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昨日はすっきりと晴れていたのですが、今日は朝から雨が降り霧が立ち込めています。北の風が少し強くて冷たいのです。これで遅れ気味だったこの山の紅葉も少し加速されるでしょう。我が家の庭では殆どの落葉樹が先日の台風で葉を吹き飛ばされて、僅かにヒメヤマボウシと栗の木に傷んだ黄葉が残っているだけです。そして寂しくなっていた庭には山茶花が咲き始め、赤や白やピンクの華やいだ色が目を楽しませてくれています。いよいよ晩秋の趣が深くなって来ました。自分の現在の年齢や心境に相応しい季節の到来です。 さて、今回の表題は、今朝ふと頭をよぎった「運命」と言う言葉からの連想で、あまりにも大きな大事な命題のため、何をどう考えどう書けば良いのか、書き始めたものの実は正直言って迷っているところです。ちょうど窓の外の霧に閉ざされた風景のようにぼんやりとして先が見えません。しかし、考えるまでもなくこのテーマはもの心ついた時から繰り返し繰り返しして来たことなのです。そして多分死ぬ間際まで答えは得られないに違いありません。でも考えない訳にはいかない、脳裏を離れない永遠の命題であることは確かです。こんな歳になっても相変わらず青臭いことだと言わざるを得ません。 先日小型スズメバチが足元で死んでいったことを書きました。黒い目が死んでも何かを見続けているように感じられたことを書きましたが、それは自然や生命への一種の恐れとも言うべき感情のなせる業だったのかも知れません。「運命」とか「宿命」と言う時、本来「必然」であるのに自分が知る由もないことを「偶然」と簡単に定義して片づけていたように思えてなりません。 そうです。全ては必然に違いないのです。全ては成るように成っているに違いありません。宇宙の生成、地球の誕生、生命の発生、人類の進化と歴史、どれをとっても無数の必然の織り成したものに違い無いと思います。こう考えてくると全宇宙に何かの意思と意図が働いているに違いないと感じます。これが宗教の根本なのでしょうか。私には「太陽信仰」のような感情はありますが、特定の宗教心はありません。特に最近の世界のテロや内戦の主たる原因が宗教であることを考えると、宗教とはいったい何なのだろうと絶望的になります。人間は本来争いが好きなのでしょうか。殺し合いが楽しいのでしょうか。こんな状態で救いはあるのでしょうか。地球はどうなるのか、人類に未来はあるのか、私にはどうしても楽観視することが出来ません。しかし、このまま悲観的な状況の中で成す術もなく死んで行くのも悔しく悲しいことです。私は如何に生きるべきなのですか?如何に死ねば良いのですか? 雨が止んで霧が晴れてきました。庭の木々や山茶花の花がうっすらと見え始めています。向かいの林の檜の梢が墨絵のように美しいのは心楽しいものです。やがて麓の集落や伊勢湾の海も姿を現すことでしょう。そして私も否応なくごく平凡な日常の中へ帰って行くしかありません。 全地球的な異常気象や世界的な人類の争いなど、混沌とした未来の濃密な霧は晴れてくれるのでしょうか。恰好をつけて言えば・・「それは誰も知らない。」 では、また。 |
今日はとても穏やかな日曜日です。暖かくて風もありません。狩猟が解禁されてほぼ一月が経ちましたが、今年は懸念していたハンター達の姿が未だ見えません。例年なら如何にも待ちかねていたと言わんばかりに傍若無人の振る舞いが目に余るのですが、今のところは誠に静かで些か拍子抜けの感じです。この山は最近不動産業者の再開発が進んでいて、樹木の伐採や草藪の刈り取り作業が賑やかなのです。そのためか最近は動物たちの数がめっきり減ってきました。特に少なくなったのが野兎で、ここ一年の間は殆どお目にかかったことがありません。以前は散歩中にもよく見かけたし、車で走っている時に現れて車の前を懸命に競争するように駆けて見せてくれたものです。それと小さなホンドリスも見かけなくなっています。やはり小動物は環境の影響を強く受けるのでしょうか。 さて、その所為かどうかは判りませんが、私たちの愛した狸たちがぱったりと来なくなってしまいました。家内の記録している出席簿によると、11月9日に親子全員8匹が揃って現れた後、来たり来なかったりばらばらの不規則な状態が続き、数日間全く一匹も現れない日もあったりして、一体何が起こったのか心配させられていました。ここ2週間ほどは親世代の1匹と子の1匹が時々顔をみせるだけです。ただ、「おやつ」を撒いておくといつの間にか無くなっているので、何か異変があったとしても全員の生命の存続に係わるような重大な異変では無さそうだと思っています。少し時期的にはずれているのですが子別れが始まっているのかも知れません。今年は気候そのものが異常でしたから、狸の生態系にも何か変わったことが起こりつつあるのかも知れないと思ったりもするのです。 ところで、つい10日ほど前のことですが、家内と散歩中に家から随分遠く離れた場所で、病んでいる見知らぬ狸に出会い、その臨終に立ち会うことになりました。道の真ん中に座り込んでぶるぶると足を震わせているので、初めは狸用の罠にでも掛かって足に怪我をしているのかと思ったのです。私達に気づいて逃げようとするのですが、かなり衰弱していて這うように歩いてはうずくまり、暫く休むとまた動くと言うふうで、その切迫した状態からどうしてやったら良いものか、気は焦ってもただ見守るしかなかったのです。比較的小柄な体格から今年の春生まれた子狸だと思われました。 やがてその子は力尽きて湿った谷の落ち葉の中で、何度も痙攣し空に足掻き悲痛な叫び声をあげて息絶えました。全く成す術の無かった私達は、悲しみよりもむしろ苦痛から解放されたであろうことにほっとしました。一旦帰宅したものの気になって再び見に行きました。その子は息絶えた時の姿勢のまま静かに目を閉じていました。私は付近の石を集めて小さな円形の塚を造り、乾いた落ち葉で覆ってやりました。 子狸は何の病気だったのでしょうか。決して健康とは言えない私には他人事とは思えません。典型的な成人病を抱えて運動療法と食事療法に明け暮れる私ですが、ごく最近厄介なことに右目の視神経に異常が発生して、右側の視野と左側の視野が別々に重なって見えるように成ってしまいました。目の前の一本の道が二本の斜めに交差した道に見える有様です。ゆっくり歩く分には問題ないのですが、走ることが出来ません。神様が「ゆっくり歩け」「しっかり生きよ」と教えて下さっているようです。 では、また。 |
〔12月21日〕 今日は冬至です。西高東低の冬型の気圧配置、風が強くて如何にも暦どおりと言う感じです。庭の山茶花が花びらを散らして揺れています。この山茶花にはよくヒヨドリが遊びに来て花の蜜を吸うのですが、それもそろそろ終わりになるのでしょうか。鳥の餌場の準備をしなくてはなりません。この山の鳥たちは人見知りが強いのか、何時まで経ってもあまり馴れてはくれません。木や草の実など餌になるものが多い所為かと思われます。負け惜しみかも知れませんが、野性の鳥はあまり人に馴れない方が良いと思っています。とは言うものの口笛や餌につられて飛んで来て、帽子に留まったり掌に乗ったりというメルヘンチックな情景には強い憧れがあります。憧れはそう簡単には実現しない方がいいのかなと、柚子湯に浸かって再び考えました。やはり負け惜しみですね。 〔12月23日〕 今日は祝日、天皇誕生日です。私は天皇陛下と同い年です。学年は私の方が一年上です。その所為か、どうも天皇や皇室に敬意が持てません。第二次世界大戦の戦前、戦時中の記憶が未だに忘れられないのです。神格化され絶対視されていた存在が、少年時代の私の精神に暗い陰を落としている為でしょうか。何か昔から政治や権力に利用されて、お気の毒な感じがしてなりません。天皇制と言う制度は無くなった方が良いのではと思いますが、どうでしょうか。昔はこんな事を言うと「非国民」と謗られたのです。 〔12月25日〕 日本はいつからキリスト教国になったのでしょうか。クリスマスイブの大はしゃぎ、プレゼントだのケーキだのツリーだのと大変ですね。「商売や風俗を都合よく利用し楽しむだけのことさ、何もそんなに大真面目に文句を言わなくても」と周りから煙たがられています。でも本来キリスト教と言う偉大な宗教があって、その神を讃え信仰を高めるための行事でしょうに。良く言えば日本人の柔軟性、何でも日本流に取り込んでしまう器用さ、理論的に徹底的に突き詰めず適当な所で妥協する融通無碍な国民性なのでしょうか。私には馴染めない感覚です。こんな事を言っていると「まあ、まあ」とたしなめられ、大人げ無いと子供扱いされるのがおちですね。何でも皆と同じなのが大人ですか?「でもアンタ、女と子どもは宗教よりプレゼントやケーキが大好きなんですから。残念!」 〔12月28日〕 昨日赤十字病院でMRI検査を受診して来ました。先日の右目視神経の不具合の治療に関連しての検査です。懸念される脳梗塞の兆候の有無を調べると聞かされていささか緊張しました。結果は心配ないとのことで一応ほっとしたのですが、そうなると今度はまた別の原因を探さなければならず、これはこれで厄介なことです。ただ、右目の不具合は少しずつ解消しているので有り難いと思っています。歳をとってボケた上に目まで見えなくなってはたまりません。そんな不自由なことになったら、せっかく移り住んだこの山での生活が御破算になってしまいます。良い空気と素晴らしい風景と可愛い野性動物と野生植物に囲まれて一日でも長生きして山の暮らしを楽しみたいものです。ただ今日はとても寒く風も強く、楽しむどころかひたすら縮こまっています。 では、また来年。 |