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大阪の街 2

そんな通天閣人気が高まっていた最中の昭和36年8月1日、
西成区のドヤ街で第一次釜ヶ崎騒動が勃発。2000人余りの
自由労働者たちが警察官の交通事故整理(日雇労働者が東田町
(霞町)交差点付近で交通事故に遭い、生死不明のままムシロ
を掛けられただけで、放置されていたことに起因している)を
をきっかけに派出所や西成署に押しかけ、警官の態度、手配
師による賃金のピンハネなど、日頃のウッ噴もあって暴徒と化
した。翌日にはヤクザが自警団を組織し、自由労働者の親分や
手配師の手を借りて群集は1万人にも膨れ上がった。対する警
官の数は6千人しかおらず、この無法地帯に全くお手上げの状
態であった。この市街戦さながらの暴動も3日後には沈静化、
5日後に街は落ち着きを取り戻したが、翌37年、39年と暴
動が発生し、平成7年までに23回もの暴動が発生している。
41年5月末には火事に対する消防車の出動が遅いとして3日
間にわたり騒動があり、記憶に新しいところでは平成2年10
月2日、西成署の警官が取り締まり情報をワイロと引き換えに
暴力団幹部に流していたとの事件が発生したことから日頃ヤク
ザに苦しめられていた労働者の怒りが爆発、関係のない暴走族
連中までが一部の者に煽動されて集まり、阪堺電気軌道の霞町
駅舎が放火全焼するなど6日間にわたって騒ぎは続いた・・・

最近では今宮中学校横の通学路を占領していた路上生活者の
テントを、大阪市が行政代執行の下、強制撤去した際のイザ
コザが記憶に新しい・・・                             


第一次釜ヶ崎騒動の1シーン

同じく第一次釜ヶ崎騒動の1シーン

第一次釜ヶ崎騒動で、西成署の前で焼かれる車

その影響をモロに被った通天閣は入場者数が
いきなり激減。辺りはこんなに閑散とした有様に。

通天閣のお話は終わりとしまして・・・
さらに大阪を代表するものといえば大阪城。
これは慶応4年(1868)に炎上する前の本丸
の外観を伝える幕末の頃の湿板写真であります。

豊臣秀吉の大阪城天守閣は夏の陣で焼失して、
徳川時代の再建天守閣も落雷で焼け落ち、以後
260年余り、大阪城には天守閣がなかった。
昭和3年の御大典記念事業として天守閣の復興
案が市会で議決され、全額市民の寄付金により
大阪城天守閣は見事に復興するに至りました。
着工は昭和5年5月で、この写真は4階までの
骨組が完成したところ。最新の鉄筋コンクリー
ト造りを採用しています・・・・・・・・・・

ほぼ鉄骨が組みあがって全容を見せ始めた頃

完成間近の頃。
昭和6年11月7日竣工。



   


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