インド人の超論理思考

インド人の超論理思考

                                                       宮元啓一

 みずからが用いる論理への自覚的反省をメタ論理とするならば、メタ論理を体系化したものが論理学である。古い時代に論理学を確立したのは、ギリシア人とインド人だけである。哲学は論理学と併走してこそ哲学たりうる。その意味で、古い時代に哲学を生み出した民族は、やはりギリシア人とインド人だけである。
 近代以降における西洋と東洋との力の格差のために、今日ほとんどの人は哲学といえばギリシア哲学を源とする西洋哲学だけしか思い浮かべない。インド哲学は、西洋哲学に優るとも劣らない問題領域の広がりと、西洋哲学とは往々にして趣を異にする思索の深さと巧みさとをもっている。
 インドでは、西洋とちがい、信仰の道と知性(理性)の道とが対立したり矛盾したりということがなかった。知性は信仰のチェックを受けることなく、みずからの論理の命ずるところに従って、どこまでも自由に飛翔した。それこそが、西洋哲学ではまったく見られないという意味では独特ではありつつも、高度の普遍性をもつ、超絶的な論理を駆使する哲学的思索が展開される土壌を形成したのである。
 インド哲学にはさまざまな潮流があるが、どの潮流にもほぼ共通している考えとして、たとえば、理由の詳細を示すいとまは今はないが、自己(アートマン、本当の自分、自我)は心身とは無関係だというものがある。心身は、それをとりまく環境と合わせて、自己によって認識される対象として存在していると考えられる。自己は、世界を認識する主体である。認識主体であるということから、自己はけっして認識されることがない。かりに認識されたとしても、それはもはや認識対象であって、認識主体は背後にするりと回り込んでしまっている。自己は認識されない、いや、けっして認識されないことこそが、論理的にいって自己の本質なのである。
 これがインド哲学諸潮流の共通見解であるが、これを最初に明快に説いたのは、紀元前8〜7世紀のヤージュニャヴァルキヤという人物である。西洋哲学では、いまだに自己問題は、自己は心であろうか身体であろうかという議論の枠からほとんど出ていない。インド哲学は、こうした領域において、発想の転換をもたらすよい契機でありうる。
 インド哲学は、きわめて論理的なのであるが、それを補強するもうひとつの特徴として、西洋哲学に較べて、公理系志向がおしなべて強烈だということが挙げられる。これは、サンスクリット語の文法学に由来する。インドの文法学は、紀元前4世紀に、天才学者パーニニによって完成されたが、それは、最初に使用する記号と操作規則とを提示し、ただそれのみによって演繹的に文法体系を構築するものであった。パーニニの文法学は、世界最初の公理系だったのである。
 伝統的インドでは、古来、文法学の学習は、知識人の必須科目であった。インド哲学は、このため、ますます論理力を強化した。ゼロを用いた十進法による表記法と使用数字、そしてゼロが関わる演算上の規則を立てたのはインド人である。インド哲学を背景に、インドの数学者たちは、西洋人が恐れた無理数もものともせず、高度の代数学を発展させた。近年、発展途上国であるにもかかわらずインドが世界のソフトウェア産業で驚異の躍進を遂げている理由も、こう考えると納得がいくのではないだろうか。
(國學院大學教授、インド哲学)

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