極楽はどのようにして生まれたか

極楽はどのようにして生まれたか

                                              國學院大學教授  宮元啓一

真実のことばは世界を創る
 インドでは古く、ヴェーダ聖典のことば(ブラフマン〔梵〕=マントラ〔真言、呪〕)は世界を創る絶大な力があるとされた。そしてそれは、ヴェーダ聖典のことばが、けっして嘘偽りのない真実のことば(サッティヤ)だからとされた。
 真実のことばが世界を創る、というと、そうした考えはただの言霊信仰で、つまらない迷信だという人がときとしているが、案外、人類にとって普遍的な考えなのである。
 たとえば、キリスト教の「ヨハネによる福音書」の冒頭は、「はじめにことば(ロゴス)ありき」で、神が「光あれ」といったら光が生まれたとある。イザナギとイザナミによる日本創造神話でも、両者が創造以前に交わすことばが正しいものとなってはじめてまっとうな世界が生まれたとされる。  神話だけではない。哲学でも、たとえば古代ギリシアの哲学者プラトンは、世界はイデア(観念=ことば)より成っているとした。また、二〇世紀の哲学者ウィトゲンシュタインは、世界は論理(=ことば)空間であると規定した。
 インドの一元論哲学でも、世界がそこから流出しまたそこへと帰っていくところの宇宙の根本原理ブラフマンは、「物」ではなく(ほとんどの人はそう誤解しているが)、あくまでも「真実のことば」なのである。だからこそ、インドでもっとも有名な哲学者シャンカラが開いた不二一元論学派では、「ブラフマンはサッティヤである」という文句がもっとも重要なスローガンとなっている。
 仏教でも、紀元前四〜三世紀にかけて大量に作成されたジャータカ(本生話)文献では、どんなにささいな誓いであろうと、それを何が何でも守りとおして真実のことばにすると、その真実のことばの力によって、いかなる大願をも成就することができるということが強調されている。  そのころできた仏教の伝承によれば、かの有名なアショーカ王が、雨季で満々と水を湛えて流れている大ガンジス河を前にして、「誰かこの大ガンジス河を逆流させることのできる者はいないか」と冗談を口にしたところ、やがて大ガンジス河が轟々と音を立てて逆流した。驚いたアショーカ王が探索したところ、河を逆流させたのは低級な一人の娼婦であった。その娼婦は、しかるべき料金を払ってくれさえすれば身分の貴賤を問わずに平等に奉仕するという誓いを立て、それを今まで守り抜いてきた、その真実となった誓いのことばの力により、大ガンジス河を逆流させた、というのである。  大乗仏教の目玉商品ともなっていった菩薩行の中心は波羅蜜(多)という行である。これは、しかるべき徳目を立て、それを守ると誓い、それをいかなる困難があっても守り抜いて真実のことばにし、その真実のことばの力によって自利(仏となる)と利他(衆生救済)とを成就しようとするものである。これは、戒定慧の三学により涅槃を目指す、旧来の出家の修行とはまったく異なる理念に立つということである。このことは、『般若心経』に簡潔明瞭に説かれている。(最近の拙著『般若心経とは何か』春秋社を参照されたい。)


法蔵比丘が極楽を建立した根拠
 古い大乗経典である『大無量寿経』によると、過去二十五仏説では初仏とされる燃灯仏よりもはるか以前に、世自在王如来という仏がいて、そのもとで法蔵という名の比丘(菩薩とも通称される)がいて、無数の仏国土にある荘厳のすぐれたもののすべてを具えた仏国土を建立しようと決意した。  そして、じつに五劫の長きにわたって思惟し抜いたすえに、わが願いがかなうまではあえて仏にはならないという趣旨の四十八(サンスクリット本では四十九)の誓願を立てた。
 その壮大な誓願をみごとに成就するにいたるまで、法蔵比丘が実行したことは、おおよそつぎのごとくである。
 まずみずからの誓願を公表し、菩薩行に邁進する。愛欲・悪意・害意をまったく持たず、認識の対象に執著せず、柔和・寛容・好運・和顔愛語に徹し、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)の六波羅蜜のすべてをみずから行じつくし、人にもそれを勧奨した。
 法蔵比丘は、こうした考えられるかぎりの菩薩行を徹底的に行じつくした。そうすることが、じつは、壮大な四十八の誓願を守り抜き、その誓願のことばを真実にすることにほかならなかった。
 法蔵比丘は、想像を絶する艱難辛苦のすえ、ついにすべての誓願を真実のものとすることに成功した。この真実となった誓願のことばの力により、法蔵比丘は、阿弥陀仏となって自利を成就し、娑婆世界で苦しむ衆生を迎え入れて救済する極楽世界を建立して利他を成就したのである。
 阿弥陀仏となり、極楽世界を建立した時点から振り返ったとき、阿弥陀仏の前身である法蔵比丘の四十八願は本願といわれる。「本願の力」とか「本願他力」とかいうときのその「力」とは、万難を乗り越えて守り抜かれて誓いのことばが真実となった、その真実のことばの力ということである。  あくまでも信じないという人には何をいっても仕方のないことだが、守り抜くことが困難なものであればあるほどその誓いを守り抜く価値があると考える人は、真実のことばがいかなる大願をも成就する力を持つものだということを信ずる人である。
 短い人生を最大限に有意義な人生にしようと切に願う人は、自分のことばに責任を持ち、誓いや約束を懸命に守り抜こうとするであろう。たとえそれが不可能事であっても、そして法然上人のようにおのれを愚者と規定したとしても、ともあれ切に願う心が少しでもある人にとって、極楽世界はその人の人生の延長線上に確かにあるといえるであろう。

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