やぶいぬ王国トップへ      たぬき通信indexへ

←10月分を見る                   12月分を見る→

NO.28
2000年11月6日  -虫たちの日向ぼっこの巻-

 この所雨の日が多くて、すっきりとした秋晴れは滅多にありません。その数少ない好天の日の午後によく目につくのが、カマキリやゴミムシやオサムシの仲間達の姿です。
 何故目につくのかと言うと、申し合わせたように大きめの石やブロック塀やコンクリートの通路に集まってくるからです。そして彼らは一様にじっとして動こうとしません。つまり日向ぼっこをしている訳です。
 日向ぼっこをしていると言えば誠に平和な情景のようですが、実はこれが悲しく厳しい現実に他ならないことに気づきました。暖かな小春日和の静かな空気の中でじっと何かを待っている、いわば臨終の時を待つ最後の営みなのでしょう。何故か草むらや落ち葉の下の本来の生活空間から這い出て、明るく暖かい場所に集まってくるのです。朝夕の低い気温から少しでも身を守ろうとしているかのように、太陽の温もりの集まりやすい場所を求めて来るものと思われます。そしてそれが彼らの最後の数日なのだと思います。
 それは、同じような情景を何度か見ている時に全く同じ場所を動いていないことに気づいて判りました。午前中にはまだ触覚や足を動かしていたのに、夕方近くにはまるで生きていた時と同じ姿で動かなくなっていたのです。
 また、この状態には日によって虫の種類にやや偏りがあることが判りました。ある日はカマキリが主で、次の日はゴミムシが多いと言うように、同じ種類が同じような条件で死期を迎える傾向があるのではないかと思えるのです。風の強かった日の翌日には、同じ種類の蛾や蝶が片隅に吹き寄せられて死んでいます。中にはまだ文字通り虫の息でもがいている者もいて、哀れさもひとしおです。まして降りしきる時雨のなかで水たまりに浮かんでいる者たちもいて、雨粒に弄ばれ動かされている姿は何とも切ない気がします。
 「生者必滅会者定離」は永遠の真理、生命あるものには必ず死があるのですから、何もいまさらのように驚いたり悲しんだりすることではありませんが、私のような心弱い凡人は、眼前に具体的な事実や現象を突きつけられると動揺せずにはいられません。
 好むと好まざるとに係わらず、私ももう老人の仲間入りです。死はそう遠くないところにあると思っています。けれども覚悟と言えるほど立派な心境ではありません。時に心弱く未練の網に搦め取られてもがき、時に残り少ない人生を有意義に生きねばと自らを戒め、時にはなるようになるさと開き直り、何とも落ち着かない日々です。
 さて、私たちはどのような最後の時を迎えられるのか、出来ればあの虫たちのように日向ぼっこをしながら、うとうとと微睡むようにその時を迎えたいものですね。  では、また。
 

NO.29
2000年11月27日  -山歩きと「気」の話の巻-

 このところ雨の寒い日が多かったのですが、久しぶりに気持ちよく晴れました。夜のあいだ吹き荒れた風も収まり、穏やかな天気です。
 何日振りかでゆったりとした気分で散歩が出来ました。私の散歩のノルマは一日一万歩を標準にしていますが、時間や距離にはこだわらないので、初めての道に出会ったりするとついつい長くなってしまいます。
 毎日見ているとさして変化がないような風景なのですが、いつの間にか山はすっかり晩秋の彩りに包まれています。この山の紅葉はどちらかと言うと赤ではなく褐色や黄色が多く、正確には黄葉というべきかも知れません。沢山の落ち葉が黄色の絨毯になって続きます。もう虫の声も聞こえなくなり、鳥の囀りも少なくなりました。
 さて、このような山道を歩きながら感じることの一つに、自分の身体機能の衰えがあります。私はどちらかと言えば強健に生まれついた方で、体力に自信があったのですが、最近自覚する衰え方には大分まごついていると言わねばなりません。
 中でも目と耳、視力聴力の衰え方には我ながら愕然とします。しかし良くしたもので、その分逆に見なくても良いものが見えない、聞かなくて良いものが聞こえないと言うようになりつつあるような気もしています。決して強がりでは無くそんな感覚が生まれつつあるのです。それは、或いは「勘の働き」のようなものが育っているのかも知れません。
 歩き疲れた時は素直に休むことにしています。山は歩いているときも十分に楽しいのですが、静かな風景の中にじっと座り続けていると、木の葉の落ちる音が聞こえ、リスが樹上を渡る気配が聞こえ、そこに鮮やかに秋色に染まった色が見え、リスの愛らしい仕種が見えてくるのです。落ち葉や枯れ枝を踏み鳴らす気配は野兎と猪と鹿では全く違います。実際の彼らの姿は見えなくてもその動きがありありと目に浮かびます。その息づかいや動作が手に取るように判ります。これは経験の賜物かも知れません。
 ある時、目前数歩の所を猪の親子が通り過ぎたことがあります。親猪の荒い息の音にはっとした時、こちらの姿に気づいた彼女(だと思いますが)は立ち止まりチラとこちらを見つめ、そして何事も無かったように歩き去りました。その後を小さな子猪がわき目も振らずに追いかけていったのです。親猪はこちらに気づきながら危険で無いことを一瞬に感じ取って静かに去り、子猪の方は親の後を追うのに一生懸命だったのだと思います。この時、私は「気」の存在を実感しました。こちらの平安な気分が猪に伝わったのだと信じました。これは私にとって貴重な経験でした。
 山を歩くことは、私のような馬齢を重ねただけの未熟者にも「穏やかな気」を涵養してくれるのですね。  では、また。
 

やぶいぬ王国トップへ      たぬき通信indexへ

←10月分を見る                   12月分を見る→