
このページの最終更新日は 03/08/17 です。
陰陽寮の部屋へようこそ
もうすっかり有名人になっている安倍晴明について、きっと皆様の方が詳しいに違いない!
でもでもほんのちょっぴり真面目に(?)調べてみたのでご参考まで。
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陰陽寮基礎講座 人物確認の巻 安倍晴明 あべのせいめい(921−1005)延喜21年〜寛弘2年 『泣不動縁起』の図版はこちら 平安中期の陰陽家。系図類によれば、8世紀はじめの右大臣阿倍御主人(あべのみうし)の系譜を引き、益材(ますき)の子とされる。960年(天徳4年)に天文特業生として歴史に姿をあらわし、以後、天文博士・主計権助などを歴任して、大膳大夫・左京権大夫となる。極位は従四位下。賀茂忠行・賀茂保憲父子を師として天文道・陰陽道を学び、名声きわめて高く、天文密奏(天文の変化をいちはやく察してその吉凶を占いこれを天皇に奏すること)をはじめ、天皇・貴族の陰陽道諸祭や占いに従事した。その占験の能力についての神秘的な伝説は、古くから数多く伝えられている。『今昔物語集』には、識神(式神)しきがみ(陰陽師が術を用いて駆使する神)を自在に駆使して老僧との術比べに勝った話や、草の葉を投げて蛙を殺した話が載せられており、後世、日本第一の陰陽家としてあがめられた。1005年9月26日没。系図類は年85とする。著書に『占事略決』1巻があり、尊経閣文庫、京都大学に鎌倉時代書写の古写本が蔵せられている。別に、晴明撰と伝える『簠簋内伝』(ほきないでん)5巻(『続群書類従』所収)があるが、晴明の撰であるかどうかに疑わしいところがある。
伝承と作品化 安倍晴明は、神秘的な超能力の持ち主としてその死後における各種の伝承や文芸作品に登場、活躍した。『続古事談』(1219)には、彼が大舎人であったころ、慈光という人相見が「一道の達者」となるべき人物だと占った話がみえ、若くして卜占の技に長じていたことを暗示する。その技の優秀さを物語る挿話にはこと欠かないが、ことに著名なのは花山天皇の譲位を天体の異常な現象から見事に予告したという『大鏡』の記述である。ほかでは、『古事談』(1212−15)、『宇治拾遺物語』『今昔物語集』『源平盛衰記』『発心集』『峯相記』などに彼の事跡が伝えられている。その中では、かの藤原道長が法成寺建立の工事現場におもむいたとき、愛犬の白犬が道長の歩行を阻んだので、晴明に占わせたところ、道長を呪詛する者ありと断じ、犯人の「道摩法師」の居所を当てたという話が興味深く、道長の政敵の一たる左大臣藤原顕光の依頼で道長を呪詛した「道摩」とは、同じ話を伝える『峯相記』では「道満」であり、陰陽師として晴明と張り合っていた法体の人物であった。この二人の、卜占をめぐる熾烈なる抗争は古浄瑠璃『信田妻』や義太夫『蘆屋道満大内鏡』などの名作として、既往の諸伝や芸能をふまえつつ江戸時代前期に結実したが、そこでは晴明は摂津国の阿倍野の武士である安倍保名が和泉国の信田(信太)森の狐(白狐)の化身である女と契って生まれた子だとしている。晴明にかかわる伝説の地は、陰陽師の拡散と定着につれて各地にひろがったが、ことに賤民層を多数含んだ下級陰陽師集団が生業たる卜占の技の権威づけのために晴明伝説を最大限に活用した面がつよかった。晴明神社をひかえた京都の一条戻橋のあたりは、その中心地域で、晴明伝説の豊かな母胎である。一説では彼の墓は京都東福寺門前の遣迎院の竹藪の中にあるという。 平凡社刊『日本架空伝承人名事典』「安倍晴明」欄より 源博雅 みなもとのひろまさ(918−980)延喜18年〜天元3年 平安中期の雅楽家。醍醐天皇皇子克明親王の長男、母は藤原時平女。934年(承平4年)従四位下で出身の後、従三位、皇太后宮権大夫に至る。博雅三位(はくがのさんみ)といわれ、音楽の才きわめてすぐれていた。演奏では琵琶、笛、琴、大篳篥をはじめ古今の名手と尊ばれ、作曲では退出の楽に用いられる『長慶子』(ちょうげいし)が有名である。楽書や説話集に、朱雀門の鬼から名笛「葉二」を得たり、逢坂山の蝉丸に3年間通って秘曲『流泉』『啄木』をならったなど多くの逸話を伝えている。子の信貞、信明、信義、至光もみな音楽に秀で、その道を伝えた。 平凡社刊『日本架空伝承人名事典』「源博雅」欄より 晴明さんと博雅さんが親友だった…というのは夢枕獏先生の小説「陰陽師」の設定であって、当の本人たちが知り合いであったかさえ定かではありません。確かに同じ時代に宮廷に仕えていて、博雅さんはうまいこと中務省(陰陽寮を管轄)のお役人だったり、二人とも鬼には無縁ではなかったりもしますので、お互い名前は知っていたかも?と思いますが…。身分が違いすぎるのでちょっとムリかも。とも思うのです。三位と四位たいして変わらないような気もしますが、いわゆる「公卿」といわれるのは三位から。三位とそれ以下との間には海のように深い溝、あるいは山のように高い壁がそびえていたと考えられるのでした。 |
突っ込みワンポイント語句解説編
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このご先祖は奈良朝初期の人。右大臣まで出世した。『竹取物語』でかぐや姫にプロポーズする5人の貴公子のひとりではないか?とも勘ぐられている彼。唐にあるという「火鼠の皮衣」を取ってこいと言われてしまう男。写本によっては「右大臣阿部みむらじ」とか「みむらじ」を「御主人」と書いているものもあるらしい。 |
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中務省所属の陰陽寮(おんみょうりょう)にある4部門のうちのひとつ、天文部門のトップ。しかし位は7位クラスで下級官僚の感は拭えない。陰陽寮4部門総合のトップは陰陽頭。陰陽道にたずさわるものの最高位!この陰陽頭でようやく従5位下の殿上人。ただし安倍晴明の極位はこれを遙かに上回る従4位下。彼は生涯、陰陽頭にはなっていない。彼の官職名は途中からコースアウトするのだ。 |
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人の名前ではない。律令制で民部省に属し、調・庸・貢献の雑物などを計算して年間の税収、支出など会計をつかさどったお役所、主計寮(かずえりょう)の下級役人。トップが主計頭(かずえのかみ)その次が主計助(すけ)で、その下が権助さん。「かずえ」とは「かぞえる(数える)」からきた音だそーです。 |
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宮内省に属した大膳職(だいぜんしき)の長官。大膳頭(だいぜんのかみ)。この役所は天皇の膳部に関することや臣下に賜る儀式の食物などをつかさどるところ。 |
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京都の左京(東側)の戸籍・租税・訴訟などをつかさどったお役所左京職(さきょうしき)の長官。晴明さんの時代では実権の乏しい閑職だったらしい。左京権大夫は正5位で陰陽寮のトップ(陰陽頭)よりも位階が高いものだから名目上の肩書きだったんじゃないでしょうか? |
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ご存じの方はご存じだと思いますが、道長が法成寺を建立していた頃には晴明さんはとーっくに亡くなってしまっています。まぁ百年や二百年のスリップよくあることです晴明さんは。ちゃんちゃん。 |
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871−909(貞観13年〜延喜9年)醍醐天皇の時代に左大臣。当時の右大臣が菅原道真。…といえば策謀で道真を左遷させたんじゃないかと言われている彼。実際には有能な政治家だった時平は、あの道真の怨霊に悩まされた張本人。博雅さんの母方のおじいちゃまです。藤原氏のトップ(氏長者うじのちょうじゃ)でしたが、政権の主流は彼の弟、藤原忠平の流れが受け継ぎました。忠平の曾孫が藤原道長になります。 |
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「934年(承平4年)従4位下」ということは晴明さんが生涯かけて勝ち取った位階を、博雅さんはわずか16才でGETしたことになります。後世、望月の歌を詠んだあの道長の息子なんてことになれば(藤原頼道)、12才で元服して正5位下、15才で正3位(すでに博雅さんは抜かされている…)という天下無敵の血統スピード出世を成し遂げますが…。父上が皇子とはいえ博雅さんのこの時代この年齢での従4位下は比較的高位かも? |
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中務省に属して、太皇太后・皇太后・皇后の三宮の事務、年中の神事、雑務などを執り行った中宮職(ちゅうぐうしき)の役職名。博雅さんは皇太后の事務次官をやっていたようです。 |