一、はじめに わが国でもっともよく知られているインド人の一人であるガーンディー(モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー)は、一八六九年、西インドはグジャラート州の小藩王国ポールバンダルに生まれた。父はその大臣であった。ガーンディーはイギリスに留学して弁護士の資格を取り、帰国後南アフリカに渡り、厳しい人種差別政策にあえぐインド人年季契約労働者たちの権利を擁護する闘争を展開した。そのときにかれは、有名な非暴力・不服従をその手段とするサッティヤーグラハ運動なるものを展開し、大きな成果を収めた。 その後かれは、インド本土のビハール州における藍生産の小作争議、グジャラート州はアフマダーバードにおける紡績工場のストライキを指導してさらに名を高め、ついには、反英独立運動の中核を担うインド国民会議派の指導者に迎えられた。インド独立闘争はさまざまな曲折を経たのち、一九四七年、インドとパキスタンとの分離独立という、ガーンディーが望まなかったかたちで結実した。それでもなおヒンドゥー教徒とイスラーム教徒との宥和を説いてやまなかったかれは、一九四八年、ヒンドゥー教右翼団体に属する青年の凶弾に倒れ、波乱の生涯の幕を閉じた。 かれは、マハートマー(偉大な魂の持ち主)という尊称で呼ばれ、また、バープー(お父さん)と愛称され、今日も、インド独立運動の父として崇められている。 さて、非暴力・不服従をその手段とするサッティヤーグラハ運動は、世界中に影響を及ぼした。とくに、一九六〇年代、アメリカ合衆国で、アフリカ系アメリカ人の地位向上を目指す公民権運動を指導したキング牧師が、非暴力を闘争手段として高く掲げたことはよく知られているところである。 しかし、では「サッティヤーグラハ」という、サンスクリット語に由来するインドのことばは、いったい何を意味しているのであろうか。じつは、ガーンディーは、このことばを「魂の力」など、いろいろないいかたで説明しているが、たとえば英語などで直接の訳語を与えることがなかった。 わたくしの知るかぎり、現在のインド人ですら、「サッティヤーグラハ」の意味を問われて、即座に答えられる人はいない。ましてや、外国人であるわれわれにとって、そのことばの感触は、にわかにはつかみがたい。そのため、ガーンディーの自叙伝の和訳(蝋山芳郎訳『ガンジー自叙伝』〔「世界の名著」63中央公論社、一九六七年〕以下『自叙伝』と略す)においても、別の著作(田中敏雄訳『真の独立への道』〔岩波文庫、二〇〇一年〕以下『独立』と略す)においても、このことばに和訳は施されていない。ときとして「真理の把捉」などと訳されることもあるが、それだけでは何のことかわからない。 あとで詳しく触れるが、ガーンディーは、きわめて禁欲的な、出家修行者のような生活を送った。ガーンディー自身のことばによれば、かれにとって、政治の目的と宗教の目的とは同じであった。そのため、かれはしばしば「聖者」と呼ばれてきたし、また、わたくしも、結論的にいえば、そう呼ばれる根拠はたしかにあると考える。そして、そうした理解の鍵になる概念こそ、まさに「サッティヤーグラハ」なのである。 本稿の目的は、「サッティヤーグラハ」(「サッティヤ」と「アーグラハ」の複合語)、とりわけ「サッティヤ」のほんとうの意味を探り、その上で、改めて「聖者」ガーンディーが目指したものが何であったかを明らかにすることにある。そこでまず、インドの伝統的思考のなかで、「サッティヤ」とはどのようなものと捉えられてきたかを探り、つぎに、それがものごとの実践とどのような関わりをもたされてきたかを見、そのあとで、ガーンディー自身が残したことばを検証していく、という手順を踏むことにする。 なお、本稿では、ガーンディーが指導したサッティヤーグラハ運動の歴史的意義について触れることはない。それは歴史学者の仕事である。わたくしがここで解明したいのは、ガーンディーが何を考えていたのか、ただそれだけである。 二、真実のことばは世界を創る さて、わが国には、古くことばに霊的な力があると考える言霊思想というものがあった。それはいつか完全に消えてなくなったというわけではなく、今日でも忌みことばを認めるというかたちで、細々とながら息づいている。たとえば、結婚式の場で、「別れる」とか「切れる」とかということばは禁物だとされる。またたとえば、受験生を前にして「落ちる」とか「滑る」とかということばを発すると、縁起でもないことをいうなと叱責されたりする。これは、「落ちる」などのことばが、その受験生が受験に失敗するという事態を生み出す力をもっていると信じられているからにほかならない。いいかえれば、「落ちる」などのことばは、受験生が受験に失敗するという事態を含む「世界」を創るということである。 このように、ことばが世界を創るという感覚を、われわれ日本人はわずかながらもっている。ところが、インド人は、古くから今日にいたるまで、この感覚を、日本人とは比べものにならないほど強烈にいだきつづけてきたのである。 現在のヨーロッパの主要民族と遠い祖先を同じくする、アーリヤと自称する民族が、紀元前一五世紀以降、中央アジアからインド亜大陸にもちこんだ宗教では、永遠不滅の聖典とされるヴェーダ聖典のことばは「ブラフマン」であるといわれる。「ブラフマン」というのは、「拡大する」「膨張する」を原義とする動詞語根「ブリフ」からの派生語で、拡大するもの、膨張するもの、あるいはそうした拡大・膨張の源となる力を意味する。ブラフマンであるヴェーダ聖典のことばは、拡大・膨張し、世界をそのことばどおりに創る力をもっていると考えられたのである。そして、こうしたものは、別に、「サッティヤ」であるともいわれる。 「サッティヤ」ということばは、多くの場合「真実」と訳されているが、より正確には、「かならずそのとおりにものごとを実現する力をもつもの」のことである。そして、「サッティヤ」という語は、ほとんどの場合、「ことば」あるいはことばに関連の深い語、たとえば「約束」「誓い」などと連合して用いられる。したがって、よりくわしくいえば、「サッティヤ」とは、「かならずその約束や誓いのことばどおりに、あるいはその約束や誓いの意図どおりに、ものごとを実現する力をもつもの」ということになる。 三、真実、戒、誓戒 さて、インドでは、宗教的な徳目を実践していくという場面で、真実(サッティヤ)と深いかかわりをもつものが二つある。それは、戒と誓戒とである。戒は仏教で、そして誓戒はジャイナ教で、特別に重要な扱いを受けた。仏教もジャイナ教も、紀元前六〜五世紀に、ほぼ同じ地域に登場した有力な宗教で、のちのインド思想に大きな影響を与えた。 仏教では、仏教徒であることの最低条件のひとつとして、五戒を守ることがあげられる。この、なんともいかめしく見える「戒」という漢訳語の原語は「シーラ」というが、これは何のことはない、「心がけ」のことである。 その五戒とは、不殺生(生きものを殺傷しない)戒、不偸盗(盗まない)戒、不邪婬(不倫をしない)戒、不妄語(うそをつかない)戒、不飲酒(酒を飲まない)戒の五つである。そして、たとえば不殺生戒でいえば、生きものを殺傷しないとみずからが立てた誓いのことばにけっしてたがわないように心がけるというのがその趣旨である。 こういうわけであるから、じつは、不殺生戒などを貫くものこそ真実(サッティヤ)なのであり、その真実の力によって仏教徒はみずからをより高めることができるというしだいである。 ただし、仏教の戒であるシーラは、心がけ、あるいは心がけによって得られた善良な心的傾向のことであるから、在俗信者はかならずしも絶対にそれらを守らなければならないわけではないとされる。漁師などはもちろんのこと、農業に従事する人も、耕作するさいに土中の虫を殺傷することは避けられないから、不殺生戒を完全に守ることは不可能である。したがって、そういう人たちにとって、不殺生戒とは、なるべく無益な殺生はしないように心がけようという水準でよいということになる。 一方、ジャイナ教では、不殺生をはじめとする、仏教の五戒によく似た五誓戒というものを立てる。ところが、仏教の戒とは対照的に、ジャイナ教の誓戒(ヴラタ、誓い)は完璧であることが要求される。したがって、ジャイナ教徒は、不殺生の誓いのことばを完璧なものにするため、殺生をはたらく恐れのある職業を徹底的に避ける。漁業や農業のみならず、長距離を移動することで蟻などを踏みつぶす可能性が大きい交易商もだめである。そこで、ジャイナ教徒たちのほとんどは、小売商と金融業に集中することになった。宗教が信者の職業をこれほど強く制約した例は、世界でもまれである。 このように、真実(サッティヤ)は、仏教の場合、個々の徳目と心がけ(戒)とをゆるく媒介するものにすぎないのにたいし、ジャイナ教の場合には、誓戒と不離一体の関係にあるとされる。つまり、誓戒は、完全に守られ真実とならなければ、何の力も生まないとされるのである。 さて、古いヴェーダの宗教は、仏教やジャイナ教などの新しい宗教に信者を大量に奪われた。ヴェーダの宗教を直接に支え、社会の最上階級に君臨してきたバラモンたちは、この危機に対処するため、それまで野蛮人扱いしていた多大な数の先住民族をみずからの社会の正式の構成員に取り込もうとした。その結果、先住民族の宗教をヴェーダの宗教と合体させた新しい民衆宗教が誕生した。これをヒンドゥー教という。 バラモンたちは、新しいヒンドゥー教社会の頂点にいるための新しい根拠として、最高の浄性(清らかさ)をみずからのものにしようとした。そのため、かれらは、以前は行っていた動物を犠牲としてささげる祭式をやめ、また以前は行っていた肉食をやめて厳格な菜食主義者へと転じ、図々しくも、自分たちだけが完全な不殺生の掟を守ってきたのだと宣言した。 さてそこで、バラモンたちは、不殺生など、仏教やジャイナ教で重視される徳目をみずからのものとするに当たって、仏教的な戒(心がけ)ではなく、ジャイナ教的な誓戒を採用した。これは、真実(サッティヤ)となった誓戒こそがあらゆる願望を実現するとする、古来のヴェーダの宗教でも行われていた信念によく合致するからでもあった。 このようにして、サッティヤと不離一体の関係にある誓戒を大いに重視する考え方が、ヒンドゥー教に深く根を下ろすようになった。 そして、ヒンドゥー教が高らかに唱える最高神による絶対的な救済という思想に影響を受けて、紀元前後にそれまでの伝統から離れて形成された大乗仏教という民衆宗教は、それ以外にも、ヒンドゥー教から、サッティヤと不離一体の関係にある誓戒を取り入れ、大乗仏教の目玉商品ともいうべき菩薩の行を支える理念の中核にそれを据えたのである。その内容についてはつぎの節でややくわしく述べることにするが、これまで仏教学者は、残念ながら仏教の内部にしか関心をもたず、この点に目を向けることがまったくなかった。 四、菩薩の波羅蜜と誓願 もともと菩薩(ボーディサットヴァ、「覚りを目指す人」の意らしい)というのは、三五歳で覚った人ブッダ(仏)になる以前の釈迦だけを指した。そして、釈迦がブッダになったことがいかにすばらしいことであるかが強調されていくにつれ、神話的な伝説が形成されるようになった。すなわち、釈迦があのときにブッダとなったのは、「たった」六年間の修行によるのではなく、じつは、かれが無数の前世において、命がけでさまざまな徳目を守り通してきたことの結果だということになった。 その、なにがしかの徳目を「何が何でも守り通すこと」を波羅蜜(パーラミター)という。この語の語源的な意味については議論の余地がまだまだあるが、その機能面からいえば、「何が何でも守り通すこと」以外ではありえない。 察しのよい読者ならば、もう明白に見えてくるであろう。波羅蜜というのは、ジャイナ教やヒンドゥー教でいわれる誓戒の仏教版にほかならないのである。守り通した誓戒である波羅蜜は真実(サッティヤ)なのであり、そのサッティヤの力によってこそ、釈迦はブッダになるという大願を成就したという話になるのである。 これをいいかえると、釈迦がブッダとなって輪廻から最終的に解脱し、安楽な、涅槃といわれる絶対的な境地にいたったのは、瞑想(禅定)によって智慧を得、その智慧によって根本的生存欲(渇愛、無明)を滅ぼしたからではなく、サッティヤの力によるのだということになる。つまり、菩薩行という概念は、古来の仏教における修行理念とはまったく異なる次元に立つのである。。 そして、大乗仏教が成立するにいたって、「菩薩」という語は、誓戒を立てて波羅蜜に専念する人すべてを指すようになる。ここに、救済思想が全面的に付け加えられ、菩薩は、無限の慈悲心に動機づけられて波羅蜜に専念することによって、ブッダになるという自利も、万民の苦しみを除くという利他のための救済力も、ともに手に入れるのだという、大乗仏教的な修行の理念が完成された。 有名な『般若心経』(正確には「この世はすべて空だという智慧を何が何でも守り通すことの真髄を説いた経典」の意)によれば、あの有名な観音菩薩は、波羅蜜を真実(サッティヤ)にしたことにより、絶大な民衆救済力を得たとある。 なお、菩薩の行は、波羅蜜だけではなかった。波羅蜜よりももっとじかに誓いのことばの真実に依拠する菩薩の行として考案されたのが、「誓願」(プラニダーナ)を立てるという方法である。 この誓願ということでもっとも有名なのは、阿弥陀仏の前身である法蔵比丘(法蔵菩薩)が、比類のない荘厳をそなえた極楽世界を建立するために、五劫(想像もできないほどの宇宙規模的な長さの時間)の長きにわたって考えぬいたすえに立てたとされる四十八願である。 『大無量寿経』という大乗経典では、法蔵比丘は、この四十八願を成就したという旨をしごく簡潔に述べているだけである。しかし、これまで見てきたことから明らかなように、これは、法蔵比丘が、守り通すことがきわめて困難な四十八の誓願、つまり誓いのことばを守り通し、それをサッティヤにしたということにほかならない。 法蔵比丘が阿弥陀仏になり、比類のない荘厳をそなえた極楽世界を建立し、極楽往生による民衆救済の力を獲得したのは、ひとえにサッティヤの力によるということである。 五、ガーンディーのサッティヤーグラハ 以上、準備的な考察を終えたところで、いよいよガーンディーのサッティヤーグラハの解明にとりかかることにする。以下、ガーンディー自身が残したことばを追いながら、守り通すのが困難な誓いであればあるほど、その誓いのことばを守り通して真実(サッティヤ)にしたとき、その真実の力によって、より大きな願望が得られるとする、大乗仏教の菩薩行の理念で花開いた、古来のインド人の信念を、ガーンディーのなかに探すことにしよう。 ガーンディーの母親は、ヒンドゥー教の一派であるヴァイシュナヴァ派の、模範的な敬虔な信者であり、とくに女性に強く求められていたさまざまな種類の断食の誓いを、忠実に守り通す人であった。 「母についての記憶のなかで、いちばんあざやかな印象を残しているのは、清らかさであった。彼女は非常に信心深かった。……いくら記憶をたぐっていっても、彼女がチャトゥルマス(チャートゥルマース、四ヶ月つづく定期的断食----筆者)を怠ったことを思い出すことはできない。彼女はいちばん守りにくい誓いをたてて、ためらうことなくそれを守った。病気も誓いをゆるめる口実にはならなかった。」(『自叙伝』七三〜七四ページ)断食の誓戒(ヴラタ)は、女性がそれを守り通すことによって、その女性みずからの人生をまっとうさせ、家族の安穏を実現する力を発揮すると信じられている。すでに生まれついたときから、ガーンディーは、真実(サッティヤ)が大願を成就する力をもつという信念のなかに置かれていたのである。 そういうことのため、ガーンディーは、ことばはかならず真実でなければならないという信念をものごころついたときから守り通した。 「わたしは十二歳になっていた。わたしはこの短い期間じゅう、教師に対しても、また学友に対しても、一度も嘘をついた覚えがない。」(『自叙伝』七五ページ)ガーンディーは、なんと一三歳で結婚した。相手の名をカストゥルバーという。インドでは当時、そして今日でも農村地域に、悪習ともいうべき幼児婚が行われてきているのであり、驚くにはあたいしない。ガーンディーは、書物から夫婦が互いにたいして守るべき貞操の義務を学び、それをきわめて重大視した。ここにも誓戒とサッティヤという信念が伺えるが、このために幼いガーンディーは、おそろしく嫉妬深い夫となってしまったと述懐している。 ガーンディーは、四年間イギリスに留学し、弁護士の資格を取って帰国した。その二年後の一八九三年、ある訴訟事件で依頼を受けて南アフリカに渡った。ここからガーンディーは、インド人の人権問題に目覚め、さらにはインド独立の問題にも目覚め、ついには歴史を動かす重要人物へと急速に成長することになる。非暴力・不服従を手段とするサッティヤーグラハ運動というものを考案し、強力に推進していくようになったのも、南アフリカでの市民権獲得闘争を指導していくなかにおいてであった。 さて、ここでもう、やや結論を先取りするかたちになるが、「サッティヤーグラハ」の語源的な意味を明らかにしておいてよいであろう。 「サッティヤーグラハ」ということばは、「サッティヤ」と「アーグラハ」とを結びつけた複合語である。ここで「サッティヤ」というのは、今まで見てきたことからもはや十分にわかるように、たんに「真実」と訳すよりも、「真実になった誓いのことば」というように訳したほうがよい。そしてここで非常に重要なのは、真実となったことばは、大願を成就する力をもつということである。また、「アーグラハ」というのは、「こだわり」「固執」を意味することばであり、仏教ではしばしば「執着」と訳される。 すると、「サッティヤーグラハ」ということばは、全体として、「闘争の手段は非暴力・不服従にかぎるという、守り通すことがきわめて困難な誓いを、何が何でも守り通そうとすること」を意味する。「真理の把持」とか「真実の把捉」などの訳語では、ここまでの意味はけっして読みとれないであろう。 ここから当然のように出てくる結論は、守り通すことが困難であればあるほど、守り通されて真実(サッティヤ)となったその誓いのことばは、ますます大願を成就する力を増大させるということである。そこでガーンディーは、サッティヤーグラハ運動に身を挺する人、とりわけその運動の指導者である自分自身が、その大願成就の力を増大させるため、個人的にも守り通すのがより困難な誓いを立て、それを何が何でも守り通すべきだと考えるようになった。 その目的のためにガーンディーがたどりついた考えは、インドの修行者たちが古来実践してきたブラフマチャリヤーという禁欲的な生活規律を守ろうということであった。「ブラフマチャリヤー」は、「梵行」と直訳されることもあるが、わかりやすくは「清らかな行い」を意味する。これは、人間がふつうにもっている根本的な欲求、つまり性欲と食欲を抑制することである。具体的にいえば、性の交わりを完全に断ち、不殺生の徳目にしたがってもっとも厳しい少食の菜食主義者となることである。 南アフリカでズールー族の反乱という事件があったとき、ガーンディーをはじめとするインド人たちは、イギリスに協力して従軍した。負傷兵を担架でかついで戦場をかけまわっていたとき、ガーンディーはつぎのようなことを思いついた。 「わたしはブラフマチャリヤ(ブラフマチャリヤー----筆者)とその意味を考えた。……しかし、今でははっきりと、人道のために全霊をあげて奉仕しようと願う者は、それなしにはとうてい不可能であることを知った。……ブラフマチャリヤの遵守なくしては、家庭への奉仕とインド人居留民への奉仕とは、矛盾したものになる。ブラフマチャリヤをともなって、それは完全に一貫したものになってくる。……フェニックに到着すると、わたしは思いきって新しい方針----ブラフマチャリヤを守りとおす誓い----をとった。……わたしは、ブラフマチャリヤは驚くほどの力を持っており、決してたやすいことではなく、また確かに単に肉体にかかわることではない、ということを知った。……わたしにとっては、肉体の禁欲を守ることでさえも、困難に満ちたものであった。」(『自叙伝』二三〇〜二三一ページ)この誓いを実践しようと、ガーンディーは、妻カストゥルバーとの性的交渉を断った。ただ、これはまことに困難なことであり、それを完成するまでに、かれは二度失敗したといわれている。 ガーンディーは子供を何人ももうけている。しかし、それはかれがサッティヤーグラハ運動に身を挺する以前のことであった。今やかれは、サッティヤーグラハ運動に身を挺する人(サッティヤーグラヒー)ならば、たとえ結婚していても、子供をもうけようとしてはならないと断言する。かれはいう。 「経験から知ったのですが、国益のためにサッティヤーグラヒーになろうと願う人は、ブラフマチャルヤ(ブラフマチャリヤー----筆者)を守らなければなりませんし、貧しさを受け入れなければなりません。……ブラフマチャルヤは大いなる誓願です。それなしでは心は強固なものとはなりません。……家庭を営む人の夫婦生活が欲情ではないと誰もいえません。子供を生むためにだけ夫婦生活が許されています。ですから、サッティヤーグラヒーは子供を生むことを願ってはなりません。このように家庭を営んでいながらもブラフマチャルヤは守れるのです。」(『独立』一一八〜一一九ページ)性欲をこのように完全に抑制するということは、インドでは、古来、聖者への道を進む修行者の最低条件と見なされてきた。すべてはサッティヤーグラハ運動のためということを動機とするガーンディー自身が、聖者ということをみずから意識したかどうかはわからないが、よそから見れば、かれは確実に聖者への道に入ったのである。 その後、かれは食の制限をどんどん厳しくしていき、ますます聖者の風貌を帯びるようになってくる。かれは、南アフリカで投獄され、食を制限された体験から、さらに新しいブラフマチャリヤーを考案する。 「当時としては可能なことの最大限であったが、わたしはお茶を飲むことをやめ、そして日没前に夕食をすますことにした。今日ではこの二つとも、特に努力せずに守れるようになっている。……そうではあったが、ある機会にわたしは、いっさい塩をあきらめざるをえないことになった。そしてこの制限をわたしは十カ年破らずに続けている。……わたしは無塩食によって、ブラフマチャリヤは益を得るものと思った。からだのひ弱な人は豆類をとらないようにすべきだ、ということを読み、その意味もわかったことがあった。わたしは、それが非常に気に入った。」(『自叙伝』二三六ページ)この後、ガーンディーの食の制限はさらに過激さを増していく。ミルク、穀物を摂取することをやめ、ついにはしばしば断食にもいたった。そのようすはつぎのようである。 「これより後になると、ブラフマチャリヤを実行するために、さらに多くの変化が導き入れられた。これらの変化の最初が、ミルクの中止であった。これは一九一二年で、トルストイ農場での出来事だった。だがこの中止では、わたしは満足していられなかった。このあとまもなくのこと、わたしは果物だけの食事で生活することに定めた。……果物食はまた、非常に簡便であることがわかった。事実、果物に煮炊きはいらなかった。なまの落花生、バナナ、なつめやしの実、レモン、それからオリーブ油で、私たちの食事はできあがった。……ミルクと穀物をとることをやめて、果物食の実験を始めたちょうどそのとき、わたしは自己抑制の手段として断食を始めていた。」(『自叙伝』二三八〜二三九ページ)ミルクをやめたガーンディーではあったが、死ぬかもしれないほどの大病にかかったとき、人に強く勧められて、山羊の乳をやむなく摂取することに合意する。つぎの一文でかれは、この痛恨のできごとを顧みながら、「真実」(サッティヤ)への思いを熱く述べている。ここには、サッティヤーグラハとは何かということについての強い示唆がうかがえる。 「だが、山羊の乳を飲んでいることが、今日わたしの悩みともなっている。それは栄養学上の非殺生の見地からよりも、真実の見地から、いやそれに劣らず、誓約を破ったということからである。わたしから見ると、わたしは、真実の理想を非殺生の理想よりもよく理解しているようである。そしてわたしのさまざまな経験は、わたしに、わたしが真実に対する執着を捨てるならば、非殺生の謎を解くことができなくなることを告げている。真実の理想は、いったんたてた誓いは、文字においても、また精神においても完全に守られなくてはならないことを要請している。」(『自叙伝』三三二ページ)ここから、ガーンディーの信念の核心を見ることができる。かれにとって、性的交渉をもたない、不殺生の徳目を守るなどという、ブラフマチャリヤーという名の禁欲生活は、それ自体が目的ではない。そうではなくて、ブラフマチャリヤーのそれぞれの徳目を守ると誓ったことばを、いかなる困難があっても守り通して真実(サッティヤ)にすることこそが目的なのである。ではなぜサッティヤにこだわったかといえば、強力なサッティヤこそが、南アフリカにおけるインド人の市民権獲得、そしてインド独立という、大いなる願いを成就するという信念を、かれが揺るぎなくもっていたからにほかならない。 六、結語 以上で、「サッティヤーグラハ」ということばが何を意味しているかは、十分に明らかになった。最後に、そのことをさらに確認するために、ガーンディー自身が「サッティヤ」とか「サッティヤーグラハ」の語義あるいは意義をわりわい単刀直入に語っているところを見ておくことにする。 南アフリカでの闘争をどう呼ぶか、その名称を公募した上で決定する話のなかで、ガーンディーはつぎのようにいっている。 「シリ・マガンラル・ガンジーは、応募した一人であった。彼は「よきたてまえを堅持する」という意味を持つ「サダグラハ」(サッド・アーグラハ----筆者)という言葉を提案した。わたしは、この言葉が気に入った。しかし、それはわたしがふくませたいと思った考え全部を言い表わしてはいなかった。したがってわたしは、それを、「サッティヤーグラハ」と訂正した。真実〔サッティヤ〕は愛を包含する。そして堅持〔アグラハ(アーグラハ----筆者)〕は力を生む。したがって、力の同義語として役立つ。こうしてわたしは、インド人の運動を「サッティヤーグラハ」、すなわち真実と愛、あるいは非暴力の力、と呼び始めた。」(『自叙伝』二四六ページ)ガーンディーがこのように、「サッティヤーグラハ」を「力」だと強調していることは、たいへん重要であり、この点はすでにわれわれが確認してきたとおりである。 これ以外にここで重要だと思われるのは、かれが真実は愛を包含するといっていることである。これは、大乗仏教的ないいかたでいえば、ガーンディーの真実(サッティヤ)は慈悲心によって動機づけられているということになろう。 菩薩の行は、みずからが覚った人ブッダになる自利の行であると同時に、かならず、万民を救済する利他の行でもなければならない。すでに見たように、菩薩の行には、波羅蜜行と誓願行とがあるが、いずれも、みずからが立てた誓いのことばをいかなる困難にも耐えて守り通し、それを真実(サッティヤ)にするという趣旨のものである。 このサッティヤの力によって、菩薩は自利と利他とをふたつながらに実現できるとされるのである。いうまでもなく、菩薩は慈悲心を動機として真実を目指すのであり、この意味で、ガーンディーこそは、インドの歴史に現れた実在の菩薩だといってもよいのである。 ガーンディーは、「サッティヤーグラハ」をつぎのようにもいいかえている。 「サッティヤーグラハ、または魂の力は英語で「受動的抵抗(パッシヴ・レジスタンス)」といわれています。この語は、人間たちが自分の権利を獲得するために自分で苦痛に耐える方法として使われています。その目的は戦争の力に反するものです。あることが気に入らず、それをしないときに、私はサッティヤーグラハ、または魂の力を使います。」(『独立』一一〇ページ)「魂の力」、このことばには、ガーンディーの万感がこもっている。非暴力・不服従を何が何でも貫き通す精神力、まことに困難な禁欲的生活規律であるブラフマチャリヤーを守り抜く不屈の精神力、そのようなもののすべてを、かれは「魂の力」という短いことばに盛り込んでいるのである。そのことを、かれは、『自叙伝』の「はしがき」につぎのように表現している。 「それでわたしは、これから書くものに「真実をわたしの実験の対象として」という副題をつけたのである。もちろん、このなかには、非暴力、独身の生活、そして真実とは性質を異にするもろもろの原則の実験も含まれよう。しかし、わたしにとっては、真実こそ、ほかの無数の原則をそのなかに貫いている大原則なのである。」(『自叙伝』六九ページ)真実、魂の力、これらのものへのガーンディーの思い入れはなみたいていのものではない。そしてそれらを貫き通すことは、ガーンディー自身にとっても容易なことではなかった。したがって、ふつうの人間の集まりである大衆にとっては、なかなか守りきれるものではなかった。しかしそれでもなお、ガーンディーは、大衆にも、かなり厳格なサッティヤーグラハを要求した。そのため、インド独立運動のさなか、サッティヤーグラハ運動は、提唱者ガーンディーその人によって何回も突然に中止を宣言された。かれはいう。 「サッティヤーグラハは、根本的には誠実な人の武器である。サッティヤーグラハ運動者は非暴力を誓っている。そして人々が思想と言葉と行為とでそれを守らないかぎり、わたしは大衆的サッティヤーグラハを提唱するわけにはいかない。」(『自叙伝』三四四ページ)ガーンディーは、政治運動を展開しながらも、宗教的指導者としての「聖者」の風貌をもち、また人々からそういわれもした。政治運動指導者にして「聖者」風という、この一見奇妙な外観は、ガーンディー自身にとっては、あくまでも内にあるただ一つの信念からおのずと現れた出たものにほかならかった。かれにとって、政治も、宗教的で個人的な生活様式も、じつは一つものだったのである。ガーンディーのつぎのことばは、そのことを如実に物語っている。 「わたしがなしとげようと思っていること----ここ三十年間なしとげようと努力し、切望してきたことは、自己の完成、神にまみえること、人間解脱に達することである。この目標を追って、わたしは生き、動き、そしてわたしの存在があるのである。語ったり、書いたりするやりかたによるわたしの行為のいっさいと、政治の分野におけるすべてのわたしの冒険は、同じ目的に向けられている。」(『自叙伝』六七ページ)またかれはいっている。 「この真実は、言葉の使いかたにおける誠実さのみならず、考えかたにおける誠実さでもある。さらに私たちの真実に関する相対的な観念であるのみならず、絶対の真実、永遠の原則、すなわち神である。」(『自叙伝』六九ページ)若いころにガーンディーが信心を向けていた神は、ヒンドゥー教の寺院などに祀られているいわゆる神であった。しかし、サッティヤーグラハ運動を推進し、みずからに厳しい禁欲生活を課したのちのガーンディーにとって、真実(サッティヤ)こそが神にほかならかったのである。 ガーンディーは、このように、ふつうの意味での宗教的聖者ではなく、真実(サッティヤ)にすべてを捧げた聖者だったのである。 最後にこういおう。ガーンディーは、大乗仏教のいかなる菩薩にも勝るとも劣らない、近代インドが生んだ真正の菩薩、聖者であった、と。 |