悪夢の辞典 〜現代用語のクソ知識〜

え なな吉
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その23
「食材」しょくざい

食べ物の材料(広辞苑)

[解説]

今回も、リクエストです。
Mさんから、こんなメールが届きました。

「最近やたら「食材」という言葉が使われません??
年末の市場中継でも「食材のかい出しに」とかニュースで
使われています。NHKの料理番組でも。
以前は「食品」とか「食料品」とかでしたよね。
言葉は変わっていくから抵抗はしないんですが、
(新聞の投書欄にありますよね、戦前の言葉はキレイだつた
とか・・・アレにもいつも怒っている私・・)」

 なるほど確かに、このところ「食材」を耳にする機会が多い。
 NHKの番組にも「食材の旅」なんてのもあるし、雑誌や料理本でも、頻繁に出てくる。
 しかしこの「食材」なる言葉は、ほとんどの国語辞典には載っていない。
 95年発行の「大辞林」2版がなんと辞典での初出であり、広辞苑に収録されたのはよ うやく 98年発行の5版からなのだ。

 明らかに「食材」は、過去においては使用されず、最近になって一般化した言葉なの である。


「食材」という業界言葉が一般したのは、80年代以来のグルメブームの影響だ。
 特にバブル以降、「フレンチ」「イタリアン」「エスニック」などそれまで日本人の 食生活には なかった食べ物が次々と「流行」した。この背景には金余りと円高による海外旅行ブー ムや ブランドブーム、輸入食品の低価格化などがあったわけだが、何と言っても余った金 を食事や デートに使う、というバブル風俗の影響が見逃せない。ファッション誌や情報誌では、 「おいしい店」「おしゃれなレストラン」が毎号のように特集され、若者たちはそん な店に 詰めかけたのであった。

 ここで日本の「食」に、一つの決定的変化が発生した。
 「食」の「情報消費化」である。

 このときすでに日本は「モノ余り」の時代を迎えていた。
 必要なものはすでに行き渡っていたのである。
 しかし日本はこの状況を「差別化消費」「ライフスタイル消費」という方法で乗りきっ た。
 モノは「個性」を実現するための必要物とされ、それを取りそろえることが他と差別 化されうる 「自分のライフスタイル」の具現化であるとされたのだ。他の車ではなくこの車、他 のブランドの服 ではなくこのブランドの服、といった買い方をし、その選択に満足する、というのが この時期の 消費であった。ここでポイントとなったのは、「付加価値」である。
 商品には雑誌記事や広告で「他とどこが違うのか」というストーリーがつけられた。
 「ヨーロッパの貴族が使う」「アメリカの伝統を伝える」などのストーリーだ。
もともと品質的にはそうたいして変わるところのない商品でも、そんなイメージを付 加することで 消費者の「ライフスタイル」の表象となりえ、人はそのイメージを求めてモノを買っ たのだ。

 この時期、「食」にもそれと同様の消費のされ方が起こったわけである。
 要するに食事は、「おいしいから行く」のではなく、「雑誌に載ったから行く」よう になったということだ。
  人は味わうためではなく、情報を確認するためにレストランに行くようになったのだ。
 「食べること」はブーアスティンのいう「疑似イベント」になってしまい、 レストランに行くことは有名な観光地に行くことと同義になったのだ。
 たとえば「ブルータス」に載ったなどのライフスタイルの提唱を標榜する雑誌への露 出が飲食店のステイタス になり、客を集める要因となったり、「有名人の行く店」へ行くことで、自分も有名 人並のステイタス を持ったつもりになることができたりしたわけだ。

 ところでここでことに注意すべきは、この時期の「食」の「付加価値」が「インサイ ダー情報」 であったことである。
 「食」はもともと、モノと違ってずっと所持して満足できるものではなく、その場で 消えてしまう。
 「所有」という価値がないその分だけ、「付加価値」の効き目が集客を左右する。 それが、「インサイダー情報」で埋められた、ということである。
 「○○でシェフを務めていた誰それが開いた店」「誰それがプロデュースした店」 「どこそこ産の ○○を食べさせる店」などが付加価値になっていったということである。

 そのインサイダー情報とは、食品の素材や調理の仕方までに及ぶものだった。
 折しも80年代前半から「ビッグコミック」連載の漫画「美味しんぼ」が人気を集めて おり、 作中の言葉「究極」が流行語ともなっていたが、この作品には「正しい素材」「正し い作り方」 が料理の専門家等によって言及される、というパートが必ず含まれており、そこから 一般に 調理用語などの業界用語が広まっていった。
 山本益博などの料理評論家達もこの時期注目されたが、彼らも同様に料理法や素材の 善し悪しを語り 調理法や素材、業界に関する業界用語やインサイダー情報を一般に広めることとなっ た。
 多くのマスコミもこうした手法に追随し、消費者はこうしたマスコミ情報に基づいて 「食」を語り、 消費する、という現象が訪れた。これは「蘊蓄ブーム」と呼ばれていた。

 「作る側のインサイダー情報」が受け手にもたらされて、それが「付加価値」となる。
それがグルメブームの正体であったわけだが、実は殆ど同時期に同じような現象が起 こっていた。
 それは「おニャン子ブーム」である。
 秋元康が仕掛けた「おニャン子クラブ」は特に当時の大学生に支持されたが、その享 受のされ方は 実は業界の「インサイダー情報」を楽しむ、というものだった。アイドルの売り出し をマスコミや 音楽業界やイベント業界などとの関連で考察して楽しむ、という学生達のあいだでは テレビの業界用語 、マスコミ用語、代理店用語などを用いてアイドルを消費していたのである。
 モノの流通が「付加価値」に決定的に左右される「情報消費時代」に突入していた日 本では、 モノに付加価値を付ける役割である、マスコミや代理店、業界人、カタカナ商売、コ ピーライター などが当時は時代の寵児とされもてはやされており、学生達はその業界用語を摂取し ては「業界シミュレーション」に熱中していたのだ。グルメ分野で起こっていたこと も似たようなものである。

 おニャン子ファンが業界用語を駆使してアイドルを語ることがステイタスであったよ うに、 グルメ分野でも「業界用語」を使って蘊蓄を語ることがステイタスになり、インサイ ダー情報や 業界用語は一般的な「グルメ情報用語」となったのだ。この過程で業界用語はマスコ ミを通じて 広がり、「食材」「料理人」などを始めとする言葉が一般化したのである。

 これはかなり異様な事態であった。寿司屋でお茶を頼むのに客が「アガリちょうだい」 とか 「お愛想あねがい」などと言ってしまうようなみっともないなことは前から少しはあっ たのだが、 ここへ来てそれがあたりまえになってしまったのだ。極端な例だが、吉野屋で「つゆ だく(牛丼の汁を大目に、という吉野屋バイト用語)お願い」などと頼むのが「通」 だと思われたりもした。

 「食に関するインサイダー情報」は、90年代になっても珍重され続けている。
 バブル後には、テレビ番組「料理の鉄人」がこの延長線上で開始され、 それまでは主役にならなかった「料理人」をクローズアップすることで、この傾向に 拍車をかけた。
 しかし「情報消費」という観点から注目されるのは94年頃からの「ワインブーム」だ ろう。

 「ワインブーム」は、情報消費の極端な形態である「ソムリエブーム」を生んだ。
 これは、ワインを享受するために、多くの女性達が「ソムリエ」という「提供者」の 業界用語を学んだ、 ということである。本来ワインを消費者として飲むのに「提供者」の論理は不要なは ずだが、 情報消費社会のなかでは、「味」とは自分の舌が感じるものではなく、「業界情報」 そのものになってしまっていることがここでわかる。彼女達が味わうのはワインの 「味」ではなく、情報なのだ、ということだ。

 さて、「食材」は、そんな「情報を飲食する」人たちのための言葉だったわけである。
 この言葉が普通に使われるようになったのは、食事が「情報を飲食すること」である ということが 誰にとっても当然になってしまったことの証左なのだ。


 ところで、「味わう」ことのためには、ある程度の知識と経験と好奇心が必要なのは 当然だが、 その知識とは本来「インサイダー情報」「業界情報」である必要はないはずだ。
 消費者(享受者)は、消費者の論理でものの善し悪しを考えればよいので、 そこには提供者の価値観や技術論は不要なはずである。
 音楽を聴くとき、一般のリスナーに楽理や演奏法や解釈法の知識が要るだろうか。
 絵を見るとき、顔料の知識や絵画技術の知識が要るだろうか。
 せいぜい、「あるに越したことはないけれど」という程度のはずだ。

 「食」消費の現場で起こった事態は、こんな視点からも異常であることがわかる。
 「食」の観賞のために「提供者の理論や情報」が援用されてしまったのは、「食の観 賞理論の不在」による。
 例えば文学で言えば、欧米では昔から「批評理論」というものがある。
 小説や詩などを享受する側が、享受し評価判断するために作り出されたものだ。
 このような伝統の元に享受者は新しい表現や過去の遺産を味わうことができる。
 食事や酒についても、欧米にはやはり批評の伝統がある。
 しかしこの国では、食べ物を「味わい、評価するための論理」が育っていなかったの が致命的だった。
 急速な消費社会化が訪れた時、人々は溢れる食物をどう評価してよいかわからない。
 そこで、「提供者(インサイダー)の論理」を「享受者の論理」の代用にして消費に あたった、というのが 僕の仮説である。

 日本の食生活の中ではそんな「食の観賞」の伝統などなく、「グルメ文化」がなかっ たも同然の 日本で、新しく発生した「食の消費」にあたって、新たに「食の享受理論」が構築さ れることはなかった、ということだ。そこで、「インサイダー情報」という「提供者 の論理」が替わって消費者を支配・指導することになったわけである。

 だから、「有名店」に行く客は「提供者の論理」の前に卑屈になり、逆に有名店は (ラーメン屋でさえも)「享受者の論理」が不在な客に対して高慢になる。確固とし た「享受者の論理」が確立していないので、消費者たる客は店の言うことの言いなり になり、提供者である店は増長していくということだ。
 要するに日本には食の消費者文化は無いのである。だから「食材」などという「提供 者の言葉」が地位を確立したことは、「消費者の論理」の不妊あるいは死産の決定的 証拠といえよう。

 自分の言葉を奪われ、支配者の言葉を受け入れるのは「植民地人」の運命だが、 本来消費者は支配者であるはずなのに、日本の消費者は、そんな意味で産業に支配さ れる 「植民地人」でしかないのである。

 情けない話を書いているが、実はこんなことは日本ではありふれたことだ。
「自分の言葉」「自分の頭」で考えない日本人の姿を表しているのは、「食材」とい う言葉だけではないのだ。

○経済について語るときなぜか当然のように「グローバル化」などというアメリカの (ことに多国籍企業の)論理で語られる。
○ITについても、日本ではなぜかアメリカ商務省の論理に依拠して語られる。
○日本の防衛について語るとき、なぜかアメリカの世界戦略の論理を前提として語る。
○文化面的な業績が日本で評価されるのは、外国で評価された時である。

 自前の価値観を作らず、判断を他に預けるこんな姿は美味しくもない蘊蓄ラーメン屋 の 不快なオヤジをありがたがる客と変わらない。そして「自分の立場からの論理」を奪 われていると、 こんなこともあたりまえに感じるようになる。

○「日本文学」の研究の中心地は、アメリカになっている。
○コンピュータ用語は、カタカナ語でそのまま語られる。
○金融や経済用語はいつの間にか外国語だらけになっている。
○国内の流通や金融システムの改善を、アメリカ政府に指摘されてはじめて手をつけ る。

そんな国民は、

○企業の利益や官の利益が、国民の利益に優先される。
○薬品や食品、住宅や交通などでは、消費者の安全が企業の利益に優先される。

といったことも平気で受け入れてしまう。

 このことの背景には、一つには、明治以来、日本は外国の論理をそのまま真理として 受け取り、ただその習得に努めてきたという歴史があるかもしれない。「他人の論理」 を絶対視したことのために、 自分の状況を自分の言葉で語ることもできないようになり、何につけ自前の論理を構 築しようという意識を阻喪させたのだ。もう一つの背景は、徳川300年の封建的伝統 が作り出した「お上意識」だろう。
 「官」にすべてをまかせてしまう国民性。このため国民は、「市民の論理」「消費者 の論理」を構築せずに「官」や「企業」の論理に追随し、政治的にも市場的にも自ら を従属的な位置でよしとしてきたのだ。

 自分の言葉が奪われており、そのかわりに他者の言葉を話している自分に気づかない 鈍感さと、 自分の論理を作りだすことを諦めるニヒリズムとが、この国をヘンにしている。

bbs
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