インド哲学の魅力

                                                       宮元啓一


インド哲学は哲学である
 哲学というのは、わたくしが考えるところでは、直接何かの役に立てるためにではなく、ひたすら知りたいがゆえに知ろうとする、純粋に知的な営みのことをいう。そして、その知的な営みをまっとうに遂行するためには、自他が用いる論理にたいする自覚的な反省がしっかりしていなければならない。論理にたいする自覚的反省が体系化されたものが論理学である。論理学の裏打ちなしに、哲学は成り立ちえない。
 昔、論理学を独力で生みだした民族は、ギリシア人とインド人だけであった。したがって、古く、哲学は、ギリシア哲学とインド哲学だけがあった。
 「哲学」とよく似た語に「思想」というものがある。「思想」は、英語でいえば”thought”、つまり「考えられたものごと」である。「人間は考える葦である」というパスカルのことばのとおり、人間はものごとを考える。したがって、熊さんでも八つぁんでも、ものごころのついたどんな子供にも、思想はある。そういう意味で日本思想というものはあるが、明治になるまで、日本に論理学は育たなかったため、日本哲学というものはなかった。日本人の哲学者が活躍するようになったのは、ごく最近になってのことである。
 インド哲学というと、世間の人は、「深遠な」とか「神秘的な」という形容詞をつけたがる。「深遠」というのはともかくとして、たしかにインド哲学には、神秘主義哲学というものがある。しかし、インド哲学の大半は、合理主義哲学なのであり、しかも、インドの神秘主義哲学というのも、ほとんどは、世間の人の想像をはるかに超えて、おそろしいほど厳密に論理的なのである。
 宣伝になるけれども、そのあたりのことを少し知りたいと思われる方は、拙著『インド哲学七つの難問』と、わたくしとわたくしの研究上の相方である石飛道子さんとの共著『ビックリ! インド人の頭の中----超論理的思考を読む』(どちらも講談社刊)を手にとっていただくとよい。インド哲学の魅力満載(のつもり、のはず)である。

自己は知られえない
 紀元前八〜七世紀の、ヤージュニャヴァルキヤというインド人哲学者は、自己の探求者として有名である。かれは、自己は、自分という意識を一貫して支える不動の根拠であり、たえず変化してやまない心(人格)や身体とはまったく別のものであり、頼りにならない心や身体を不動の自己と錯覚するところから、人間は、迷い、苦しむという。
 近年、日本では心理学がえらく流行していている。そして、「自分探し」「自己実現」などということばが、雑誌やテレビなどであふれかえっている。それだけ不安な時代にわたくしたちが生きているということなのだろうが、いくら探しても自己とか本当の自分などわかるものではない。やっとのことでであれわかるのは、せいぜい「自分の」心とか「自分の」性格とかだけである。
 古今東西を問わず、自己は認識の主体であるという考えは、あまり疑問の余地のないものとされてきた。そうなのであれば、自己はけっして知られえないのである。なぜなら、認識の主体は認識の対象たりえないからである。これは、ヤージュニャヴァルキヤが導き出した、重要な哲学的な結論である。もしかりに自己が認識されたとしたら、認識している主体はどこにあるのだろう。認識の主体は自己である。したがって、自己は、どこまで追いかけていっても、たえず手のなかからすり抜けてしまうのである。
 自己は知られえない。むしろ知られえないということが、自己にとって本質的なことなのである。と、このことをはっきりと見てとることができれば、わたくしたちは、認識できる心や身体から距離を置き、それらの本質である変化に翻弄されることがなくなる。こうして、わたくしたちは、自己の対極にある世界のすべてを、冷静に見つめる目をもつにいたる。そして迷いと苦しみから離れるのである。

インド哲学は人生である
 右の自己についての議論からもわかるように、インド哲学は、おそろしいほど論理的で知的な営みであるけれども、けっしてそれだけに終始するのではなく、「よく生きる」ことを目指すのである。インド哲学は、知性(理性)の無限の発露であり、きわめて厳密な論理学と併走するものであるけれども、それは同時に、人の生きるべき道を示す倫理である。つまり、インドでは、哲学は、たいへんレベルの高い幸福への道なのである。
 ギリシア哲学も、このような意味でインド哲学と共通するところが多い。しかし、ギリシア哲学から発展した西洋哲学、そして哲学に支えられて発展した科学思想では、理性(知性)と人生とが、だんだんと関係のないものへと変化してきた。合理的理性が、かえって人びとを不幸にするという、奇妙な事態が生まれているのである。
 そこで、新しい時代の新しい哲学が必要だとしきりに叫ばれるようになった。しかしどうであろう、新しい哲学のヒントは、案外、古くさそうに見えるインド哲学のなかにたくさん潜んでいるといえないだろうか。
(國學院大學教授、インド哲学)

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