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野生の思考
( 19980719 )

Japanese/English

最近、個人的にひじょうに学術的興味をそそられていることがある。いったい企業のパラダイム転換は、いつ起こるのか?ということだ。

僕はある大企業の情報システム部門で働いているけれども、2000年問題をきっかけにして、今、情報システムについてのパラダイム転換がいちばん必要な時期だと感じている。しかし、年長のSEの方々は従来のスタイルを変えない。

意図的に変えないのか、変えるつもりがあるのに変われないのか、あるいは自分では変えているつもりだが、その変化があまりに微少なので、僕ら若手から見るとぜんぜん変わっているように見えないのか?

よくわからないが、いずれにせよ、さまざまな情報源から漏れ聞こえる他の状況を話半分としてうけとめたにせよ、年長のSEの方々が従来のスタイルにしばられていることには違いない。

なぜこれほどまでに旧来の発想にしばられるのか、学問的な研究対象としてはひじょうに興味深い。たとえば、情報システムの「部分最適化」という考え方である。

とても残念なことに、年長のSEの方々には、一企業のシステム全体をひとつのものとして考える観点がほとんどない。営業システムなら営業システム、購買なら購買と、職能別にシステムをブツ切りに考えて、個々に最適なシステムを構築することにしか関心がないようだ。

これは、ひとつには、いかにも日本企業的なセクショナリズムにすっかり染まっているので、「いまさら何をやってもダメだ」というあきらめがあるからだろう。

もうひとつの理由は、これまでメインフレームやオフコンなど、相互接続が困難だったシステムばかりを手がけてきたため、そもそも複数のシステムを全体としてみる観点がないためかもしれない。

いまや複数のシステムを相互に接続するミドルウェア技術があるのだから、それを活用しない手はないのだが、どうしても営業なら営業、購買なら購買と、一つひとつ完結したシステムの完成度を高め、それら相互の関係については二の次、という発想から抜け出せていない。

(つまり、まず個々のシステムがあって、その次にインターフェースを考えるという発想だ。正しくは、最初からオープンなシステムをねらうべきなのだが)

技術の面でも、経営の面でも、「部分最適化」という発想にたいする反省から、世間はトータルなシステムづくりへと移行している。たとえば、ERPパッケージ。営業・購買・財務・人事など個別のモジュールは、はじめから統合される想定で作られている。また、サプライチェーンマネージメントも、これまで個別に開発されたシステムを統合するという発想がなければ成立しない。

これだけ外堀を埋められているのに、なぜ年長のSEの方々は個別システムの「部分最適化」というパラダイムから抜け出せないのか?「部分最適化」が不適切であることは誰の目にも明らかで、統合システムを構築する技術も実現されている。環境はすでにととのっているのに、どうして新しいパラダイムへの一歩を踏み出すことができないのか?

このような「情報システムの脱・部分最適化」問題をきっかけに、僕は企業におけるパラダイム転換というのは、いったい、いつ、だれが、どのようなかたちで起こすのか、最近とても興味をもって観察している。

(大きな問題を前にすると、「情報システムの脱・部分最適化」なんていう部分的な問題はもはやどうでもよくなってくる。それが学者肌の宿命だろうか。なんちゃって(←死語))

明らかに正しいことがわかっているのに、そちらへ一歩を踏み出すことができないミドルマネージメント。いったいどうしてなのだろうか?これは世界の七不思議クラスの怪奇現象だ。

いや、僕は茶化しているわけではない。仕事から解放されるせっかくの休日にさえ、こんなことについてパソコンに向かって雑文を書かざるを得ないくらいだから、真剣に悩んでいるのだ。彼らミドルが考え方を変えるのは、いったいいつなんだろうか?

「情報システムの脱・部分最適化」問題なんて、氷山の一角にすぎない。ミドルの頭に染みついてしまって、僕ら若手から見るとあきらかに誤っているパラダイムは他にもいくつかある。

状況をさらに悪くしているのは、彼らミドルが、若手からの反論や批判を手ぎわよくうけ流す技術を身につけてしまっているということだろう。サラリーマン暦数十年の手練手管といったところか。

う〜ん。何なんでしょうね、いったい。

こういう問題を日々考えていると、僕は一人のサラリーマンというより、民俗学者のような気持ちになってくる。つまり、まったく異質の文化をもつ土地へ住みついて、民俗学的なフィールドワークをやっている気分になるのだ。

レヴィ・ストロースは、『野生の思考』などの著作で、一見したところデタラメにしか見えない未開民族の風俗・習慣の中にも、じつは精巧な論理体系があることを証明してみせた。

僕はそれと同じく、フィールドワーカーになったつもりで、パラダイム転換がまったく起こる気配のない組織の中にいて、既存のパラダイムをこれほどまでに根強く支えている「合理的な根拠」とはいったい何か?について頭を悩ませている。

ひょっとしたら、現代の民俗学者にとって、いちばんおもしろいフィールドワークの対象は、サラリーマン社会かもしれませんよ。


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