釈尊とその周辺の思想家たち

釈尊とその周辺の思想家たち

                                              國學院大學教授  宮元啓一

沙門・バラモン
 インドでは、古くから先住農耕民族のあいだで伝えられてきた輪廻転生という死生観が、西暦紀元前八世紀頃に、支配民族アーリヤ人を代表するバラモン階級によって受容された。そのさい、アーリヤ人たちがすでに持っていた、因果応報、自業自得という、倫理的にも論理的にもきわめて完成度の高い自己責任思想が、輪廻思想の骨格として組み込まれた。
 西暦紀元前七世紀頃になると、みずからの輪廻的な生存を苦と見、それから永遠に脱却(解脱)し、究極の平安の境地(涅槃、寂静・寂滅、不死)に至ろうと切に願う人々が多数現れ、世俗人とはまったくライフ・スタイルを異にする出家となり、修行方法やそれを裏付ける理論をさまざまに模索するようになった。
 ウッダーラカ・アールニと並んでウパニシャッドの二大哲人と称されるヤージュニャヴァルキヤはこの頃の人であり、固有名詞をもって知られる出家の第一号となっている。
 釈尊が出現したのは、それからほぼ一世紀後のことである。
 釈尊が生まれ育った中インド(ガンジス川中流域)は、その頃、農業技術の著しい発達を基盤として新興の商工業が大いに栄え、本格的な都市が次々と生まれ、そうして蓄えられた莫大な富を背景にして強大な力を持つ新興の国家群がしのぎを削っていた。新興の富裕層や権力者たちは、旧来のバラモン至上主義な社会体制・文化(バラモン教)を邪魔な規制と捉え、それらを軽視ないし無視したりした。
 そうした時代の気風に適合する形で、中インドには、バラモン教をものともしない新しい考えを展開する出家の思想家たちが大量に出現した。彼らは、バラモンの出家たちとは別に、「沙門」(サマナ、シュラマナ)と通称された。そこで、古い仏典では、しばしば出家全体を指す場合、「沙門・バラモン」といういいかたがなされている。
 釈尊が生まれた釈迦族の国は、活発な経済活動の大動脈である北路という大街道の北辺に位置していた。その大街道を、たくさんの交易商に混じって沙門たちも往来していた。少年・青年時代の釈尊は、そうした沙門の姿を日常的に見、その出家生活の目的や理念についてよく耳にしていた。
 釈尊は釈迦族の国の王子であり、物質的には恵まれた生活を送っていたが、早くから人生が無常であり苦に満ちていることを愁えていた。そして、大街道を往来する沙門の姿にみずからのあるべき姿を重ね、ついに二九歳で城を出奔し、沙門となった。

六師外道
 沙門・バラモンは多くの流派に分かれ、独自の見解を唱えた。その一々の詳細はなかなか捉えがたいが、古い仏典では六十二見を数え、古いジャイナ教の文献では三百六十三見を数えている。まさに百花繚乱というべき状態にあった。
 釈尊が活躍し始めたころ、そうした中でも、とくに六人の指導者が有名で、古い仏典で何かにつけて言及される。仏教の側からは、彼らは六師外道と呼ばれる。ごく簡単に紹介すると、以下の通りである。
 プーラナ・カッサパ。ジャイナ教の出家のように全裸の苦行者で、何をしても善悪の業が生ずることも、それらの果報もないと唱えたという。  マッカリ・ゴーサーラ。アージーヴィカ教団(邪命外道)の開祖で、たいへん厳格な生活規律を立てたが、努力や才覚のいかんを問わず、輪廻はしかるべき時が来るまで続き、しかるべき時がきたら輪廻は止み、すべての人は解脱すると唱えたという。
 アジタ・ケーサカンバリン。毛髪を編んだ衣をまとった苦行者で、この世は地水火風の四元素の離合集散で成り立っており、霊魂もなければ来世もなく、したがって善悪の業の果報を受けることもないと唱えたという。
 パクダ・カッチャーヤナ。世界は右の四元素に苦、楽、生命を加えた七要素から成り、それらは互いに独立した不変のもので、何の関係もないから、たとえ人の首を剣で切り落としても、剣がそれらの要素の間を通過するだけの話で、殺す者も殺される者もなく、同様に、聞く者も聞かしめる者もいないと唱えたという。
 サンジャヤ・ベーラッティプッタ。いかなる質問にも捉えどころのない鰻論法で応じ、いかなる見地にも立つことを拒否したという。
 ニガンタ・ナータプッタ。一般には本名ヴァルダマーナで知られるジャイナ教の開祖であり、いかなることについても多面的な推量を重ねて一面的な論断を避けなければならないと唱えたという。

 六師外道の説と仏教との関係
 近現代の学者からは、プーラナ・カッサパは道徳否定論者、マッカリ・ゴーサーラは決定論者、アジタ・ケーサカンバリンは唯物論者といわれる。パクダ・カッチャーヤナも含めて、彼らは、善悪の業とか、それの果報とかを無視、あるいは超越した立場を表明している。
 彼らの説は、一見すると因果応報思想という倫理観を否定する、とんでもなく反常識的な説のように見える。しかし、彼らはみな出家の修行者だったと考えられる。善も悪もないといって無軌道、非道な行状で人々の顰蹙を買ったというわけではない。
 釈尊が開いた仏教は、当然ながら、輪廻からの解脱を目指した。輪廻を成り立たせる直接の原動力は善悪の業である。したがって、仏教も、最終的には善悪の業を超越することを目標とする。
 しかし、釈尊は、聖者の境地に到っていない低い境地の弟子たちに、いきなり善も悪もないなどとは教えなかった。むしろ彼らには、善悪を峻別し、善をなし悪をなすなと強調してやまなかった。
 後に「七仏通戒偈」と呼ばれるようになる次のような有名な詩節がある。
「もろもろの悪をなすことなく(諸悪莫作)
もろもろの善をなし(衆善奉行)
みずからの心を清澄にすること。(自浄其意)
これが諸仏の教えである。(是諸仏教)」
 最初の二行だけ見ると、仏教はたんなる道徳教かと見えるが、肝心なのが第三行目である。善悪をしっかり弁えるのはただそれだけが目的なのではなく、みずからの心を清澄にするのが目的である。心が清澄にならなければ、観察と考察とに徹する禅定という精神集中に支障を来す。禅定が進まなければ智慧も得られない。つまり、右の詩節は、釈尊が巧みな教育方針のもとに確立した戒定慧の三学という修行体系が下敷きになっている。
 初心の修行者に善も悪もないなどと教えては、修行者の心は乱れるばかりである。右の四人の説は仏教と共通はするが、希代の教育者である釈尊のような、巧みな教育的な配慮があるいは欠落していたのかもしれない。
 サンジャヤ・ベーラッティプッタの姿勢は、近現代の学者からは判断中止(エポケー)の思想と呼ばれる。水掛け論議に疲弊したり、臆見にはまりこんで自由を失わないためというのがその趣旨のようである。
 釈尊は、十難無記というように、いわゆる形而上学的な質問に沈黙して答えることがなかったことが、サンジャヤと共通しているといわれることが多い。確かに釈尊は、サンジャヤの姿勢を参照したかもしれないが、みずからの実存を踏まえた透徹した経験論の立場からそれを巧みに換骨奪胎したと考えられる。
 釈尊は、経験的な事実を出発点としない議論への関与を拒否したが、経験的な事実に関わる因果論(縁起説)についてはまことに雄弁きわまりなかった。だからこそ、仏弟子アッサジが、釈尊は因果を説くと語ったのを聞いて、サンジャヤの弟子の筆頭格であるサーリプッタとモッガッラーナが、そして彼らを追ってサンジャヤの徒二百五十人が、サンジャヤを捨てて一斉に釈尊の弟子となったのである。
 ニガンタ・ナータプッタの見解は、近現代の学者からは、不定主義と呼ばれる。仏教では有名な「群盲象を撫でる」の喩え話がそれに当たり、釈尊は言語論的な相対主義の立場を採ったといわれることがあるが、それは誤解である。釈尊は、経験的な事実の周到で徹底的な観察が何より肝要だとはしたが、いかなる断定も下すななどとは一言も語っていない。ニガンタ・ナータプッタは、やはり断然、釈尊と似て非なのである。 

ペンギンに戻る
マニカナホームページへ戻る