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データファシズムからの解放
( 20010527 )

Japanese/English

情報システム開発手法のひとつにデータ中心アプローチ(Data Oriented Approach)と呼ばれるものがある。コンパクトにまとまった解説として日本NCRの「データ中心アプローチ(DOA)」というページをご覧頂きたい。

ここでDOAは従来の「処理中心」の考え方からの転換を促す一つの新しい手法として紹介されている。もちろんさらに新しい手法としてオブジェクト指向があるわけだが、ここでは「処理中心」から「データ中心」へという考え方の転換にのみ注目する。

「処理中心」というパラダイムは、業務システムの構築において会計、購買など個別の業務処理単位に情報システムを構築するという考え方である。業務の区分にそって情報システムを分割するため、全体の統合という視点が欠けている。

ただ、統合の視点が欠けていたために処理中心になったという推論は昔の物理的な事情を考えるとフェアではない。かつてはコンピュータの性能上の制約のために業務別にシステムを構築せざるを得なかったというのがより正確だろう。

業務別にシステムを構築すれば、当然同じようなデータが個別のシステムに散在することになる。コンピュータの性能向上にしたがって、これらのデータをひとつにまとめられないかという統合の視点が生まれるのはむしろ当然の成り行きである。そこで生まれたのがDOAというわけだ。

DOAはいくつかの考え方を前提として成立する手法である。ひとつはデータと処理は分離すべきであるという考え方。この考え方は一見当然のようだが、すでにオブジェクト指向の洗礼を受けているシステムエンジニアにとっては再考の余地が十分にある。

データはもともと「与える」という意味のラテン語の受動態が中性名詞化した単語の複数形で「与えられたものたち」のことである。ではこの受動的な「与えられたもの」を与える能動的な主体は何かといえば、処理だというわけだ。

データは処理されるものであり、処理するという主体的な行為と対になるものとして考えられている。データは処理されない限り同一なものとしてとどまる。データは外部から加工されない限り変化しない。このような考え方がDOAの前提にある。

そしてデータが変化しないというとき、その「変化」には2つの層がわけて考えられていることに注意しよう。内容における変化と、形式における変化である。処理によって変化するのはデータの内容であって形式ではない。形式は処理によっても変化を被ってはならない。

処理によってもデータの形式は変化しないが故に、データは処理とは無関係に「正規化」等の手順に従って形式化することができる。データにおける内容と形式の厳密な区分が、DOAの前提となっているデータ/処理の二元論のさらに背後に隠されている二元論なのである。

現実の世界で行われている業務を情報システムとして構築することを想定しているわけだから、もちろんデータにおける内容と形式の二元論そのものを破棄することはできない。そもそも現実をシステムに翻訳するという行為そのものが、現実の極端な形式化に他ならないからだ。

現実の人間が行なう業務から、たとえば筆跡・声の抑揚・キーを打つ指の強さなど、システム化において不必要な一切の余剰はそぎ落とされ、業務はデータと処理という純粋な一対の要素に切り詰められる。情報システムの構築という行為が本質的に形式化の行為である以上、データにとって内容と形式の二元論は内在的なものと見なさなければならない。

しかし、データと処理の区別は必ずしも自明ではない。なぜなら、ある場面ではデータ(=所与のもの)と見なされるものが、別の場面ではそもそも存在しない可能性があるからだ。たとえば同じ会計という業務をとってみても、ある会社では存在するデータが、他の会社では存在しないということがある。

ここで問題になっているのは、データの存在論である。なぜデータは存在するのかという存在的な問いについて答えを与えるのが業務(処理)である以上、業務が変動する可能性があれば、データもそれによって存在したり、存在しなかったりする。

処理とデータの間には認識論におけるノエシス=ノエマに類似の関係がある。「太陽は人間が誕生する以前から存在する」という言明はかならずしも真実ではない。人間の認識こそが太陽という存在を成立させているという考え方もあるからだ。そもそも人間が存在しなければ、いったい誰が太陽を「太陽」と名付けるのだろうか。

それと同様に「データは処理が存在する以前からすでに存在している」という言明はかならずしも真実ではない。それどころか、処理=データの関係においてこの言明は明らかに間違っている。処理がなければデータは存在しない。業務がなければ、それを形式化した結果であるデータ(と処理)も存在しない。

ここにDOAにおけるデータ分析の根本的な誤謬がある。DOAにおけるデータ分析は、通常、上述の日本NCRのページでいう「ボトムアップ・アプローチ」の手順で行われる。つまり会計システムであれば、実際の会計業務で使われている(または使われるべき)帳票や画面から、必要なデータ項目を洗い出し、複数の帳票・画面に現れる無数のデータ項目の意味や重複を整理して、一つの事実に唯一の表現を与えるようにする(正規化のプロセス)。

しかし帳票や画面に現れるデータ項目は、業務で行われる事務処理の結果として「与えられるもの」に過ぎない。能動的な処理行為によって構成された対象であるデータを分析するという手法は、業務を形式化する手法としては明らかに二義的である。むしろ業務を形式化する際にはデータの原因となっている「処理」の方に注目すべきである。つまり、業務の形式化のプロセスにおいてより本質的なのは、データの形式化ではなく処理の形式化であるはずだ。

残念ながらシステムエンジニアは処理の形式化よりもデータの形式化を優先してしまう。それはデータが「止まっている」からだ。そもそもコンピュータは形式における同一性、内容は変化しても、形式は変化しない対象を前提にしているため、技術者は「止まっているもの」「不変なもの」に愛着を感じやすい。

技術者は変動する対象を変動するままにとらえることができないのだ。そのため、運動するものの残した痕跡から逆に運動をあとづけようとするが、結果として運動するものをある空間にピタリと静止したものとして固定化してしまう。

DOA手法はまさにこの誤謬を犯している。そもそも業務をデータの分析によって形式化する方法は、変動しつつある処理を形式化することに代わる便法として(妥協案として)考え出されたはずであるのに、ある時期以降、技術者たちはあたかもそれが正しい方法であるかのように勘違いしてしまったのだ。

業務を形式化した結果であるデータが、止まっており、安定しているのは当たり前である。形式化の行為そのものが動いているもの、不安定な物を便宜上あえて静止した枠に押し込める行為だからだ。そこから「データは処理よりも安定している」という結論を導き出すのは、自分で黒く塗ったものを、もとから黒だったと主張する循環論法にすぎない。(例えば、たまたま検索エンジンで見つけたのだが、データ総研という企業のホームページで展開されているPLAN-DBというDOAの理論はこうした循環論法に陥っている)

まして業務そのものをフロー化して形式化するDFD(データフロー・ダイアグラム)のような手法は、形式において不変なデータを形式化する正規化の手続き以上に、単なる便法であり妥協案にすぎない。DFDはいわば処理そのものを静止したもの、与えられたもの(データ)としてとらえようとする手法であるからだ。DFDにおいてDOAはデータ中心主義、否、「データ・ファシズム」の権利上の頂点に達していると言ってもよい。

なぜシステムエンジニアは業務をデータの形式化から分析するDOAが正しい方法であると誤解してしまうのだろうか。なぜDOAはそれほどまでに技術者をひきつけるのか。その理由は視覚の審美学にある。正規化されたデータの秩序は端的に言って「美しい」からだ。

正規化というデータ整理の手続きが前提とするのは、一つの出来事は必ず唯一のデータ要素に還元できるという考え方である。反復される出来事のすべてを抽象化した一つの理念が存在し、出来事の一つひとつが持っている個別性は、唯一の構造へ昇華され、解消される。その理念(イデア)の美しさが技術者たちの目をくらませるのだ。

つまりデータ分析によってシステムエンジニアは、あたかも自分が企業で行われているあらゆる業務の「本質」や「真実」をつかんだと思いこんで有頂天になるのである。真実を知っているのは自分たちだけだ。これほどまでに洗練された理念をつかむことができるのは、DOAを体得している自分たちだけだ、という具合にである。

これが時代錯誤の貴族主義でなくて何だろうか。彼らが分析しているデータは、一日たりとも同一ではありえない生身の人間が行っている業務という生き物の痕跡にすぎないのに、彼らはそれを形式化することで得られた「痕跡の痕跡」をもっとも高貴な宝石であるかのように思いこんでいるのだ。彼らが愛でているのは、死体の美しさなのである。

ではDOAを乗り越えるためには、システムエンジニアの誤った貴族主義を超克するためには、いったいどうすればいいのだろうか。それにはいくつかの方法がある。

まずは変動する業務を変動するままにとらえることである。つまり業務を可塑性のあるものとしてとらえることだ。これはBPR(ビジネス・プロセス・リエンジニアリング)の考え方に近い。「業務プロセスは変えられる」という観点に立てば、「まずデータから分析する」という観点がいかにバカげているかが明白になる。

データを産み出しているのは、形式化以前の「生の」業務なのだから、その業務そのものを変更しうるものとみなせば、DOAの呪縛から容易に解放される。もしある企業が経営環境に合わせて積極的に業務を変更する意思をもっていれば、情報システムを構築しようとするとき、「まず帳票と画面から」と話を切り出すことがとんちんかんな提案であることはすぐに分かるだろう。

逆に言えば「DOAファシズム」の支配する組織においては、意識してか、無意識のうちにか、業務は不変のものであると考えられがちである。

業務プロセスの硬直化とDOAは相互に補完することで一種の悪循環を産み出す。業務をシステム化するにあたって「まず帳票と画面から」というDOAを手法として採用すると、出来上がったシステムは現行の業務をそのまま固定化したものになる。それによって業務の可塑性がますます損なわれ、「業務は変動しないものである」というDOAファシズムの思想にますます堅固な根拠を与えることになる。このような悪循環に陥った組織がDOAファシズムから逃れるのは非常に難しい。

必要なのは「まず帳票と画面から」と問う前に、業務そのものが変更できないかと考えることだ。そして業務の変更をおこなおうとするとき、業務自体を形式化するという間違いを犯さないことだ。

データから形式化することに引き続いて、システムエンジニアを誘惑する第二の誤謬は、業務自体の形式化である。言い換えれば「ワークフローの誘惑」だ。業務の流れがあたかも工場のオートメーションのように機械化されることへの誘惑である。

業務に複数の人間がかかわっていると聴くやいなや、「じゃあワークフロー化しましょう」と言いたがる技術者がいる。これほどまでに技術者は生き生きと躍動する業務を殺して、その死体を愛することに誘惑されるのだ。

ワークフローの誤謬に陥らずに業務を変更するためには、結局のところ業務をありのままにイメージするより他ない。そのためにまず必要なのは、帳票や画面を追いかけることではなく、DFDを記述することでもない。担当者に直接ヒアリングして、生き生きした業務のありのままを想像することだ。そして想像された業務の強度・生き生きとした様子を損なわないままに、その業務が簡略化され、省力化され、合理化された様子をやはり想像することである。

そのとき、完成する情報システムとはどんなものだろうか。強度がそがれないままに簡素化された業務、そういった業務を想像したとき、情報システムはその一つひとつの場面に似つかわしいものとして登場するだろう。業務の強度を落としたり、硬直化させたりするのに一役買うようなシステムであってはならないのだ。システムのために業務が存在するのではなく、システムは業務の舞台装置の一つにすぎないのだから。

技術者と企業が本当の意味でDOAファシズムから解放される日は、まだ遠いのかもしれない。

(補足)情報システムは、それが物質を扱うのか、業務を扱うのかによって本来は厳密に開発手法を区別しなければならなかったのかもしれない。たとえば石油化学系のプラントを制御するシステムの場合、システムが扱うのは一連の物質の化学変化である。化学という学問が物質の変化を形式化するプロセスは化学という学問分野に内在するものであり、石油化学工業がその内在化されたプロセスに依拠する以上、そのプロセスそのものは変更できない。したがってそれを扱う情報システムは物質変化のプロセス自体を所与のものとして固定化して考えることができる。プラント制御生まれの情報システムが、プロセスを不変とみなし、したがってそこから産み出される処理とデータを不変だと見なすのは妥当なことである。

しかしそれをそのまま会計や購買など、人間が行う事務処理に当てはめるのは全くの検討違いである。事務処理を形式化したルールは事務処理に内在するものではない。むしろ時代・法制度・技術的環境などの変化とともに変化せざるを得ないものである。そうした事務処理に対して、物質を扱うことを出自とする情報システムの構築手法を当てはめるのはそもそも無理がある。このように、情報システムは現実の形式化であるため、物質を扱う場合も業務を扱う場合も結果としてはまったく同じ形式(プログラムのコードやデータ定義など)になるが、だからと言って、扱う対象に無差別に同じ構築手法が妥当するわけではない。ここにも技術者が陥りやすい原因と結果の倒錯がある。DOAにおいて処理の結果に過ぎないデータをそこから開始すべき原因のように勘違いしてしまうのと同様に、形式化の結果に過ぎない情報システムをそこから始めるべき起点のように思いなしてしまうのである。


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