」とはどんな世代かをいろいろ考えている。僕がこの本を手に取ったのもそのせいだ。 社会学系の論文の一つの特徴は、精緻な論証(その論証も「一見」精緻であるに過ぎないのだが)に比べてその結論が物足りなく思えることである。社会学は数学や哲学など純粋に理論的な学問と異なり、つねに現実の変革を指向しているように見える。そのわりには正直言って結論が貧弱なのだ(それは僕が学生時代に、この本の筆者も引用しているデュルケムの「自殺論」を読んだ時に感じたことである)。 この「”子”のつく名前の女の子は頭が良い」については、結論部分、正確には論理的分析の結論から導き出された、分析者自身の「提案」部分を読んだ時に、この書物の無効性が僕にははっきりと分かった。 筆者は、現在の15歳前後の世代を「メディア二世」と類型化し、「彼らは会話のあと行動を変えることができない」(p180)「『夢』だけを集めていく」(p181)世代と位置づけている。 そんな「メディア二世」が現実に適応するために「必要なのは、心理的な安定より、具体的な情報なのだ。社会において実際に必要とされる知識なのだ。メディアという回線をとおさない、フェイストゥフェイスの情報だけが、彼らに力を与えてくれるだろう。そして、情報獲得のためには費用を惜しまない、本当の情報の価値を知るものだけが、未来への扉を開けることができるだろう」(p192)。 この結論におよんで、筆者の考え方が、僕がこのホームページの別項「上司の小言は聞き流そうの巻」で類型化した「僕らの上司」に非常に近いことに気づくだろう(こちらをまだお読みでない方はぜひ御一読をお願いします)。 筆者が「有効なコミュニケーション」(僕らの上司なら「人脈」というもの)と、「メディア二世」が求めてやまない「夢」を対比させるとき、筆者の言いたいことははっきりしてくる。 ●「有効なコミュニケーション」に属する表現(筆者が良しとするもの) ●「夢」に属する表現(筆者が望ましくないとするもの) 僕が筆者にぜひ聞いてみたいことがある。「信頼できる人々」って誰のことですか?「生のままの情報」って?「地域社会」ってなんですか(どこにあるんですか)?「レディーメイドでない情報」なんか存在するんですか?「手あかまみれ」でない情報なんか存在するんですか? 筆者は、筆者がいうところの「メディア二世」(おそらく何千万人という単位の母集団)から、悲観的な部分だけを取り出したがり、「メディア〇世」を称揚したがるふしがある。 これに対抗してというのではないが、僕は「メディア〇世」の典型として、「軍国少年」「軍国少女」をあげてみたい。 「軍国少年」「軍国少女」のような類型が発生した原因は何か?まさに隣組に代表されるような「地域社会」で得られた「行動にすぐ結びつくタイプの情報」である。それは配給制度とともない「生活に直結している情報」でもある。 このように、筆者が「有効なコミュニケーション」と考えるものは、確かに「有効」ではあるが、背景によっては非常に「危険」にもなりうる。その背景とは、「軍国少年」「軍国少女」という類型が発生した時代は、このような地域コミュニティーで得られる「生のままの情報」しか存在しなかったことである。それ以外に選択肢がなかったことである。 戦後、その反省からわれわれはより多くの情報を求めてきたのではなかったか?民主主義というのは十分な情報を前提としている。情報源はできるだけ少数の人間にコントロールされない方が望ましいのである。 じゃあどの情報が「有効」で、どの情報が「無効」かを、誰かが判断できるのだろうか?たとえ「”子”のつく名前の女の子は頭が良い」の筆者が、善意で地域コミュニティーの情報は「有効」だという助言をわれわれに与えてくれているとしても、それを鵜呑みにはできないし、してはいけない。なぜなら、地域コミュニティーの情報は「有効」なのではなく、単に「存在価値がある」というだけのことだ。 どの情報が「有効」か「無効」かを自分の価値観で判断すること、これほど危険な行為は存在しない。これは「メディア〇世」が最近よく行って、世間の批判を被っている、まさにその行為ではないか?つまり、動燃の幹部。彼らはまさに「メディア〇世」であろうが、彼らはどの情報がわれわれに「有効」で、どの情報が「無効」かを勝手に判断してしまった。そして彼らが「無効」と思われる情報は流さなかったのである。 また、某証券会社の幹部。彼らはまさに「メディア〇世」であろうが、顧客によって与える情報にバイアスをかけている。情報経路の途中に、その情報に関する価値判断を勝手にはさんでしまったのだ。 また、全国各地の自治体の例。市民がいくら情報公開を望んでも、得られる情報には黒マジックを含めて様々な形でのバイアスがかかっている。 このような「メディア〇世」の例はいくらでも挙げられるだろう。むしろ、情報の持つ影響力を過小評価し、自分の権力を利用して勝手にバイアスをかけてしまう、それが「メディア〇世」の危険極まる性格だとは言えないだろうか? それならばいっそのこと、そんな「有効」か「無効」かなんていう価値判断ぬきで、とにかくある情報をわれわれに与えてくれるべきではないか?情報の無効性/有効性を判断する権利は、だれにもないはずである。 だからこそわれわれは、メディアというものを求めてきたのではなかったか? メディアがあるからこそ、われわれはそのような「バイアス」による被害を最小限に食い止めることができている。つまり、動燃や某証券会社の不祥事をちゃんと報道してくれるメディアが存在する。 この点において、CNrateという秀逸な分析装置の発明に比べて、筆者の論旨はきわめて危険であるといわざるを得ない。 もちろん筆者の意図したことは、地域コミュニティーから得られる情報「だけ」にしてしまえ、ということではなく、その種の情報「も」必要ですよということだろう。 それは認めるにしても、筆者の言う「有効なコミュニケーション」が、筆者の言う「夢」に比べて「優れている」とは言い難い。やはり問題は、筆者が「夢」に対して「現実」というものをいとも簡単に前提しすぎていることにある。その意味で筆者はひじょうに素朴な人である。 僕が思うに、筆者があげている「有効なコミュニケーション」の前提は、すでに筆者のいう「夢」に包含されてしまっている。メディアの吐き出す「夢」を免れている「他人」や「地域社会」などどこにも存在しない。それこそ「夢」のような話だ。 むしろ、今でもメディアの「夢」に汚染されていない、「メディア〇世」が生きた時代のような場所があると信じていることこそ、筆者が抱いている「夢」なのではないか。 筆者が一見称揚しているに思える「メディア〇世」は、とくに「メディア」というものに対峙したとたん、先に記したような見苦しい姿をさらしている。これは、「メディア〇世」が真に「有効」な情報が何かを知っているからでは決してない。 彼らは「自分の力で手に入れた情報」にしか触れずに子供時代を過ごしたため、自分の得た情報をすべて「自分の力」で得ているという、偉大な「夢」を見ているのである。その結果、そうして手に入れた情報は「自分の力」で意のままになると思い込んでしまっている。 つまり、「メディア〇世」がいわゆる「足で稼ぐ」情報を重視するのは、彼らが結局そういう方法でしか情報というものに付き合えないからである。もし彼らが、先に僕が書いたようなメディアの登場背景と、存在意義をちゃんと認識していたら、わざわざ自分に「有効」な情報だけをメディアに流すという無様をさらさないはずだ。彼らは単に、情報の扱いに慣れていないだけである。 その点、筆者が「『夢』だけを集めていく」と評価している「メディア二世」の態度は、そのような情報に対する適応である。それは「望ましい」適応でも、「望ましくない」適応でもなく、単なる適応である。ただし、現時点で最善の適応であることには違いない。 では、そのような「メディア二世」に仮に筆者が主張するような問題点があるとして(僕は個人的には「メディア〇世」のさまざまな不祥事の方が、よっぽど実害があるように思うが)、それを解決する唯一の方法は、決して筆者が主張するような、 などではない。結局のところメディアに汚染されていないユートピアなど、「夢のまた夢」なのだから。 おそらく筆者がそのようなユートピアを信じるに至ったのは、普段付き合う人々のうち、「メディア〇世」の意見を優先させなさいと、「メディア一世」の両親に教えられてきたからだろう。そして筆者は、筆者がそう信じているところの「メディア二世」が「夢」ばかりを追いかけているのと同じように、「現実」ばかりを追いかけている。 しかし、筆者が感じている「現実」が、真の現実(そんなものがあればの話だが)である保証を、筆者はどこから得ているのだろうか?何度も言うように、たしかに幼児虐待をする「メディア二世」予備軍の母親には問題がある。しかし、「メディア〇世」が、あやうく垂れ流すところだった放射能の方が、よっぽど深刻な問題なのでは???? 結論として、筆者が陥っている陥穽で、もっとも危険と思われる点は、筆者が素朴に「現実」と「夢」の区別を前提した上で、筆者のいうところの「現実」の方が重要だという価値判断をしてしまっている点である。 「現実」と「夢」の二分法そのものには問題無いが、どちらがよいかという判断をしてしまっていることによって、筆者は決定的に「メディア〇世」の言説に加担する結果になっている。それは、「現実」のメディアに適応しようとする道ではなく、そこから完全に逃げ出して、「現実」というユートピアへ逃げ込もうとする、ある意味で後ろ向きな態度である。 たしかにこれは「メディア〇世」の「リアリズム」にコンプレックスを感じながら育っている「メディア一世」や、「メディア〇世」自身には受けはいいだろう。しかし、「メディア二世」には相手にもされないと思われる。 でも、安心してください。 「”子”のつく名前の女の子は頭が良い」という単行本は「ベストセラー」という形で、すでに筆者が批判しているところのメディアに取りこまれてしまっています。 僕がこの本を読むのは、単なる「メディア」の一部としてなのです。つまり、この本そのものが、僕にとっては「夢」なのです。 現代の少女がいったい何を考えているのか知りたい!!という「『夢』だけを集めていく」「メディア二世」特有の態度から、僕はこの本を購入して読んでみました。 そして発見したことは、この本の筆者もどうやら夢を見ているらしいということです。しかし始末が悪いのは、筆者は自分の見ている夢を現実だと思っているところですが、いくら言ってもたぶん分かってもらえないでしょう。 なぜなら、この本の筆者自身も、自分の現実という名前の「『夢』だけを集めていく」「メディア二世」なのですから。 無断転載禁止
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