菩薩と真実(satya)

──大乗仏教の起源をめぐって──

                                                宮元啓一

一、真実のことばは世界を創る

 わが国には、古くから言霊思想というものがあり、それは今日でも忌みことばというものを認めるというかたちで息づいている。たとえば、受験生を前にして「落ちる」とか「滑る」とかということばを発すると、縁起でもないことをいうなと叱られたりする。これは、「落ちる」などのことばが、受験生が受験に失敗するという事態を生み出す力をもっていると考えられているからである。換言すれば、「落ちる」などのことばは、受験生が受験に失敗するという事態を含む「世界」を創るということである。ことばが世界を創るという感覚を、われわれ日本人は多少はもっているのであるが、インド人は、古くから今日にいたるまで、この感覚を非常に強烈に抱きつづけてきたのである。
 アーリヤと自称する民族がインドにもちこんだ宗教では、天啓聖典(Sruti)であるヴェーダ聖典のことばは「ブラフマン(brahman)」といわれる。「ブラフマン」というのは、「拡大する」「膨張する」を原義とする動詞語根「ブリフ(bRh-)」からの派生語で、拡大するもの、膨張するもの、あるいはその拡大・膨張の源となる力を意味する。ブラフマンであるヴェーダのことばは、拡大し、膨張し、世界をそのことばどおりに創る力をもっていると考えられたのである。つまり、ブラフマンは、絶対に裏切ることがなく、かならずそのことばどおりの事態を含む世界を創りだすのである。そして、こうしたものは、別に、「サッティヤ(satya)」であるともいわれる。
 「サッティヤ」は「真実」と訳されることが多いが、より正確には、「かならずそのとおりにものごとを実現する力をもつもの」のことである。「サッティヤ」という語は、「カーマ(kAma, 願望)」などと連合する(「サッティヤカーマ」=「願いごとがすべてかなう人」)こともあるが、一般的には「ヴァチャナ(vacana)」など、「ことば」あるいはことばに関連の深い語と連合する。有名な『ナラ王物語』には、ダマヤンティーが、みずからのサッティヤ(かつて嘘いつわりの罪を犯したことがないこと)によって神々をも動かしたとある。サッティヤは、いかなることをも実現する力をもつとされるのである。


二、真実、戒、誓戒

 『マハーバーラタ』一二・一二四・六〇にはつぎのような興味深い記述がある。
「dharmaも、satyaも、vRttaも、balaも、そしてこの私(SrI)も常にSIlaに根ざしております。ここに疑いはありませぬ」(原実「SIla研究(名詞連合)〔補〕」『印度哲学仏教学』第七号、一九九二年、二〇ページによる。)
 ここには、力ないし力をもつものが列挙されている。それはつぎのとおり。

  dharma(法)   世界の秩序を保持する力(をもつもの)
  satya(真実)   そのとおりにものごとを実現する力(をもつもの)
  vRtta(善行)   未来に善い境涯を招く力(をもつもの)
  bala 力
  SrI(幸せ)    人々に幸せをもたらす力(をもつもの)

 そして、これらが成立するためにはシーラ、つまり常々の心がけが必要だというのである。たとえば、サッティヤを常々心がけるとは、具体的には、みずからが立てた誓いや約束のことばにたがうようなことはけっしてしないように心がけ、ついにはそうした思考回路を盤石なものに仕上げていくことをいう。こういうわけであるから、サッティヤは、法などとたんに並ぶものというよりは、法などと常々の心がけとを媒介するものであるともいえる。すなわち、サッティヤと常々の心がけとは、ワン・セットになっているのである。
 仏教では、古くから、仏教徒であることの最低条件のひとつとして、五戒を守ることが挙げられてきた。この「戒」とはいうまでもなくシーラのことである。それは、不殺生戒、不偸盗戒、不邪婬戒、不妄語戒、不飲酒戒の五つである。このうちの「不妄語」をインド一般の用語で表せば,それは「サッティヤ・ヴァチャナ(satyavacana)」である。
 おそらく中国における造語だと思われる術語に、「戒体」というものがある。これは、戒を守り抜くことによって生まれる止悪修善の力であるとされる。もはや明白であろうが、この力は、インド的発想法にもとづけば、まさにサッティヤの力にほかならない。
 すなわち、たとえば不殺生戒でいえば、生類を殺傷しないとみずからが立てた誓いのことばにけっしてたがわないように心がけるというのがその意味である。こういうわけであるから、不殺生戒などを貫くものこそ、まさにサッティヤなのであり、その力によって仏教徒はみずからをより仏教徒らしく高めることができるとされるのである。
 ただし、仏教の戒であるシーラは、心がけ、あるいは心がけによって得られたよい心的傾向のことであるから、その目標となる徳目は、必ずしも絶対に守られなければならないというわけではない。つまり、各徳目と戒とのあいだにはサッティヤが介在するのであるが、そのサッティヤの十全性は必ずしも保証されなくともよいということである。
 したがって、たとえば不殺生戒を徹底すれば、肉食などもってのほかになるはずであるが、伝統的な仏教では、出家でさえも、「三聚浄肉」に当てはまる肉ならば口にするのである。また、ヴェーサーリーの高級娼婦アンバパーリーは、娼婦であるからには絶対に不邪婬戒を守れないにもかかわらず、ゴータマ・ブッダに帰依し、かれから懇切に教えをうけている。
 一方、仏教とほぼ同じ時期、ほぼ同じ地域に興ったジャイナ教では、五戒とよく似た五誓戒(vrata)を立てる。それは、不殺生、不偸盗、不邪婬、不妄語、無所有であり、はじめの五つは、仏教の五戒の徳目と同じである。そして、出家の場合には、これらは厳密に完全無欠であることが要求された。この場合にはこの五つは、五大誓戒といわれ、のちに白衣派が興るまで、出家は一糸まとわぬ全裸でなければならなかった。
 しかし、在家の場合でも、ジャイナ教では、この五つの徳目は、限りなく完全に近いかたちで守られなければならないとする。なぜなら、誓戒は、完全に守られ、サッティヤとならなければ、なんの力も生まないからである。つまり、仏教の場合は、シーラへのやや不完全な橋渡し役をしているのにすぎないといえるのにたいし、ジャイナ教の場合には、誓戒とサッティヤとは、不二一体のものなのである。したがって、仏教では、たとえば不殺生戒は「努力目標」であるに留まるのにたいし、ジャイナ教の不殺生誓戒は、なにがなんでも守らなければならないものとなる。そのため、ジャイナ教の在家たちは、仏教の在家たちとはちがって、土中の虫を殺す怖れのある農業や、長途移動することで虫を踏み殺す可能性が高くなる交易商などの職業を嫌い、ほとんどが小売業や金融業に従事することとなった。宗教が職業をこれほど強く規制した例は世界にも稀であろう。また、ジャイナ教の在家たちは、例外なく厳格な菜食主義者である。
 こう見ると、サッティヤが大願を成就する力をもつというインド古来の信念についていえば、古い仏教徒よりもジャイナ教徒のほうがはるかに強固にそれを抱いていたことになる。
 仏教、ジャイナ教など、新興の都市型宗教に大量に富裕なパトロン層を奪われたバラモンたちは、失地を回復するために、それまで野蛮人扱いしていた厖大な数の先住民をみずからの社会の正式な構成員として取り込んだ。この結果、ヴェーダの宗教と先住民族の宗教とが習合されて、ヒンドゥー教が形成された。
 バラモンたちは、ヒンドゥー教社会の頂点にいる新しい根拠として、最高の浄性を求めた。そのため、バラモンたちは、以前は行っていた犠牲祭をやめ、仏教などにならって供養(pUjA)を宗教儀礼の中心に据え、また、肉食をやめて厳格な菜食主義者へと転じ、図々しくも、自分たちだけが完全な不殺生を守ってきたのだと宣言した。ご都合主義的な変わり身のはやさには驚くばかりである。
 さてそこで、バラモンたちは、不殺生など、仏教やジャイナ教で重視される徳目をみずからのものとするにあたって、仏教的な戒ではなく、ジャイナ教的な誓戒を選択した。これは、サッティヤとなった誓戒こそが、あらゆる大願を成就する力をもつとする古来のヴェーダの宗教に特徴的な信念によく合致することでもあった。
 このようにして、サッティヤと一体である誓戒をもっとも重視する考え方が、ヒンドゥー教を支配するようになった。
 そして、ヒンドゥー教(とくにヴィシュヌ教)が高らかに唱える強烈な救済主義思想に影響を受けて形成された大乗仏教は、それ以外にも、ヒンドゥー教から、サッティヤと一体である誓戒を受け入れ、大乗仏教の目玉商品である菩薩の行を支える理念の中核にそれを据えたのである。
 この点についての指摘は、筆者の知るかぎり今までまったくなされてこなかった。以下、それがどのようなものであるかを明らかにしていくであろう。


三、波羅蜜

 讃仏運動(讃仏乗)から大乗仏教への流れのなかで、理想的な修行者としての菩薩の概念が急速に内容を豊富にしていった。
 いうまでもなく、菩薩というのは、もともとは、成道以前のゴータマ・ブッダだけを指した。そして、そのゴータマ・ブッダが目覚めた人ブッダとなったのは、かれが、無数の前生において、命がけでさまざまな徳目を守り通してきたことの結果であるとされるようになる。その、なにがしかの徳目を「なにがなんでも守り通すこと」を波羅蜜(pAramitA)という。「波羅蜜」の原義は、「(修行の)完成」であるとか、「到彼岸」であるとかいわれ、その当否は筆者には不明であるが、その機能面からいえば、「なにがなんでも守り通すこと」以外ではありえない。
 なにがしかの徳目をなにがなんでも守り通すことである波羅蜜は、かくして明々白々にも、誓戒をじかに下敷きにしたものにほかならない。守り通した誓戒である波羅蜜はサッティヤなのであり、そのサッティヤの力によってこそ、ゴータマ・ブッダは成道(成仏)という大願を成就したというのが、前生物語がいわんとする根本趣旨である。このところをしっかりと確認しておかないと、あとの話がまったくわからなくなる。
 これを別のいいかたでいえば、ゴータマ・ブッダが目覚めた人ブッダとなり輪廻から最終的に解脱して涅槃に入ったのは、智慧によって根本的生存欲(無明、渇愛、*)を滅ぼし、それによって根本的生存欲から生ずる欲望(貪と瞋)を滅ぼし、それによって欲望から生ずる善悪の行為(業)を滅ぼし、それによって、業を原動力とする苦しみの輪廻を断絶させたというのではなく、サッティヤの力によってだということになる。
 つまりどういうことかといえば、理想的な修行者としての菩薩は、戒定慧の三学という修行体系によって彼岸に渡ったのではなく、真実のことばの力によって彼岸に渡ったのだということである。菩薩という概念の成立は、旧来の修行概念を破壊したのである。
 やがて大乗仏教が成立していくに及んで、菩薩は成道以前のゴータマ・ブッダだけでなく、誓戒を立てて波羅蜜に専心する人すべてを指すようになる。ここに救済主義思想が全面的に付加され、菩薩は、波羅蜜の達成によって、成仏も衆生を救済する比類ない救済力も獲得されるという、大乗仏教的「修行」理念が完成された。
 同時に、大乗仏教は民衆宗教として易行道を歩むので、各種波羅蜜(六波羅蜜、十波羅蜜)のなかで、布施波羅蜜など達成困難なものは結局のところ避けられ、静かに考えれば済むだけの般若(智慧)波羅蜜が強く推奨されるようになった。ここに厖大な量の般若経典群を擁する般若思想が成立したのである。
 こう考えてはじめて、以下に見る有名な『般若心経』の後半部分の中核は意味が理解できるようになる。玄奘による漢訳によればそれはつぎのとおり。
「故に知るべし、般若波羅蜜多は、これ大神呪なり、これ大明呪なり、これ無上呪なり、これ無等等呪なり、よく一切の苦を除き、真実なり。虚ろならざるが故に」
 「呪」とあるのはマントラ(mantra)のことである。マントラとはブラフマンと同じくもとはヴェーダ聖典の文句のことをいうのであって、もちろん、偽りのない真実のことばである。「真言」という別の漢訳語はまさに名訳である。
 この個所では、般若波羅蜜、つまり「智慧をなにがなんでも守り通すこと」は、あらゆる大願を成就する力をもつものだといっているのである。(「般若波羅蜜のマントラは」という読みはまったくのまちがいである。)それをさらに補強する文句が、「真実なり(satyam)」である。まさにそのものずばり、「智慧をなにがなんでも守り通すこと」はサッティヤにほかならないと、端的に指摘されているのである。この引用の前の部分とを合わせていえば、(般若)波羅蜜は、サッティヤとなった誓戒であるから、無上の目覚め(anuttarasamyaksambodhi)をもたらし、すべての生きとし生けるものたちの苦しみを取り除く救済力をもたらすということ、つまり、(般若)波羅蜜こそが、自利と利他とをふたつながらに成就させる「直接の」原動力だということを、『般若心経』は主張しているのである。これこそがこの経の本当のメッセージなのである。
 菩薩の波羅蜜行が、誓いのことばを真実にし、それによって自利と利他との大願を成就させる力を得ることを目指すものだということ、これがわからなければ、『般若心経』は理解できないのである。


四,誓願

 菩薩の行は波羅蜜行だけにとどまることがなかった。波羅蜜よりももっとストレートに誓いのことばに依拠する菩薩の行として開発されたのが、「誓願(praNidhAna, praNidhi)」を立てるというやりかたである。ちなみに、「誓願」は仏教独特の術語であるが、それがインドでもっとも一般的に用いられる「誓戒(vrata)」ということばと.意味がかなり重なることは、勝本華蓮氏が、二〇〇一年七月に、北海道印度哲学仏教学会の学術大会で発表された研究によってもはや疑問の余地がない。
 「誓願」ということでもっとも有名なのは、阿弥陀仏の前身である法蔵比丘(法蔵菩薩)が、比類のない荘厳をそなえた極楽世界を実現するために、五劫の長きにわたって考え抜いた末に立てた四十八願である。
 『大無量寿経』では、法蔵比丘は、この四十八願を成就したという旨をしごく簡潔に述べているだけである。しかし、これまでの論考から明らかであるように、これは、四十八の誓願、つまり誓戒を守り通し、それをサッティヤにしたということにほかならない。法蔵比丘は、戒定慧の三学による修行によることなく、ただひたすらみずからが立てた誓いのことばをサッティヤとすることだけに専心し、そのサッティヤの力によって成仏して阿弥陀仏となり、サッティヤの力によって比類のない荘厳をそなえた極楽世界を生みだし、サッティヤの力によって極楽往生による衆生救済の力を獲得したのである。
 わが国の浄土真宗などがいう「本願力」「他力」「本願他力」というものの本体がなにかという研究はこれまでなされてこなかったようであるが、これで明らかなように、それは、サッティヤの力にほかならないのである。


五,結語

 真実のことば、サッティヤはいかなる大願をも成就させる力があるという、インド人が古くからもってきた信念は、ヒンドゥー教を媒介として大乗仏教に引き継がれ、菩薩の行の中核概念とされた。菩薩の行は、ゴータマ・ブッダが説いた戒定慧の三学という修行体系とまったく関わることなく、ひたすら立てた誓いのことばを守り通して嘘偽りのない真実のものにすることなのである。
 大乗仏教は、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗という三乗の区分を立て、声聞、縁覚の二乗は小乗の教えだとした。縁覚については実体があまりはっきりしないところがあるとはいえ、三乗区分の趣旨からすれば、声聞と縁覚とは、戒定慧の三学にのっとって彼岸に渡る者のことであり、菩薩は、三学ではなく、真実のことばの力によってみずから彼岸に渡り、また他者をも彼岸に渡らせようとする者のことである。
 ところで、菩薩にはふたつのコースが用意されていると見ることができる。ひとつは波羅蜜コースであり、もうひとつは誓願コースである。このコースは、二者択一のもののようである。
 波羅蜜コースを歩んだとされる代表的な菩薩は、有名な『般若心経』によれば、これはもう観音菩薩にとどめをさす。観音菩薩は、おそらく各種波羅蜜のなかでもっとも容易な般若波羅蜜によって、絶大な衆生救済力をものにしたということになる。
 誓願コースを歩んだとされる代表的な菩薩は、四十八願で阿弥陀仏となった法蔵比丘、十願による地蔵菩薩、十二大願で薬師如来となった菩薩といったところであろう。
 蛇足ながら、大乗仏教が旧来の仏教になく肉食を強く忌避したのは、大乗仏教が、不殺生という徳目を、戒(シーラ)ではなく誓戒(ヴラタ)という概念枠のなかで修得しようとした結果であると思われる。本稿のはじめのほうでも触れたように、この態度は、ヒンドゥー教を成立させたバラモンたちの態度に通ずる。仏教徒がバラモン化した結果が厳格な肉食禁止だったということである。
 以上のことから、大乗仏教が、ヒンドゥー教の圧倒的な影響のもとに開発されたということが強く示唆されるのである。


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