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3月に入り「雛祭り」「啓蟄」と春の気分を感じさせる節気が続き、関東や東北地方では早くも「春一番」が吹いたとか、いよいよ待望の春かと思っていたら、この所この山は雨や小雪の上に烈しい寒風が吹き荒れています。寒暖の差も激しくて体調も万全とは言えません。寒さに負けないよう気持ちを引き締めなければと力んでいます。 ところで最近の天気予報の精度は実に良くなりました。先日「午後から雨」と言う予報だったのに明るい陽射しに油断して、つい落ち葉の焚き火を始めたら途端にぱらぱらと降り始め、あっと言う間に消されてしまいました。以前の天気予報は「晴れ時々曇り、所により雨」などと言うのが多かったと思うのですが、最近は地域別に時間までほぼ正確なのには感心させられます。 さて、少し前のことですが天気予報について狸たちが教えてくれたことがあります。それは「おやつ」を貰いに出てくる時間のことなのですが、普段はだいたい夕方と決まっていたのに、その日は午後1時過ぎにやって来たのです。何気なく外を眺めたら、そろって私の方を見上げて待っていたのでした。何でこんな早い時間にと不思議に思いながらいつものようにおやつのパンの耳や南京豆を与えたのですが、その夜そのことを話題にしている時、我ながら冴えた推理が閃いたのでした。それは、その日の夕方から猛烈な土砂降りの雨が降ったという事実から、雨や風が嫌いな神経質な彼等は天候の悪化を予見していたに違いないと判ったことです。だからいつもより早く出て来て私たちが気づくのを待っていたのだと思います。 思い返せば3年前から3世代のお付き合いなのです。「それくらいのことは判っていて欲しいな、今頃気づいたの?」と軽く言われそうな気がします。と、すれば、今までにも似たようなことは何度もあったかも知れません。「そうだったかも知れない、参った参った」という心境です。 そう言えばもう一つ、気になる狸の仕種があります。それは、狸たちが何気なく空を見上げて、一瞬固まるような姿勢を取ることです。それは的確に表現しようとすれば、空中に何か見えないものを見ているとでも言えるような、不思議な魅惑的な姿なのです。狸たちは一体何を見ているのでしょうか。 私たちが、時に巨木のざわめきや夕闇の桜の花などに、何か得体の知れないものをふと感じて、精霊の存在を信じたくなる瞬間があるのと同じような感覚ではないかと思ったりもするのです。 狸たちが虚空に見ているものは果たして何なのでしょうか、彼等が語ってくれることは決して無いので、見えないものを見る目を涵養するしか方法は無さそうです。これこそ第三の目なのかも知れません。 |
今年の鶯の初啼きは2週間ほど前でした。そして暖かい日が続いて日増しに鶯の啼き音が増えています。啼き方もどんどん上手くなっていくのが判ります。メジロやホホジロやシジュウカラも負けじと囀ります。中でも賑やかなのがカケスの群れです。カケスは何種類もの啼き方をしますが、集団でいる時には凄まじいほど「ギャァギャァ」啼くので驚かされます。姿と色の美しい鳥だけにこの声だけ聞くと信じられない思いです。言って見れば「美女の悪声」でしょうか、人の世界にもよくあることですね。 今朝の散歩ではコジュケイの「チョットコイ、チョットコイ」が私の歩みを先導するように聞こえていました。そして彼等の藪の中を走り落葉を踏む音が、二羽の雌雄の恋の出逢いと駆け引きを容易に想像させてくれました。微笑ましくも羨ましいことです。 思えば私の青春の日々は半世紀以上前のことでした。第二次世界大戦のさなかから戦後にかけてが最も多感な年齢だったと思います。純粋無垢な軍国少年であった私は敗戦という衝撃的な現実と混乱の中で茫然自失、少年航空兵になって国のために戦い、大空の華と散ると言う信仰のような一途な夢を失い、暫くは思考力を無くした状態でした。 そして、目前の身近な習慣の繰り返しだけを信じて生活することで、それを耐えた記憶があります。つまり、乏しい食事をする、体を動かしてひたすら働く、くたくたに疲れて眠ると言った暮らしです。当時私の家族は中国地方の田舎の祖父母の家に疎開していましたので、乏しいながら飢えるようなことも無く、畑仕事や山仕事はいくらでもあったのでした。そして軍隊から復員した父が復職して、地方都市での穏やかな小市民的な日常が始まり、敗戦後の日本の社会は復興と混乱が渦巻いたのでした。私の記憶の中で最も強く意識されたのは「神話から始まっていた日本の歴史が、実は全くの偽りであった」と言う事実です。初めて耳にし目にした「石器時代とか縄文式・弥生式の土器、古墳など」実証的な歴史に興奮を抑えきれなかったことを鮮明に思い出します。そして今にして思うのは、よく自分が壊れなかったものだ、多感な少年期をよくもまぁ無事に乗り越えて来たものだと言うことです。これは昭和一桁生まれのささやかな自負かも知れません。 ところで今、世界は大変危険な状態に直面しています。何が正しいのか、誰が正しいのか、真の正義とか平和は存在するのか、在るのは利己的な自己主張や国益だけでは無いのか、人間は何処まで信じられる存在なのか、未来に光明は見出せるのか、果てしなく疑問は広がり、絶望が堂々巡りするばかりです。やはり人間は本質的に争いが好きなのでしょうか、国と国は戦争が好きなのでしょうか。 さて、桜前線の便りが聞かれ始めたと言うのに「春が来た、春が来た」とはしゃいではいられない現実が目前にあります。視野が遮られる砂嵐はイラクの砂漠だけでは無く、悲しいことに我々の心の中に吹き荒れているようですね。 では、また。 |
最近歳とった所為か、早くから目が覚めてしまいます。もう少し眠らなくてはと思いながら横になっていても、ついついあれこれ考えて眠れなくなってしまい、仕方なく起き上がって仕舞うのです。いつまでたっても成長できませんね。 今はまだ4時過ぎ、辺りは真っ暗です。僅かに麓の村落の灯が見えるだけで、世の中は春眠の真っ最中なのでしょう。ひたすら眠たかった若い頃が懐かしいですね。いつ頃からか早寝の癖がついてしまい、これは一種の悪循環と言わなくてはなりません。 さて、先日思い立って一泊二日の小旅行をして来ました。三十数年振りに那智大社へお参りして来たのです。その時立ち寄った補陀洛山寺(ふだらくさんじ)と言うお寺が強く心に残りました。境内の建物に置かれた「渡海船」の復元模型と住職さんのお話が心に焼き付いて離れません。この渡海船と言うのはただの船ではありません。西方浄土を目指して生きながら成仏しようとする僧侶の捨身行なのです。御本尊の観音様の浄土である補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼で、記録(熊野年代記)によれば平安時代から室町・江戸時代まで二十回あまりの補陀洛渡海が行われたと言い、その様子は那智参詣曼陀羅図にも描かれており、寺の裏山には渡海して上人となった僧のお墓も現存するのだそうです。 衆生済度のためなどと一言で軽々しくは言えない、文字通り命を懸けた行だったのですね。そのための船はとても小さく、狭い屋形を乗せてあり、渡海者が中に入ると外から釘付けして那智の滝に流したと言うことです。どんな信仰が渡海僧をこう言う極限の行に駆り立てたのでしょうか。やわな私には想像を絶する世界です。 後に近代になると、この行を一度は決心したものの心変わりして、島に上がろうとする者も現れ、無理矢理入水させられたと言う伝説もあり、生きながら渡海すると言う慣習も無くなったとか、補陀洛山寺の住職が亡くなるとかつての方法で水葬すると言う儀式に変わっていったのだそうです。 補陀洛渡海上人遺跡・補陀洛山寺というパンフレットを戴き、ご住職の「良くお参り頂きました」と言う言葉と合掌に見送られて、誠に有り難くかたじけない気持ちで一杯でした。その日は春の雨が降っていた所為か、不思議に心が満たされて静かに潤った気持ちに包まれたのでした。我ながら殊勝なひとときだったのです。 窓から見えていた麓の小さな灯が霧に消え始めています。空が少し明けたのかも知れません。今は夜と朝の微妙なはざまの時のようです。こんな時人は柄にもなく神妙な精神に帰るのでしょうか、この暗い混沌の中に一筋の光を見たいと思います。まるで母の胎内にいて生まれる時を待っていたことがあるような、在るはずも無いそんな記憶があるような、あまり体験したことのない感覚に驚いています。 間もなく夜明けです。「春眠暁を覚えず」も良いが「春眠暁を覚える」のもたまには良いかなと思っています。 では、また。 |