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当たり前に生きない
( 19971129 )

Japanese/English

先日ある席で、同じ職場の課長が、めずらしくしんみりした口調で話していた。課長は最近、血栓のために数週間病床に伏すことがあったが、その病床で職場の同僚や部下を思って言い知れぬ感謝の念にとらわれたという。

病気になってはじめて分かる健康のありがたさとはよく言われることだが、もう少し一般化して言うなら、ふだん当たり前と思っていることが当たり前でなくなる瞬間がある、ということになる。

人には、当たり前すぎて意識しないことがたくさんある。「当たり前」ということは、余計なことに神経を使わなくてもいいようにという配慮から生まれている。ふだんの生活で、いちいち「なぜ空は青いんだろう」「どうして日本には外国人が少ないんだろう」とか考えていたのでは、仕事や勉強にならないからだ。

しかし、Aさんが「当たり前」と思っていることと、Bさんが「当たり前」と思っていることが、一致しない場合がある。このとき、AさんとBさんの間にはすれ違いが起こってしまう。女性差別や民族差別など、多くの差別問題はここから起こる。日本人が「日本に戦争責任がないのは当たり前」と思っていても、そうは思わない中国人・韓国人はたくさんいる。

もうひとつ、1997年時点で世間一般に「当たり前」と思われていることと、20年後の2017年に世間一般で「当たり前」と思われていることは、とうぜん違うだろう。これは世代間のすれ違いとして現われる。おじさんたちの常識と、僕らの常識は違う。しかし、おじさんたちは社会的な権力を持つにつれて無神経になるので、ときに僕らや子供たちの常識を押しつぶしてしまう。

また、同じAさんの中でも、若いころ「当たり前」だったことと、人生もなかばを過ぎてから「当たり前」と思うことの中身も違ってくる。おそらく、上に例としてあげた課長の場合はこれにあてはまる。

若いうちは自分の体力や生命に限界があるなんて思いもしない。だから煙草や酒で自分の命を粗末にあつかう。しかし倒れてはじめて自分は有限な命をもった人間であることにきづく。そこから摂生してももう遅い。

より社会的な文脈で考えてみよう。自分の命に限りがあるなど思いもせず、多少無理してもかまわないという人に、生命を慈しむ気持ちは生まれにくいだろう。これまで「当たり前」と思ってきたことによって社会的に成功した人は、自分が「当たり前」と思ってきたことをいつの間にか「正しいこと」にすりかえてしまう。

「当たり前」と「正しいこと」は、全然違う。「当たり前」は当人が正しいと思っていることであり、「正しいこと」は誰もが正しいと認めることだ。前者はあくまで相対的な真実でしかなく、後者は絶対の真実である。

戦後日本の経済成長を支えてきた世代を見てみると、自分の成功体験をよりどころにして、自分たちの「常識」が、絶対の「真実」であるかのように、勘違いをしている人が多すぎる。

サラリーマン社会はその最たるものだ。

今のサラリーマン社会、いかにもサラリーマン的な社会を作ってきたのは、まさに経済成長を支えてきた世代だ。別のページでも書いたように、「飲ニミケーション」やゴルフなどの接待文化、年功序列・終身雇用という幻想、個人の能力より会社への適応を重視する評価、過労死に至るオーバーワークなどなど、日本のサラリーマン的な文化はすべて、この世代によって形作られ、いままで「当たり前のこと」として通用してきた。

しかし、なにが「当たり前」か?を決めるのは、人の好みではなく、社会のしくみである。社会のしくみが変われば、当然「当たり前」の内容も変化しなければウソだ。

社会の変化を無視して、いつまでも自分たちが「当たり前」と思うことを押し通そうとすると、ひずみが生じる。そのひずみの醜さを、僕ら若い世代は、最近毎日のようにTVで見せつけられている。

それでも自分たちの「当たり前」を捨てられないおじさんたち、それも社会的地位や権力をもったおじさんたちを前にして、僕らや子供たちはどうすればいいのか。

おじさんたちは、会社を一つつぶしてはじめて、自分の「当たり前」が「当たり前」でないことに気付く。愛する息子がいじめを苦に自殺してはじめて、家庭内暴力をふるう息子を殺してはじめて、中学生が小学生を殺す現実を前にしてはじめて、セクハラ被害にあった女性従業員からの訴えではじめて、「当たり前」と思っていたことが「当たり前」でなかったことに気付く。

ひとつ言えることは、それでは遅すぎるということだ。

僕らはおじさんたちの轍を踏まないように、なにをすべきか。おじさんたちが、ノイズとして切り捨ててきたこと、つまり、ふだん「当たり前」と思っていることを、ことあるごとに考えなおしてみることだ。

相変わらずおじさんたちは「そんなヒマがあったら仕事せぇ!」と怒鳴るかもしれないが、僕らは、僕ら自身と将来の世代のために、自分の「当たり前」をつねに見つめなおすようにするべきだ。

おじさん世代の中の数少ない人々が、自分たちの「当たり前」を考え直して、環境問題などさまざまな社会問題の先鞭をつけてきた。

痛い目を経験してはじめて学ぶ、そんな経験主義的な生き方ではなく、痛い目にあわないようにする(別項で述べたリスクヘッジ・ライフ)、つまり、ある意味で「哲学的」な(先験的な?)生き方が、これからの時代にふさわしいのかもしれない。


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