倫理的要請としての輪廻

                                                       宮元啓一

旗色の悪い輪廻説
 インドで生まれた輪廻説は、仏教を通じてわが国でも一応は支持されてきた。しかし、明治維新と併行して展開された廃仏毀釈運動や迷信打破運動のなかで、輪廻説は急速に旗色を悪くしていった。
 科学(サイエンス)は、経験から優れた仮説的な法則を導き出す学問であるから、死んだらどうなるかという、経験を超えた領域の問題について、発言することがない。したがって、科学的な死生観などあるはずもないのに、多くの人々は、輪廻説は非科学的な迷信だという。科学的か否かという基準で死生観を論ずるなど、これこそまさに迷信にほかならない。
 しかしそれにしても、輪廻説は人気がなく、そのような迷信を仏教の開祖であるゴータマ・ブッダが信じたはずがない、いや、輪廻説を否定したところにこそ仏教の革新的な独創性があったのだと主張する仏教学者や僧侶や熱心な仏教信者が多いのには、いささか驚かされるところもある。これでは僧侶は仕事がしにくいであろうに。また、輪廻の六道からの一種の抜け道ともいうべき極楽往生も、極楽の存在を、同じような理由で信じない人が多い昨今、とんと人気がなく、浄土教系宗門の僧侶たちにとって悩みの種である。  そうした人々が、ゴータマ・ブッダが輪廻説を否定したはずだとするさいに必ずといってよいほど根拠にするのは、ゴータマ・ブッダは無我説を説いたから、というものである。我(アッタン、アートマン、自己)は輪廻する常住不変の主体とされるから、我がないのであれば、輪廻もありえない、と彼らは考える。
 ゴータマ・ブッダが説いたのは無我説ではなく非我説(心身のどの要素も常住不変の自己ではないとする説)だということは、故中村元博士が強く主張したところでもあるが、最近ではわたくしが拙著『ブッダが考えたこと----これが最初の仏教だ』(春秋社、二〇〇四年)で力説したし、またわたくしの畏友、石飛道子氏がその著『ブッダの論理学』(講談社、二〇〇五年)で論理的に明快に論断したところでもある。

因果論は仏教の根幹
 さて、では仏教の根本思想は何かという問いにたいして、多くの人々は縁起説を挙げる。そして、この世の存在はみな縁起的な存在であるから無常であり、また、常一主宰の本体がないから空であり、したがって無数の関係(相依)の束であると理解する。そして、われわれはこのように、単独で生きているのではなく、生かされて生きているのであるから、あらゆるものごとや他者に感謝の念を持たなければならないというように、仏教の心は感謝の心であるというふうな説教へと話を運んでいく。
 感謝の心も結構だし、仏教の根本思想は縁起説であるとするのも間違ってはいない。しかし、縁起説のそうした解釈は、本来のものではない。  本来の解釈では、縁起説というのは、われわれの輪廻的な生存である実存および実存苦は、無明(あるいは癡、渇愛)を起点とする因果関係の鎖の果てにあるものである、そして、無明を滅ぼせば、この輪廻的な実存苦も滅び、それに成功した人は解脱を達成し、究極の平安(涅槃、寂静・寂滅、不死)に至る、とするものである。
 この長い因果関係の鎖を要所だけ押さえたものが十二因縁(十二支縁起)であり、きわめて簡潔に起点と終点とを示して実践修行の道としてまとめて説かれたのが四聖諦説にほかならない。つまり、縁起説というのは、われわれの実存をめぐる因果論なのである。この因果論は、もちろんながら、輪廻説との関わりでは、因果応報、自業自得の原則としっかりと結びついて展開される。

倫理への動機づけとしての因果
 人間は倫理的な動物である。人間の思考がなぜ倫理的に出来ているのかその根拠は分からない。それは、人間が論理的な動物であり、しかも人間の思考が論理的である根拠は分からないというのと同じである。  人間から倫理を抜き去ってしまえば、ただ本能に従うだけの動物にすぎない。人間は、本能から発する欲望に身を委ねるだけでなく、善悪を弁え、ゴータマ・ブッダやソクラテスのように、「善く生きよう」とする。(善く生きられないために生まれる葛藤から、善く生きようとすることを断念することもあるが。)
 こうして人間は、善悪を弁え、善く生きよう、倫理的に正しく生きようとして倫理的な行為に立ち向かうわけであるが、それに要請される条件は自由であり、そして、それに要請される動機づけは因果についての確信である。いいかえれば、それは、善いことをすれば好ましい結果が得られ、悪いことをすれば好ましくない結果が得られる、ということについての確信である。  行為とその結果の因果関係に確信を持つということは、責任意識をはっきりと持つということである。因果関係への確信と責任意識とは、切っても切れない関係にあるといえる。因果に疑惑を抱いたり、因果が成り立たないと感じたとき、人は無責任な行為に走る。これをインド哲学、仏教の用語でいい表せば、「因果応報」「自業自得」という原則への確信ということになる。「因果応報」「自業自得」というと、何か抹香臭い感じがしないでもないが、じつは、これは、洋の東西、時代の新古を問わない、倫理の動機づけを成す普遍的な原則だといえる。
 インド哲学、仏教の場合、輪廻説は、因果応報、自業自得という原則をその骨格部位に組み込んでいる。したがって、われわれは、輪廻説を仏教から排斥しようとすると、同時に、因果論を仏教から排斥することになる。ところが先にも見たように、因果論は仏教の根本思想にほかならない。これは危険なことである。
 さらに、因果を認めるということは、因果応報、自業自得の原則を認めることであるから、倫理的な行為を為す主体とその行為の結果を享受する主体とは同一にして不変でなければならない。この主体こそが自己(アッタン、アートマン、我)である。  したがって、輪廻説を認めない人々が、その根拠に(ゴータマ・ブッダが説かなかった)無我説を持ってくるのは、当然の成り行きといえる。すると、輪廻説を認めない人々は、倫理的な主体を認めないのであるから、必然的に因果論を認めないことになる。ここまで来ると、そういう人々が構想する仏教は、人を倫理的な方向に導くという重要な視点をまったく欠くものであることになる。
 ニーチェは、キリスト教道徳を否定するために、「神は死んだ」と宣言したが、その神とは因果にほかならかった。ニーチェは、すべての倫理を否定し、人間は本能に忠実に従って生きるのが幸せだといったことになる。近年、わが国では、本能的な衝動に駆られた理不尽きわまりない残虐な事件が頻発しているが、草葉の陰で、さぞかしニーチェがほくそ笑んでいることであろう。

倫理は生を超える
 倫理は、人に、未来を視野に置いて、為すべきことは何かを考えさせる。  因果応報というと、それぞれの人の今の境涯を、過去の因によって、いわゆる宿命論的に決定づけ、支配者、社会的強者による弱者への差別を固定化することに用いられることが、わが国の歴史にもあった。しかし、倫理への動機づけであるはずの因果論は、過去の行いが現在を規定するという場面で用いられるのはやはり誤りで、現在のわが実存が、自由に未来をみずからの力によって切り開くという文脈で用いられるのが本来である。
 倫理の視野は常に未来にあるから、したがって、倫理はわれわれの短いこの世での人生だけでは完結しない。倫理は、生を超え、死の向こう側をも志向し、ゆえに死生観に深く関わる。世界で数ある死生観のうち、輪廻説は、倫理的、論理的にきわめて多様で緻密に出来ている。一部の仏教学者や僧侶たちが主張したがるように、現代の仏教においてパラダイムの転換が必要だというならば、それは、輪廻説という枠を否定することではなく、輪廻説の枠の内をいかに巧みに解釈改変をするかに腐心することである。知性のある人ならば、汚れた盥の水といっしょに赤子を流すような愚を犯してはならない。
みやもと・けいいち▼國學院大學教授

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