〜川風の便り〜
あまのじゃく通信

ほんどたぬきちプロフィール
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先日、家内とある神社にお参りしました。二月ほど前にお参りして、霊験あらたと言われるお札とお守りを受けて来たのですが、そのお蔭を戴いた御礼参りのつもりでした。ちょっぴり良い気分で帰宅して天気予報を見ていたら、その日は二十四節季の「清明」に当たると予報士が話していて、道理で気持ちの良い爽やかな日だったなあと納得したのでした。それにその神社がかの高名な陰陽師安倍晴明を祭った「晴明神社」だったので、尚更さすがと思ったのです。祈願したのは厄除けで、少しばかり嫌なことがあって気に病んでいたことが、御札やお守りのお蔭か嘘のようにさっぱりと消えたからなのです。すぐ傍の公園の桜が満開で、これも「花冷え」と言う季語がぴったりの清々しい空気の中で美しく咲いていました。 今年は不思議なほど桜見物をしました。と言ってもこれは運動療法のためのウォーキングで方々へ出掛けたせいなのですが、名古屋には物凄く桜の木が多いのです。その多くは川沿いの並木です。桜は水を好むと聞きますが、この地方には大小様々な河川があり、その土手に桜並木がたくさんあります。木曽川堤、五条川堤、山崎川堤などが代表的な名所です。また、名古屋城の二の丸公園や名城公園、鶴舞公園、白鳥庭園、徳川園などの公園と、広大な緑地(森林公園緑地・小幡緑地・相生山緑地・大高緑地・庄内川公園緑地等々)には必ずと言っていいほど桜の古木と若木があります。桜は古来日本人に好まれた樹です。日本人の大和魂の象徴として愛された樹です。特に散り際の潔さが生き方の美学として称揚されたのは、武士道との関連が強いと思うのですが、それ以上に世の中に潔く無いことが多すぎたためではないかと私は思います。現在の世相も美しくないことが多すぎます。政治、事件、犯罪など挙げれば際限もありません。本家の桜について言えば、桜見物とは名ばかりの宴会騒ぎのマナーの悪さと人間としての程度の低さは目に余りますね。美しい桜が泣きながら散っているように感じられてなりません。 さて、桜の散り際に比べると人間の終わり方はどうでしょうか。立派に終わる方もいらっしゃるとは思いますが、私は自分のこととして考えるとなかなか難しそうです。この歳になって今更愚痴を言っても始まらないのですが、一生懸命に努力しなかった報いか、能力不足か、運が無かったのか、とうてい桜のように潔く散れそうにはありません。 若い頃読んだ文章の一節で、井伏鱒二だったかと思うのですが、「花に嵐の譬えもあるぞ、さよならだけが人生だ」と言うのを記憶しているのです。これが妙に頭の隅に引っかかっていて離れません。私の拙い解釈では、「人生には何時何があるか判らない。咲き誇る花も嵐が吹けばひとたまりもない。人生は別れの連続であり永遠の別れの死は誰にでも確実にやって来る」「だから普段から真剣に真面目に生きなさい」と言っているのだと思います。ただ、残念ながら、そうは思ってもそのようには出来ないまま漫然と生きて仕舞ったのが厳然とした現実なのです。それでもせめて最後の別れは笑顔でしたいものと願うのですが、晴明神社の神様は私の身勝手な願いを何と思われることか、内心忸怩たるを禁じ得ません。 では、また。 |
「緊迫の胴体着陸」と報じられた航空機事故、偶然つけたTVの画面に目が釘付けになりました。前輪が出ないまま着陸しようとする旅客機の中継放送でした。その一部始終をはらはらしながら見守りました。結果は無事で本当に良かったと思います。 問題はその後です。カナダ・ボンバルディア社製のこの機種は過去5年間に70件以上のトラブルを起こしていたと言うのです。何故ですか?何かが起こるたびに「実はかくかくしかじか」と言う話が出てきます。日本では何かが起こらないと何もしない、何かが何度も起こって初めて大騒ぎするということが多過ぎませんか。過去のエレベーター事故、自動ドア事故などでもそうでした。魔の交差点、魔の踏み切りなどと言う呼び名も、それが繰り返されていることの実証に他ならないと思います。何故なんでしょうか。教訓は生かされていないのです。日本と言う国はいつからこなってしまったのでしょうか。 何処かで起こったこと、何処かの組織や企業で起こることは、日本中で同じように起こるという、この同質性の意味する底知れない不毛はどう考えれば良いのでしょうか。 腹が立って腹が立って仕方ありません。底無しの談合体質、我々のこの国は腐っています。大臣、与党の幹部と呼ばれる人、天下りの役人たち、会社や自分の利益のためにこれを受け入れる人達、松岡農水大臣の恥知らず発言。私達は子供の頃「嘘つきは泥棒の始まり」と教えられました。この大臣の荒唐無稽な言い訳は嘘以外の何物でも無いでしょう。その嘘つきを見当違いの言葉で庇っている安倍総理には正常な精神や判断力が無いのではありませんか。そんな人物が日本の舵取りをしているなんて信じたくもありません。でもこれが我が国の現状なのですね。これはあの胴体着陸の飛行機よりも信じ難く、危険な状況だと思います。 さて、そこで思い出したのが、若い頃に観た映画「欲望という名の電車」です。実は映画の内容は殆ど記憶してはいないのですが、当時この斬新な表現に驚き鮮烈な刺激を受けた記憶があります。それに触発されて言えば、我々は今どんな電車に乗っているのかなと考えさせられます。新聞もTVも見る度に目に飛び込んでくるのは不愉快な事件の内容と文字ばかりです。曰く「疑惑・偽造・欺瞞・隠蔽」そして恥知らずな事件の数々「殺人・傷害・盗難・談合・詐欺・買春・万引き・猥褻・盗写などなど」さらに「事故」と言うのが間違いでは無いかと思われるような「未必の故意」的な事件、挙げればきりがありません。嫌になりますね。どこが美しい国なんでしょうか。どこに美しい国になれる要素や希望があるのでしょうか。有るのは失望と絶望です。 政治家や御用評論家が楽天的な未来社会を語れば語るほど「嘘つけ」と叫びたくなります。私は、我々は今「絶望と言う名の飛行機」に乗せられた社会に生きているのでは無いかと思わざるを得ません。前輪も後輪も故障しているし、翼にはひびが入っているかもしれません。燃料もあまり無いし、機長は失神しているか、もしかしたら乗っていないのかも知れません。そんな飛行機の乗客になった覚えは無いのですが、いつの間にか乗せられてしまっていたのですね。いまさら遅いかもしれませんが、いったいどうすれば良いのでしょうか? では、また。 |
一昨日は「啓蟄」でした。でも、暖冬異変と言われて既に久しいこの冬、虫たちはもうとくの昔に穴から出てしまっていたのではないでしょうか。この数日の突然の低温と低気圧の強風には彼らもさぞかし驚いたことでしょう。暖冬で一挙に春が雪崩れ落ちるようにやって来ると感じていたのですが、二月中旬に逆戻りしたようなこの異常気象は何なのでしょうか、地球の温暖化が言われ、人類の叡知が試されているとの警告が繰り返されているにも係わらず、この状況はいっこうに改善の兆しが見られません。日本中で強風による異常事故が多発しました。トラックが横転したり、家の屋根が吹き飛ばされたり、自然の猛威は人間の智慧や思惑を遥かに越えています。今までの経験や知識は全く無力になっています。 風と言えば間もなく日本列島に黄砂が降り続くでしょう。遠い中国の奥地の砂漠の砂が私たちの目に見える形で実感されるのは、ある意味で驚異です。ベランダの手摺りにうっすらと積もった砂の粒子を触りながら、何度溜め息をついたか知れません。と言うのはこの黄砂を運ぶ風は中国の重工業地帯から酸性雨も連れて来るのだそうです。西日本では酸性雨による森林の被害が深刻とのことです。こういう現象はお隣の韓国でもあり、カナダでも深刻になっているそうです。そして今や全地球規模で様々な異変と被害が世界中を脅かしているようです。 良いニュースは滅多にありません。いったい人間は何処に向かっているのでしょうか。人間の未来に救いはあるのでしょうか。私自身は既に高齢で老い先短い身ですから、遠い未来は関係ないと嘯いても良いのですが、それでもやはり人類の未来が暗く絶望的だと思うのは悲しいことです。次の世代やその後の人々はどう考えているのでしょうか。直接自分たちの世界に襲いかかって来る虞のあるこうした事態を真剣に見据え、対処して行こうとする覚悟はあるのでしょうか。最近の自己中心の世相を思うととても心配です。 ふと一服のつもりでテレビを点けたら、衆議院予算委員会の中継でした。野党議員の質問に安倍総理が早口で答えていました。私は何故かこの人が好きになれません。信用出来ません。私の目が曇っているのでしょうか。私の理解力が不足しているのでしょうか。若さや権力に老人特有の頑迷な判断と嫉妬をしているせいなのでしょうか。前総理も別な意味で信頼出来ませんでした。それは違うだろうと思うことが多々ありました。特に酷かったのが選挙のテーマを「郵政民営化」の是非を問うこと一本にしたことです。選挙民の大半が催眠術にかかったようにこれを支持したのは結果が証明しています。その後、郵政民営化は我々に何をもたらしたのですか?何が期待できるのですか?あれは何だったのですか?こうした一連の政治の効果が、いま破廉恥な政治家や経営者をはびこらせ、自己本位の社会を生んでいるのではありませんか。 地球規模の絶望に加えて、この国の指導者に信が置けないとしたら、私たちはどう生きて行けば良いのでしょうか。私は私達自身が「変わる」しかないと思います。ものの見方考え方を変えるしかないと思います。これ以上悪くなりようが無いと思って変えるしか無いと思うのですが、負け犬の遠吠えでしょうか。 では、また。 |
今日はとても穏やかな陽射しの朝です。ガラス越しの暖かさを楽しみながら、2時間あまりCDを聴きました。モーツァルトの交響曲第40番と41番の2曲を二度繰り返して聴いたのです。久し振りにゆったりとした楽しい時間でした。思い患うことばかり多くて、腹を立てたり悔やんだり悲しんだり、これという当てもないまま無為に過ごしてしまうことが日常になっていたような気がします。その怠惰で平凡な時間を切り裂いて洗い流してくれたような思いがしてとても嬉しかったのです。渓流の癒しですね。 それにしても今更ながらモーツァルトは素晴らしいなと思います。この天才の脳内構造と心象風景はどんなものだったのでしょうか、ただただ感じ入るばかり、想像することすら出来ません。まあ当然のことと言えば当然なのですが、音痴としか言いようのない私にとっては、遙か彼方の天上から降り注ぐ至上の光であり、無数の神様と天使のきらめく降臨の乱舞なのです。ああ!これこそ奇蹟だ、至福の時なのだと感じたのでした。 思えば初めてクラシック音楽を聴いたのは、14歳の秋でした。友人のポータブル蓄音機を持って二人で近くのはげ山に登り、やっと手に入れた擦り切れて傷んだレコードでベートーベンの「運命」を聴いて興奮したのでした。敗戦後僅か2年、文化的なものの数少ない時期です。身近な音楽と言えば小学唱歌が流行歌、でなければ進駐軍の持ち込んだジャズしか無かった時代です。ラジオで一番耳慣れたのは流行歌と連続放送劇のテーマ音楽です。それから60年経った今でも、その頃に聞き覚えた演歌が唄えます。なのに「運命」の方はあの有名なダダダダーンしか覚えてはいません。それはクラシック音楽に目覚めたと言うよりは、単に文化的なものへの憧れから、そんな洒落た真似をしてみたかったに過ぎなかったからだと思います。聴き終わる頃日暮れ近かった山はひどく寒かったことを覚えています。そのダダダダーンもその後のラジオやテレビの効果音に度々使われて、有名になったせいで覚えたのではないかと思います。ただその後、映画や出版物などを通じてクラシック音楽に触れるにつれて、その魅力と楽しさに目覚めたことは確かです。 サラリーマン時代は通勤や営業に車を運転する時間が長く、カーステレオで様々な音楽を聴きました。中でもラベルの「ボレロ」に強烈に惹かれていて、テープが擦り切れるまで繰り返し聴いた思い出があります。 最近機会が少なくて生の演奏会には余り縁がありません。最後の演奏会は昨年の10月末でした。モーツァルト生誕250年記念と言うことで数多くの演奏会が催されたと思いますが、その中の一つに「時を駆けるモーツァルト」「薫り立つ弦楽合奏」と言うのがあり、知人のヴァイオリニストが出演したこともあって喜んで出掛けたのでした。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタやセレナードなどとても素晴らしく、アンコールの「音楽の冗談」のユーモアが印象的でした。 さて、今日はこれから何を聴きましょうか。久し振りにボレロlかな、いや、やはりモーツァルトでしょう。今の気分は交響曲よりはピアノかな、ピアノ協奏曲第20番・21番あたりですかね。第26番「戴冠式」もいいなと思います。 では、また。 |
1月1日 お正月元旦は穏やかに明けました。分厚い新聞とチラシを3時間かけて見ました。見るだけです。あんまり沢山あると読む感じではありませんね。物凄い量の情報です。紙面を作った人はさぞかし大変だったろうなと思います。しかし、ご苦労さんとは思っても、感謝してしっかり読もうとは思えません。ただ凄いなあと思うだけです。新年早々気合いが足りませんね。 1月2日 元日または2日の夜に見る夢が初夢だそうですが、「一富士二鷹三茄子」ってどういう意味なのかよく知らないまま来ました。辞典によるとこれは縁起のよいものの順番だそうです。昨夜は何の夢も見なかったように思います。従って今夜が大事になりますね。良い夢を見たいものです。見られるかな? 1月3日 夢を見たのか見なかったのか、どう考えても判りません。ここ数日運動不足の上、高エネルギーの飲食と夜更かしで体調が悪く熟睡出来ません。朝目覚めるなり、しっかり歩かなければと思いました。何時もより多めに歩いて12,000歩余り、少し汗ばむ感じで気分も爽快でした。今夜こそ良い夢を見ようと思います。 1月4日 初夢はついに見られませんでした。現実の夢を無くした年寄りには見る夢が無くなってしまったのかも知れません。残念ですが仕方ありませんね。 年頭の記者会見で安倍首相「今年は亥年であります」と型通りの前置きで「美しい国造りに一直線に進んでいく覚悟」とのお話、本当にこの人は大丈夫なんでしょうか、一般に言うところの猪突猛進されると困るんですが。猪だってそんな所で引き合いに出されるのは不本意だと思うのです。私は伊勢の山に暮らした期間、何度も野性の猪に出会いましたが、その時の経験から言うと決して猛進はしません。むしろ慎重で用心深い生き物なのです。彼が一直線に猛進するとすれば、それは追い詰められ逃げ場を失ったような場合にやむを得ずすることであって、普通にすることとは思えません。阿部首相をリーダーとする政権与党が、国民を圧迫し弱者を逃げ場のない底辺へ追い落とすようなことがあれば、その時こそ国民は一直線に反発し抵抗するのではありませんか。 次の選挙の争点は「憲法改正」だそうです。「戦争の放棄」を放棄しようと言うのでしょうか。戦争もテロも報復が無限の報復を生むだけでしょうに。 1月5日 今日は久しぶりに風もなく穏やかな日でした。河川敷を散歩していたら、親子連れが凧あげに興じていました。犬も嬉しそうに走っていました。ラグビーのフォーメーションの練習を反復する中学生たちが荒い息をしていました。幼児を芝生に這わせて、見守っている若夫婦の微笑みが心に滲みました。平和な風景です。こんな平和は何時まで続くのでしょうか。これからの一年、何が待っていると思いますか。 では、また。 |