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お野食と空間布置
( 19980623 )

Japanese/English

また日本経済新聞ネタで申し訳ないが(日経読もうネ!)、土曜の「NikkeiX」に「若者に広がる野食のナゾ」という記事があった。地べたに座りながら、あるいは歩きながら、周囲の目も気にせず若者はいたるところで食事をするという内容だ。

この記事はそうした「野食」現象を、食生活や精神構造の変化などから分析してそれなりにおもしろかったが、思うに、若者の「いつでもどこでも(anytime, anywhere)」という現象は、食に限ったことではない。

この記事では他に、ところかまわずキスをする若者、電車のなかでルーズソックスをはき直す女子高生、ということも取り上げられているけれど、よく考えれば、PHSや携帯電話はところかわまず電話するということだし、もともとポケベルにしたって場所を選ばないのが便利さのポイントだ。

それに街中のあちこちで中高生がすわりこんでいるのも、ところかまわず「まったりする」ということで、電車の窓で髪を直したり、公園など無料でくつろげるスポットが若者に人気なのも、無料だから、というよりは、「どこでもくつろぐ」という若者のスタイルが前提になっている。

こういう若者を見ると、おじさん・おばさんは「公私のけじめがなくてはしたない!」と言いたくなるだろうが、喫茶店で下世話な話をしたり、会社の金で高級料理店に行ったりする方が、よほど公私のけじめがない。問題はそんなところにはないのだ。

いろんなことを「いつでもどこでも」できる人々(主に若者)と、そうでない人々の決定的な違いはなんだろうか。第一義的には、都市・街というもののとらえ方の違いだと思う。

おじさん・おばさんたちにとって、街は飽くまで「ハレ」の特別な場所であって、街に出るときはちゃんとした身なりで、公共の場であることをわきまえて行動すべきだという意識が抜き難く備わっている。

十年前、歩行者天国で踊っていた元若者にとっては、別の意味で街は特別な場所だったに違いない。つまり、ふだんの自分を離れて自己主張できる場所、自分のスタイルを誇示できる場。いまだにバリバリいわせて走っている暴走族も、まったく同じ「街観」を共有している。

自己主張という意味では、団塊の世代が公園や道路でデモっていたのも根っこは同じという気がする。やはり街は、プライベートな空間とは違う、特別の磁場を備えた場所だったのだろう。

それを証拠に、地元や自宅にいったんもどってしまえば、おじさんはパンツ一枚でぐったりしてるし、おばさんも化粧を落として「解決熟女」とか見てるし。暴走族は結婚して家庭をもつと妙に保守的になったりするし、かつての活動家たちは、プライベートな空間では家父長的価値観を疑わなかった。

こういう「都市=公/自宅=私」のパラダイムから見れば、「anytime, anywhere」の若者のライフスタイルは、たしかに「公私混同でだらしない」としか見えないだろう。

一方、ところかまわず食事したりキスしたりする若者には、そうしたヘンな気負いはないみたいだ。街は彼らにとって第一の生活の場であり、特別なところはなにもない。むしろ親がピリピリと神経を尖らせて待っている自宅の空気の方が特殊に感じられるだろう。

もともと都市というものは、地縁も血縁もない見ず知らずの人々が集まってくる場所だったから、それなりの公共ルールが必要とされ、プライベートな空間に対するパブリックな空間として明確な線引きをせざるを得なかった。

でも、現代に生きる人たちにとっては、そもそも地縁も血縁もそれほど重要な役割を果たさないのだから、都市が特殊なルールを持つ必要もないわけだ。現代人は、もともとお互い赤の他人であり、地元に帰っても赤の他人であることに違いはない。

街中で「いつでもどこでも」流の生活をする若者は、そのように現代の都市という空間のもつ意味が、確実に変わりつつあることを正確に告げ知らせているとは言えないか。だとすれば、それに眉をひそめるのはまったく見当違いだということになる。

むしろ都市計画に携わる大人たちは、パブリックでもプライベートでもない都市、という都市の根本的な変質に見合った社会を、今のうちから思い描くべきだろう。

携帯機器の進歩につれて、特定の場所でしかできないことは少なくなる。都市が生活の場になるのと入れかわりに、家庭が仕事の場になる。そうして今までは明確に区別されていた2つの空間の相互浸透がはじまる。

今までは場所として視覚的に区別された2つの空間が、見た目には均質化される。だからといって、差異がどこかへ消えてしまったわけではなく、携帯電話どうしを結ぶ電波や情報ネットワークの中に、見えない空間が生まれ、見える空間との対照をなしている。

目に見える物理的な空間と、目に見えないヴァーチャルな空間の差異は、今までの家庭と都市の差異とはまた違った体系で、ひとつの社会全体をかたちづくるだろう。そこには自然発生的に新しい「ゲームの規則」ができるだろう。

日経新聞の記事では、若者の「野食」は、ちょっとした厄介事程度の扱いだけれど、僕はそこに社会の本質的な変化のきざしを見たい。

ちなみにこの種の変化は、やはり東京や大阪など都市生活が熟しきった地域が先行しているようだ。金曜日の夜8時ごろ、名古屋の繁華街(飲み屋街ではなく)を歩くと、ほとんど人通りがないのに驚かされる。同じ時間帯なら土日の方が人どおりが多い。

名古屋の街は、いまだに古い意味での都市としての機能を果たしているらしいのだ。つまり、人々は仕事が終わればさっさと家へ帰り、都市そのものが生活の場になることはない。逆に土日になると、着飾って街へ出てくる人たちが増える。その結果、金曜の夜はがらがらで、土日の夜はにぎやかになる。

ただ、日曜日になると、地下街から地上へ吹き抜けになっている広場の階段にすわり込んで、ハンバーガーを食ってる高校生のお兄ちゃん・お姉ちゃんがけっこう目に付くようになった。自動車なしでは生活できない名古屋だから、早晩彼らもマイカーという古いタイプの空間に収まることになるだろうが、それでも多少なりとも変化し始めているようだ。


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