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NO.25
2000年10月1日  -虫たちの歌と早足の秋について-

 朝晩はめっきり涼しくなりました。
 東海地方を襲い伊勢湾台風以来の被害をもたらした長雨と豪雨の後、すっきりとした晴天が続いたと思ったら、一足飛びに初秋の気配です。特に風のある日は半袖のシャツでは寒いと感じるほどです。もともとこの山は気象庁の天気予報の気温より3〜4度は低いのが常なのですが、それにしてもこの急激な季節の変化は驚きです。
 そしてここ三日ばかり降り続いた雨のせいで又一段と秋が近づいた感があります。蝉に代わって昼までも虫の声が絶えません。エンマコオロギやスズムシなどの他いろいろな虫たちの鳴き声が聞こえます。バッタの類は鳴かないと思っていましたが、河原バッタやトノサマバッタなども鳴くのです。バッタは飛び立つ時にピチピチと細い枯れ枝を折るような音を出すので、注意をひかれて見ていて鳴くのに気付きました。
 その他ジィーと長く鳴く虫もいますが、まだその姿を見たことはありません。きっと草の葉陰や落ち葉の下に居るのだと思います。こうして昼夜を通して鳴き続ける虫たちを聞いていると、小さな生命が一所懸命生きているのだなぁと実感させられます。
 昔から秋の虫の声を愛でるのは風流の一つとされていますが、この山の虫たちの大合唱で、一つ一つの声を聞き分けることは出来ません。身近な庭の中だけでもどれほどの数の虫たちが居るのか見当もつきません。庭を散歩する時でも注意していないと踏みそうになるほどです。
 鳥たちが木々の間や草むらの中を忙しげに飛び回るのは、きっと虫を食べるためなのだと思いますが、このこと一つをとっても両者のために良い方法は無いのだという現実があります。自然の掟はどこまでも厳しいのですね。
 こうして考えてみると、虫の声もただ快いとか楽しいとは言えない気がしてきます。広い世界、大きな地球、そして広大無辺の宇宙の中では、人間も動物も虫もたいして変わりないのだと言う想いに打たれます。そして、そうであればこそ自分たちの命をそれぞれ大切に生きなくてはならないのではと、我ながら神妙なことを思ったりしています。
 早足で訪れ、早足で去っていく短い秋、そして虫たちにとっては厳しい冬の前の精一杯の生命の歓喜の歌のように感じられ、そっと応援したいような気分です。
 さて、私はどんな命の歌を唄えるのでしょうか。  では、また。
 

NO.26
2000年10月10日  -沢蟹のサラダの巻-

 この山には幾つもの谷川や沢があります。ほとんどが小規模なもので、雨の後だけ短い期間流れを作ります。一年を通じて水の涸れないものは、私の知るかぎり三つしかありません。そのうちの一つが私たちの飲料水や生活用水を取水している谷川で、夏冬の一時期には多少心細い時もありますが、谷の片側が伊勢神宮の神宮林であるお陰でしょうか、清冽で美味しい水の恩恵に与っています。無論そのまま生水を飲めるほどの深山幽谷ではないので、取水池や沈澱槽や処理装置があり、数カ所のポンプ場を経由して頂上の配水タンクまで汲み上げられ、水道として配水されているのです。
 さて、今日の主人公はこの山の谷川に住む沢蟹です。何という種類なのかはまだ良く判りません。居酒屋などで酒の肴にされている唐揚げの沢蟹と同じものなのか、それも判りません。普通は3センチから5センチくらいまでの紅い甲羅で、体の割には大きめの鋏をもっています。とても用心深く敏捷で、見つけてもあっと言う間に落ち葉や石の下に隠れてしまいます。
 あまり可愛いので苦心して数匹を連れ帰り池に放したのですが、何処へ逃げたのか姿が消えてしまいました。二度三度繰り返して試みましたが、結果は同じでした。私の庭の池には適応できないのかと諦めかけていたところ、ある日水面近くの石のすき間からひょっこり姿を現したのです。それも1匹だけでは無く、別々の場所から互いに呼び合ったかのように二匹もです。そしてそれぞれ池の中に入り、池底や布袋葵の根とか葉の間を歩き回り、何かを口に運んで食べているのです。試しに市販の金魚の餌を投げてみると、匂いか味で判るのか割に敏捷に反応して近づき、器用に鋏でつまんで食べます。
 その後、大小合わせて四匹いることが確認できました。互いに別の場所にいて、たまにニアミスすることはあっても、素早く避け合って決して一緒になろうとはしません。すぐに群れ合うメダカとは違って、孤独な生活を愛する生き物のようです。
 ところで最近、布袋葵の葉に穴が開けられたり、ギザギザに切り取られたりしているので、不思議に思っていたのですが、それが沢蟹たちの仕業であることが判りました。沢蟹たちが食べていたのです。目の前で上手に鋏で切り取って口に運ぶのを見た時はとても楽しい気分でした。
 標題の「沢蟹のサラダ」は沢蟹をサラダにするのでは無く、沢蟹が布袋葵のサラダを賞味しているお話なのです。
 私は沢蟹の唐揚げもサラダも、決して口にしようとは思いません。日本語の助詞の使い方は面白いですね。  では、また。
 

NO.27
2000年10月14日  -花の真は山野草にありの巻-

 朝五時すぎ、まだ真っ暗な西の空にまん丸な月があります。かなり強い風が木々に風の唄を歌わせています。つい先日まで暑かったり涼しかったり、不安定な季節の変わり目でしたが、もう今朝はきっぱりと秋です。
 早いものでこの山に住んで丸二年が過ぎました。最初の一年は何もかもが初体験で無我夢中でした。二年目にやっと少し落ち着いておさらいをした感じです。でもまだまだ判らないこと知らないことが数多くありそうです。去年の自然は今年の自然ではありません。雨も風も光も決して同じとは思えません。無論受け止める自分自身が同じではあり得ない訳ですが、自然の懐はとてつもなく深いと思わずにはいられません。
 さて、今日はこの山に咲く花のお話です。以前、ササユリの開花や布袋葵の花についてご報告したことはありますが、本格的に花のお話をするのは初めてだと思います。散歩や山歩きの時、思わず足を止め屈み込んで見とれる花はたくさんあります。
 今咲いているのは、アサマリンドウ・ヒヨドリジョウゴ・マツカゼ草・アケボノ草・ツユクサ・ヤマシロ菊・ヤマハギ・オニアザミ・タムラ草・マツムシ草・ワレモコウ・キキョウなどです。総じてあまり派手な形や色彩ではありません。地味で目立たない花たちです。ヤマハギやオニアザミ以外は普通に歩いていては多分見過ごして仕舞うことが多いでしょう。それほど小さいのです。小さい上に他の草や灌木の陰に隠れていることが多いのです。従って見つけようと言う意志が無いと目に入りません。私はこの態勢を「モード」と呼んでいます。即ち「山野草探索モード」です。つまり集中力が必要なのです。
 こうして見つけた花たちを写真に撮ったり記憶したりして図鑑で調べます。初めて見る花の名を図鑑の中に発見した時の嬉しさは格別です。つい最近の例では「アケボノ草」がそうでした。庭の池の傍らにいつの間にか自生した草が花を開いたのですが、何という花か判らないまま、散歩中に渓流近くの小道で同じものを見かけることになりました。たまたま遊びに来てこの花を見た長女が帰宅した後、「あれはアケボノ草では?」とFAXで教えてくれたのです。「こんな模様があるはず」と花弁のスケッチが添えられていたので、あらためて近くに寄って観察した結果、小さな五弁の花びらの一つ一つに実に繊細清楚な文様を発見、図鑑で確認することが出来たのでした。解説に曰く「和名は曙草、花は白色または黄白色、花の裂片に黄緑色の蜜線溝と黒緑色の斑点、その色合いと文様を夜明けの空に見立てたもの」と。曙草とは言い得て妙、素晴らしい表現だと思います。
 最近、私は園芸種の花に全く興味が無くなってしまいました。これでもかこれでもかと言わんばかりに溢れる色彩や香り、華やかな姿かたちに虚しさを感じてしまうのです。
 さて、今まさに夜明けの空、清少納言にお許しを頂いて言えば「秋も曙」ですね。  では、また。
 

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