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![]() 誰のものでもない場所 ( 19990303 ) ホームページを開いてからもう2年近くになるが、最近インターネットに異変が起こっているなぁと感じる。最初にたとえ話を一つ。僕が道を歩いていたら、偶然殺人事件の現場に出くわしたとする。当然殺人犯は刑法で罰せられるが、僕がその殺人犯をなぐったりして個人的に刑罰を与えるのは許されない。私刑(リンチ)は違法である。それが現実の世の中だ。 一方インターネットの世界には、警察や司法当局のような公権力というものが今のところ存在しない(最近ネット上の迷惑行為に関する法律が出来たりしているが、ここではちょっと横へ置いておく)。インターネットに参加している人は、プロバイダなどの法人も含めて、飽くまで一私人として参加している。誰も他人を罰する法的な根拠を与えられていない。 ニフティーサーブのフォーラムや、インターネット上のニュースグループ、メーリングリスト、掲示板もすべてそうだ。確かにフォーラムには管理者がいるし、ニュースグループやメーリングリストには実質的なとりまとめ役が存在する。 しかし管理者やとりまとめ役に、参加者の行為が「違法」かどうかを裁く権利はないし、まして「違法」と判断した上でそれを罰する権利もない。たとえYahoo!の掲示板におけるYahoo!Japanの立場であっても、掲示板の発言者の行為を制限する法律上の根拠は存在しない。そこには単に参加者のゆるい合意を得ているルールがあるだけだ。そのルールも自然発生的に生まれてきた慣習のようなものにすぎず、客観的な妥当性を保証するものはまったくない。 こういう「仲間内の決めごと」は、共通の趣味や、共通の技術的レベル、共通の思想的背景をもった集団なら確かにうまく機能するだろう。しかしたくさんの新しい参加者が流れこんできて、暗黙のコンセンサスを形成しにくくなった場合、ルールの効力そのものが薄れてくるだけでなく、本当にそのルールが永遠に使えるのかという疑問も出てくる。 今、日本国内でも女性を含めてインターネット利用者が急増している。インターネットという世界に、たくさんの新しい参加者が流れ込んできている状況がある。 数年前までインターネットというのは、コンピュータ利用者の中でも上級者だけの世界だった。ニュースグループやメーリングリストのような一定の閉鎖性をもった世界も、上級ユーザが作り上げてきた「インターネット文化」だ。 ところがそこへパソコンでさえ始めてまだ数か月という初心者がどんどん入ってくる。一方にはインターネットについて一定の考えを持った古参のユーザがいて、もう一方には何の先入観もなくインターネットを利用するユーザがいる。両者がぶつかったとき問題になるのは、古参ユーザが自分たちの作ってきたルールを「絶対に正しい」と譲らないことによって、インターネット上での事実上の「公権力」になってしまうことだ。 もちろん古参ユーザが意地悪で初心者を締め出すわけではないが、自分では善意でルールの徹底をはかっているつもりでも、本当に従来のルールを徹底するのが「正しい」ことなのかどうか、議論の余地がある。 たとえばあるニュースグループにAさんが個人売買の広告を投稿したとする。しかしそのニュースグループは個人売買の広告は禁止だという暗黙のルールがあった。 この状況を古参のユーザから見れば、「とんでもない奴が入ってきた!」となる。ニュースグループには定期的に利用上のルールが投稿されているので、過去の記事をさかのぼれば個人売買の広告が禁止だということぐらい分かるはずだ!そんな自助努力さえしない者は参加する資格なし!... 一方、個人売買の広告を投稿した本人は、ニュースグループに参加する前には過去の記事を読むべきだ、ということさえも知らない。そもそもニュースグループが(たとえ暗黙のものであれ)一定のルール下に運用されているという認識すらない。 どちらも悪気はまったくない。古参ユーザはルールを徹底しているだけのことで、新入りのユーザはニュースグループが何かという認識がないだけ。たぶん今後この手の「不幸な出会い」はインターネットのあちこちで繰り広げられるだろう。 そのときありがちなのが、古参ユーザがきわめて「冷酷な」対応をすることだ。ルールを分かってないあんたの方が悪いんだよ!と言わんばかりにその記事を削除したり、個人攻撃ともとれる意地悪な返答を返したりする。古参ユーザの中にはわざわざ問題をこじらせるような回りくどい反応をするユーザが少なくない(僕自身もそういう経験がある)。 なぜそういうことになるのか。僕が思うに、もともとインターネット自体が「反=公権力」の空間として育ってきたことが大きい。古参ユーザはインターネットを過度に理想化する傾向がある。インターネットには真の言論の自由、真のコミュニティー、真のボランティア精神、真の自主独立の精神がある、などなど。 ところが「反=公権力」の空間を支えてきた彼ら自身が、膨大な新参者の流入によって、知らず知らずのうちにみずから「公権力」のような振る舞いをするようになってしまっている。いつの間にか自分たちがルールブックだと主張し始めているのだ。 始まりは自由主義者(リベルタリアン)だった人々が、知らぬ間に自ら仮想空間の「公権力」と化して、自分たちのルールで仕切ろうとしている。どうもそういう流れが、今インターネットで起こりつつあるような気がしてならない。そして新参者の側は大きく二つに分かれる。一方は古参のユーザに追従し、ときに彼らを崇拝しさえする。他方は古参のユーザを「オタク」呼ばわりして無視する。 もちろんインターネットにはいろんなユーザがいて構わないのだが、古参ユーザがインターネットを仕切り過ぎではないかと思う。インターネットへの愛着が強い分、従来のルールへの執着が強すぎるように思う。 僕はもっと無遠慮な新参のユーザが増えて、インターネットの世界を本当に「開放的な」ものにして欲しいと思っている。国民の数パーセントしか利用していないインターネットと、国民の半分以上が利用するインターネットは、まったく質の違うものであるはずだ。その質の変化にともなって当然新しいルールが生まれてくるべきだ。 インターネットは、Outlook ExpressでHTML形式のメールを送ってきた初心者に対して、マイクロソフトの悪口まじりの返答を送るのがカッコイイと思っているような人たちだけのものではなくなりつつある(こんなことを書くと、きっと古参ユーザが噛みついて来るだろうなぁ)。それは悲しいことではあるが、ある種わくわくする変化でもある。 無断転載禁止
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