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情報はだれのものか?
( 19980501 )

Japanese/English

企業の情報システムについて、その情報がだれのものなのか?だれのために存在するのか?ということが真剣に考えられたことがあっただろうか?

メインフレームを中心とする基幹業務情報システムは、よくEDPという3文字言葉で表現されるように、情報「処理」至上主義であった。つまり、とにかく人間に代わって膨大な情報を「処理」するという目的が実現されればそれでよしとされた。

しかし、時代が下るにつれて、単に情報を「処理」するだけではなく、その情報を「蓄積」し、「再利用」するという新たな要請が生じた。ダウンサイジングによって情報の再利用を容易にする技術的な条件がととのい、情報の蓄積方法においても、処理効率を第一に発想された階層型データベースから、検索の容易さに重点をおいた関係データベースへという変化が見られる。

企業にとっての情報システムは、このように情報の「処理」から「利用」へと役割を変えてきている。情報そのものを中立的なものとみなし、決められたロジックにしたがって加工するという「情報処理」から、処理された結果の情報をどのように解釈するかを支援する「情報利用」へという変化である。

「情報処理」が情報を中立的に扱う限りは、人間の主観の入り込む余地はない。むしろ恣意的に処理ルールが変更されては不都合がある。あくまで一定のルールにしたがって情報は加工されなければならない。

これに対して、「情報利用」に重点が移ってきたとき、そこには当然人間の主観が介入する。情報が中立的なものではなくなり、「良い」「悪い」などといった「価値」をもつようになったとき、だれにとって「良い」のか?ということが常に問われ始める。同じ情報でも、ある人にとっては都合の良い情報であるが、別の人にとっては都合の悪い情報だということがあるからだ。

情報の「価値」が判断さる前段階として、情報に対する「解釈」という操作が行われる。たいてい人は自分の立場に有利なように情報を「解釈」する。その結果、同じ情報をベースにしているのに、立場によってまったく「解釈」がことなる場合がある。情報の価値判断には必ずそのような恣意性がともなう。ちょっと考えてみれば当然のことだ。

しかし、自分の職場を見まわしてみるに、このような情報解釈の「恣意性」という問題に無頓着な人が多すぎる。彼らは自分の立場を正当化したり、自分の決定を根拠づけるために情報を「利用」するが、そのときその情報の「客観性」を武器にするのである。じっさいには「利用」したとたんに、その情報は「客観性」を失うのだが...。

情報システムは情報を中立的に「処理」するものだから、処理結果はなるほど「客観的」であり主観の入り込む余地はない。だがその「客観性」は、情報を「利用」する人の立場の「客観性」までを証明するものではない。いくら「客観的」な情報でも、一度「利用」されてしまえば「解釈」のフィルターを通ってその「客観性」を失う。一度「利用」されてしまった情報は、「だれのためでもない客観的な」情報であることをやめて、「だれかのための」情報になってしまうのだ。

分かりやすいように、例をあげて考えてみよう。

ある支店では複数の製品を販売しているが、最近どうも販売成績が思わしくない。そこで支店長が、社内向けのホームページ上で販売実績ワースト5の部署を公表しようと言い出した。

もちろん販売実績は基幹情報システムから「客観的」な数値として抽出することができるので、あとはそれをホームページに変換する部分を開発すればよい。システム開発の仕事としてはひじょうに簡単である。

しかし、そうして公表される販売実績ワースト5は、いったい「だれのための」情報なのかを、この支店長は考えてみたことがあるのだろうか?おそらくないだろう。なぜなら彼は基幹情報システムから抽出した情報の「客観性」によって、自分自身の「客観性」までもが保証されると錯覚しているからだ。

「販売実績ワースト5」という情報の「利用」の仕方は、明らかに「恣意的」であり、「客観性」とは程遠い。支店長自身は、「販売実績ワースト5」という「客観的」数値の公開によって各部署の士気を高めるつもりだったのだろうが、情報の受け手である各部署の人間にとっては、その情報が非常に「恣意的」であるために、懲罰的な意味しか見出すことができない。

つまりこの例では、情報は支店長の私有物になってしまっている。支店長は自分の地位を利用して、本来「客観的」で「だれのものでもない」はずの情報を、「販売実績ワースト5」という主観的な解釈によって「自分だけのもの」にしてしまっているのだ。なのに支店長自身は、自分が情報を私物化してしまっていることについて自覚がない。あくまで「客観的」な情報を公開しただけだと思いこんでいる。

僕が問題にしたいのは、情報の価値というものに無頓着な、この支店長タイプの人々である。「客観的」な情報も「利用」のしかたによっては非常に「恣意的」なものになってしまう、そんな当たり前のことに無頓着な人間に、情報を扱う資格はない。

仮にこの支店長の提案どおり、「販売実績ワースト5」が社内向けのホームページで公開されたとしよう。いったいだれがこのページを見たいと思うだろうか?そう、支店長その人だけである。それ以外の人は見たいとも思わない。なぜなら、その情報は「恣意的」に操作されたものであり、操作した当人(ここでは支店長)にとってしか価値を持たないためである。

こんな情報公開のやり方を続けていたのでは、この企業に情報公開が根づくことは永遠にない。なぜなら、この企業のだれもが、公開された情報は「だれかにとっての恣意的な」情報であり、自分には役に立たないと思い始めるからだ。そうなると、グループウェアや、データウェアハウスや、どんな優れたツールを導入しても、だれも公開された情報を信用しない。情報公開による効果もあがらない。

とくにこの場合、支店長という、ただでさえ権力をもった人間が情報を私物化しているのだから始末が悪い。なおかつ、恣意的に解釈された結果の情報が、どう考えても懲罰的な内容である。これでは、もう誰も社内ホームページにアクセスしたいと思わないだろう。しかも支店長はそうした負の効果を予測する能力に欠けている。

こうした悲劇が起こるそもそもの原因は、支店長が、情報それ自体の「客観性」と、情報の「恣意的」な利用を、はっきりとわけて考えられなかったからである。情報が、解釈の仕方と、だれが解釈したかによって、いかに恣意的で役に立たないものに変質してしまうか、そのことにあまりに無自覚だったからである。

僕は、情報システムによる効率化などと安易に唱える人を見ると、こうしたことを考えざるを得ない。いったいその人は、情報のもつ「客観性」と「恣意性」の危うさを理解しているだろうか?悲しいかな、情報システム好きの経営者にかぎって、情報の「客観性」を無条件に前提し、そこに自分自身がすべりこませた「恣意的な解釈」に無頓着すぎるのだ。

そういう経営者を頂く社員たちは不幸である。上にのべたとおり、だれも情報を信用しなくなるという致命的な弊害が社内に蔓延するからだ。「どうせ支店長が自己満足のために公開した情報だろう」。そうして、社員が一人、また一人と、情報システムから離れていってしまう。

そうならないためにも、もういちど考えようではないか。いったいその情報は「だれのための」情報なのか?と。


ちなみに、「じゃあどうすればいいの?」と、自分で考える能力のない人のために付け加えれば、「ワースト5」なんていうことはやめて、単に全部署の販売実績を機械的にならべた表を公開すれば十分である。よほどのバカでない限り、その一覧表からワースト5とベスト5を割り出すことはできる。

もっと良いのは、「ベスト5」だけを公開することである。これは、情報の受け手にとって、懲罰的ではなく褒賞的な意味を持つ。すると受け手(=各部署の責任者)は、このページを見ようとするだけでなく、そこに自分の名前が載るように努力するだろう。

情報ツールの上手な使い方というのは、こういうことを言うのだ。「ワースト5」を公開して尻をたたくぐらい誰にでもできる。誰にでもできることをしたり顔でやるのは、自分の無能をさらけ出しているようなものだ。

マネージャの役割は、なぜ販売実績が思わしくないのかを分析し、適切な指示を出すことではないのか?


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