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no responsibility, no reliability
( 20001104 )

Japanese/English

僕らがインターネットを使うとき、プロバイダは僕らが与えた個人情報を勝手に漏らさないだろうと信頼している。プロバイダは法人であり責任主体が明確だからだ。

また、僕らが電子メールを出すとき、メールの配信経路にあるすべてのサーバがメールの傍聴などしていないと信頼している。だが、僕らが漠然とメールサーバを信頼しているとき、いったい「誰を」信頼しているのか?サーバの製造業者か?サーバの管理者か?サーバを資産として保有している法人か?メールサーバソフトを開発したソフトハウスか?

このように責任主体の明確でないところにはそもそも信頼など発生しない。にもかかわらず僕らはインターネットを「なんとなく」信頼している。ではあなたは一体インターネットの「何を(誰を)」信頼しているのか。

考えてみると面白い問題である。誰かに電話をかけるとき、僕らはNTTが違法な傍聴をしていないと信頼している。さしあたりNTTという責任主体が明確だからだ。

しかしインターネットで僕らが何らかの被害を受けた場合、回線を保有している企業、その回線上でサービスを提供している企業、回線上の通信規約を制定した団体、その通信規約をソフトウェアとして実装した個人または企業、いったい誰の責任を問えばいいのか。

インターネットは無数の部品が比較的いい加減に組み合わさって成立しているので、自由度がきわめて高いメディアになり得ている。その反面いちどトラブルに巻き込まれたら一体誰に文句を言えばいいのか非常にあいまいな世界である。

これはインターネットのようなオープン・アーキテクチャ(=開放系のしくみ)の世界で仕事をしている人たちなら一度ならず経験していることに違いない。

例えばある日突然パソコンが停止してしまう。その原因はパソコンの部品なのか、部品どうしの組み合わせなのか、Windowsなどの基本ソフトウェアなのか、ExcelやWordなどの応用ソフトのせいなのか。その切り分けをすることは不可能に近い。

オープン・アーキテクチャの世界は責任主体をあえてあいまいにすることでそのオープン性を確保している。Linuxのようなオープンソースがその典型である。Linuxの開発に参加した人たちは、Linuxの利用によって何らかの損害を受けた個人や企業に対して、賠償責任はおろか「ごめんなさい」とあやまる責任さえ負っていない。Linuxは「自己責任」で使うソフトだからだ。

「自己責任」とは聞こえがいいが、個人が趣味で使うのは良いとしても、これでは企業がLinuxにうかつに手を出すことはできない。そこでIBMなどはついに自社でわざわざLinuxを書き換えて、「責任主体はIBMです」と明確にした上でLinuxビジネスに乗り出している。

いくらLinuxがシステムとしての信頼性に優れていようと、それと「社会的信頼性」はまったく別問題なのだ。本気でLinuxを流通させようとしたとき、IBMはLinuxに社会的信頼を持たせるためにソースを自社で書き換えて責任主体を明確にせざるを得なかったということだ。

違法ホームページとプロバイダーの関係もこの「責任と信頼」の問題に引っかかってくる。ホームページを開設している人間の責任を問うのはもちろんだが、プロバイダーも責任を問われるのか。さらにNapsterの問題も同じことだ。プロバイダーやNapsterは「われわれは単に場を提供しているだけだ」と最後まで反論できるのだろうか。

責任主体の明確でないところに長期的な信頼は成立しえない。インターネットはまだ産まれたばかりで、僕らはそんなことを深く考えもせずにインターネットを「なんとなく」信頼している。だが今後ますますインターネットが生活の隅々にまで浸透してくれば、どこかで多くの人々が「責任と信頼」は同じコインの表と裏だということに気づくだろう。

いったい私たちはどうしてインターネットを信頼してしまっているのだろうか?


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