![]()
このところ雨の寒い日が多かったのですが、久しぶりに気持ちよく晴れました。夜のあいだ吹き荒れた風も収まり、穏やかな天気です。 何日振りかでゆったりとした気分で散歩が出来ました。私の散歩のノルマは一日一万歩を標準にしていますが、時間や距離にはこだわらないので、初めての道に出会ったりするとついつい長くなってしまいます。 毎日見ているとさして変化がないような風景なのですが、いつの間にか山はすっかり晩秋の彩りに包まれています。この山の紅葉はどちらかと言うと赤ではなく褐色や黄色が多く、正確には黄葉というべきかも知れません。沢山の落ち葉が黄色の絨毯になって続きます。もう虫の声も聞こえなくなり、鳥の囀りも少なくなりました。 さて、このような山道を歩きながら感じることの一つに、自分の身体機能の衰えがあります。私はどちらかと言えば強健に生まれついた方で、体力に自信があったのですが、最近自覚する衰え方には大分まごついていると言わねばなりません。 中でも目と耳、視力聴力の衰え方には我ながら愕然とします。しかし良くしたもので、その分逆に見なくても良いものが見えない、聞かなくて良いものが聞こえないと言うようになりつつあるような気もしています。決して強がりでは無くそんな感覚が生まれつつあるのです。それは、或いは「勘の働き」のようなものが育っているのかも知れません。 歩き疲れた時は素直に休むことにしています。山は歩いているときも十分に楽しいのですが、静かな風景の中にじっと座り続けていると、木の葉の落ちる音が聞こえ、リスが樹上を渡る気配が聞こえ、そこに鮮やかに秋色に染まった色が見え、リスの愛らしい仕種が見えてくるのです。落ち葉や枯れ枝を踏み鳴らす気配は野兎と猪と鹿では全く違います。実際の彼らの姿は見えなくてもその動きがありありと目に浮かびます。その息づかいや動作が手に取るように判ります。これは経験の賜物かも知れません。 ある時、目前数歩の所を猪の親子が通り過ぎたことがあります。親猪の荒い息の音にはっとした時、こちらの姿に気づいた彼女(だと思いますが)は立ち止まりチラとこちらを見つめ、そして何事も無かったように歩き去りました。その後を小さな子猪がわき目も振らずに追いかけていったのです。親猪はこちらに気づきながら危険で無いことを一瞬に感じ取って静かに去り、子猪の方は親の後を追うのに一生懸命だったのだと思います。この時、私は「気」の存在を実感しました。こちらの平安な気分が猪に伝わったのだと信じました。これは私にとって貴重な経験でした。 山を歩くことは、私のような馬齢を重ねただけの未熟者にも「穏やかな気」を涵養してくれるのですね。 では、また。 |