寛容の精神についての雑感

寛容の精神についての雑感

                                                    宮元啓一(哲学科教員)

 「哲学」(philosophy)ということばと「思想」(thought)ということばとは、区別されずに使われることが多い。そのことにあまり目くじらを立てるつもりはないけれども、わたくしは、「哲学」というのは文化から独立しているもの、「思想」は文化の枠の中にあるものという区別をしている。哲学者も、哲学を意識しているときには哲学を語るが、日常生活の中では思想 を語るものである。
 それはともかくとして、思想が文化の枠から逃れられないものであるというのは、なかなか厄介なことである。文化は、地域や民族の伝統的な思考法・慣習、とりわけ生命感の基盤となる宗教(感覚)と不可分離の関係にあるから、まことに強固なものである。

   *

 日本人のかなり多くは、「自分には宗教がない」と思っているようであるが、それは、特定の形ある宗教組織に帰属しているという意識が希薄なだけで、宗教「感覚」がないわけではない。明治以来、欧米のキリスト教団体が莫大な資金と余りある優秀な人材を日本に投入してきたにもかかわらず、クリスチャンが日本の人口に占める比率は、明治の末あたりから今日まで、ほとんど変わらず低迷したままである。これは、ほとんどの日本人が、キリスト教に同化されないほどの、目には見えづらいけれどもきわめて強固な宗教感覚を持っていることの証拠といえよう。
 それでも、日本には「郷に入っては郷に従え」という格言があり、多くの日本人はその格言に則って行動している。最も本質的なところを変えるわけではないが、日本人は、最も本質的ではない部分については、状況に応じてころころ変える。
 お釈迦様の誕生日を知る人は少ないが、イエスの誕生日には国民的行事のように大騒ぎする。初詣には神社と仏閣の区別をつけず、クリスチャンでもないのに教会で結婚式を挙げ、針供養や人形供養などを微笑ましく思い、死んだらお坊さんを呼ぶ。そうそう、キリスト教の聖者(セント・バレンタイン)の記念日にはチョコレートが飛び交う。日本人が文化に関して融通無碍、あるいはいい加減だといわれるゆえんである。

   *

 外国の場合はいざ知らず、そういうこともあって、日本の宗教学者の多くは、(宗教)文化は相対的であるとか、(宗教)文化は多元的であるとかと主張し、それをもって異(宗教)文化間の対話と理解を促進しようとしている。(宗教)文化についての寛容の精神など、水や空気のように簡単に手にはいると思っている節がある。
 ところが、現実はそれほど甘くはない。北アイルランド紛争は、いまだに最終的な解決を見ていない。パレスチナ問題はリバンウンドを繰り返して、今はのっぴきならないところにまできている。スンニー派とシーア派は、ことあるごとに流血の対立を続けてきた。筋金入りのシオニストや、ハマスの幹部や、アルカイダの面々に向かって、(宗教)文化は相対的である、多元的であると説いても、彼らは決して聞く耳を持たないであろう。

   *

 考えて見れば、民主主義というものも、(宗教)文化の一つに他ならないのかもしれない。アメリカが、露骨なダブル・スタンダード政策を駆使しながら、強引に世界中を民主化しようとしても、世界はアメリカの思う通りにはちっとも動かない。
 民主主義も文化だと考えると、合点のいくことがある。それは、同じ民主主義といっても、アメリカの民主主義とイギリスの民主主義とフランスの民主主義と日本の民主主義と韓国の民主主義と……では、かなりの相違がある。朝鮮半島の北部を治めている国も、国名のなかに「民主主義」の文字が入っている。

   *

 寛容(torerance)の精神はとても大切なものであるとわたくしは考えている。しかし、それは、(宗教)文化の前にあっては、常に風前の灯火のような危うさ、はかなさを露呈することも確かである。
 文化相対主義に立つ学者は、文化人類学の影響下にあるため、自文化を相対化せよという傾向にある。しかし、自文化を慈しまない人が、他文化を尊重することができるであろうか。自文化を相対化せよと主張する学者たちは、わたくし思うに、それでなくとも危うくはかない寛容の精神を、搦め手から蝕む働きをしているのではないか。
 わが國學院大學校歌には、「外つ国々の長きを採りて、我が短きを補う」という文言がある。この文言の精神は、明治維新を実現し、数々の悲惨な結果を伴いながらも、この小国日本を世界の経済大国へと押し上げる推進力となったものである。
 しかし、浅学なわたくしであるが、世界を打ち眺めて見るに、このような精神を持ち得た民族・国民は、日本人を除いてまったくないのではと思える。  日本人であるわたくしたちが持ち得る寛容の精神の基盤は、そのような精神にある。日本人は、この点で、比較的(絶対的ではないが)うまくやってきたように思う。それが世界では必ずしも常識でない点が、何とも悩ましい。いつのまにか老境に近づいたわたくしなど、非力もよいところであるが、若い人々には、寛容の精神をいかに力強く世界の中で展開していくかを、しっかりと考えていただきたいと願うばかりである。

戻る