招猫倶楽部招猫研究室招き猫の系図>第1章


第1章 招き猫縁起いろいろ

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●  招き猫はいつどこで生まれたのでしょうか?

 調べてみますと、招き猫の由来には様々な縁起話が登場します。登場人物が同じでも微妙に話の中身が違ったり、書いてある本によって千差万別。分類してみますと、(1)自性院説(2)豪徳寺説(3)遊女薄雲説(4)金猫銀猫説(5)小判猫説(6)今戸土人形説の6つに分類できます。さて、どれがいったい本当の招き猫の縁起なのでしょうか? 年代が古いものから検証していきましょう。




● 自性院説を検証してみる

 最も年代が古い自性院説から検証してみましょう。

自性院の招き猫(現代)
自性院の招き猫(現代)
● 自性院説 その1 「道灌招ぎ猫」
「文明九年(一四七七年)江古田原の戦いに敗れた大田道灌が、日暮れて、道に迷った時、道灌の前に一匹の黒猫が現われて、道灌を自性院に案内した。道灌はこの地で一夜を明かしたため危難を免れ、大勝利を得ることができた。そしてその勝利をこの猫のおかげと感激して、大切に養い、死後、丁重に葬ったうえ、一体の地蔵尊を造って盛大な供養をし、この地蔵尊を自性院に奉納した」 (自性院案内文『ねこ地蔵尊縁起』から)
 大田道灌が江古田ヶ原の戦で黒猫に導かれて助かり、自性院に猫塚を築いたのが始まりともあり、世に「道灌招ぎ猫」といわれる。
出典:『招き猫の文化誌』宮崎良子著
参考:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論著
『来る福 招き猫手帖』荒川千尋・坂東寛司著

 招き猫が作られはじめたと推察される江戸末期と時代的に開きがありすぎます。それに、藤田一咲・村上瑪論著『幸せの招き猫』には、この自性院の資料は「資料性に欠ける」とあり、余り当てにはならないようです。
 次に紹介するのは同じ自性院でも江戸中期の縁起話。

● 自性院説 その2 「猫面地蔵」
「明和四年(一七六七年)のこと、江戸小石川の豪商、真野正順の娘、後に金坂八郎治の妻となった女性がなくなった。貞女として誉れ高く評判があったこの女性のために、神楽坂の鮨商売人、弥平が後生にこの誉れを残し、そして冥福を祈るため、高さ五十センチ程の石の猫面地蔵尊を自性院に納めた」
出典:『招き猫の文化誌』宮崎良子著

 これは世に「猫面地蔵の由来」として知られるもの。こちらも江戸末期とは100年近い開きがあり、猫面地蔵尊を納めたとはありますが、招き猫との関わりは一切述べられていません。これをもって招き猫の縁起とするには無理があります。

● 自性院説 その3
「寿司屋に猫が迷いこんできてから、不思議と店が繁昌したので、猫の死後、地蔵を作って供養したのだという」
出典:『猫の歴史と奇話』平岩米吉著

 こちらは年代がはっきりしませんが、地蔵と招き猫とのつながげるにはやはり苦しい。客を招いた猫がいたのかもしれませんが、これが縁起物の招き猫とどうつながるのか。猫地蔵に関して2つも縁起話があることからしても、相当に怪しいといわざるを得ません。

自性院門
自性院門

 先日、自性院に行ってきました。そこの案内版に、自性院に私年号板碑があると書かれていました。室町時代後期に、自性院辺りでは「福徳」という私年号(地方豪族や寺社による私的年号)が使われていたというのです。この「福徳」という私年号や「猫面地蔵」の逸話などが混ざりあって、自性院も招き猫発祥の寺として名乗りを上げたのではないでしょうか。




● 豪徳寺説を検証してみる

 続いて年代が古い豪徳寺説。招き猫の縁起話としては一番有名でしょう。それだけに、粗筋は同じでも色々な脚色がなされて諸説噴出です。

 ここでは全部で8つの縁起話を紹介します。彦根藩主井伊直孝が猫に手招かれるままに寺を訪れたのをきっかけに、その寺を菩提所とし、没落していた寺が復興した――という筋は同じです。雷が鳴ったとか猫に和尚がぼやいたとか、脚色が異なるだけです。ひとつずつ読むのが面倒な方は、その8まで飛ばして下さい。

● 豪徳寺説 その1
「戦国時代である天正年間のある日のこと、江州彦根三十万石藩主井伊直孝公が、家臣五、六名を供に引きつれ、鷹狩の帰途、馬上江戸世田谷の曹洞宗弘徳庵(註 文明十二年創建、万治元年現在の豪徳寺に改称)の門前を通りかかると、折から俄か雨がサッと来た。直孝公主従はどごぞ両(ママ)宿りの場所もがなと四辺を探していると、丁度その時お寺の中から一匹の大きな三毛猫が現われて馬前に近寄り、一行をさしまねくような手つきをする。大兵肥満夜叉掃頭の称ある直孝公も、この可愛い猫のお出でお出でに釣り込まれて、ついふらふらと境内に入り、本堂の玄関先に馬を停めると、そこへ恰も待ち構えていたかのように、当寺の和筒が自らいんぎんに出迎えて、一行を奥の間に招じ、渋茶などもてなして、三世因果の法話やら、四方やまの歓談やらに花を咲かせたが、この和筒さんは宗顕といって中次の大学者、頗る直孝公のお気に召して、その後折々訪れては学問の話などをするようになったので、その都度莫大な寄進もあり、今まで辛うじて雲水にその日の糧を得ていた貧乏寺は、打って変って一躍有福な寺になった。これも皆飼猫たまが福を招いたためであるといって、大いに猫を崇めたが、その後遂にこの寺は井伊家の菩提所となり、遠近にその名が伝わるようになった。以前は吉良家の菩提寺であったが、同家滅亡後寺運の衰えたのを再び回復出来たわけである」
出展:『猫・ねこ・ネコ』粟津きよさと著
豪徳寺猫塚
豪徳寺猫塚

 天正年間という年代に注目してみます。天正年間は1573〜92年。井伊直孝公の生没年は1590(天正18)〜1659(万治2)年ですから、天正年間に1歳か2歳の井伊直孝公が家臣を連れて鷹狩りをするはずがなく、豪徳寺の猫に手招かれたというのは考えられません。
 「井伊直孝を手招いたといわれる豪徳寺の猫タマは、一説によると天正年間(1573〜1591年)に死んだ」(『江戸東京庶民信仰』長沢利明著より)という話も伝わっているようですが、いかがわしいものです。

●豪徳寺説 その2
「時代は元和元年(一六一五)以降であろうか、世田谷・豪徳寺でのことである。当時ここは貧乏な荒れ寺であり、そこには和尚が自分の食を分け与えるほどに可愛がっている猫がいた。ある時、ふとしたことでこの猫が彦根藩主井伊直孝を寺に招き入れ、ついには井伊家の菩提寺にまでり隆興を極めたというのだ。後世、寺はこの猫の姿を祀り『招福猫児(まねぎねこ)』として崇めたという」
「一説によると、猫が直孝を招いたことは安土・桃山時代の天正年間(一五七三〜九二)となっていたりもする」
ともある。
出典:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論著

 井伊直孝は、元和元年(1615)の大阪の陣を機に病弱な兄直勝に代わり、井伊家を継ぐことになりました。大阪の陣の働きにより、井伊家は厚遇され、35万石という大藩となります。井伊直孝が藩主となったのは元和元年ですから、元和元年以降とする話はあり得ない話ではありません。実際、豪徳寺説の多くは、江戸初期として語られることが多いのです。

● 豪徳寺説 その3
「この寺はもと弘徳院といい、吉良上野介の祖先の一族である吉良氏の菩提寺だったが、戦国時代には寺運が傾いていた。世田谷城主だったパトロンの吉良氏が没落したからである。江戸時代に入ったばかりのことである。この破れ寺の和尚は一匹のネコを飼っており、タマと名づけて可愛がっていた。和尚は日ごろタマを相手に、『お前を可愛がってやっているのに、この貧乏寺ひとつなんとかできないのか』と愚痴をこぼしていたらしい。(中略)ある夏の日、三代藩主井伊直孝が家来をつれて世田谷村へ遠乗りにやってきた。ちょうど弘徳院の門前にさしかかったころ、黒雲が空を覆ったかと思うと、はげしい夕立となった。直孝主従が雨宿りをしていると、山門に出てきた一匹のネコが、しきりに手招きしているように見えた。これにつられて直孝ら一行が寺に入ったとたん、大木に落雷して直孝はあやうく一命を救われることになった」
 このことがきっかけで弘徳院は井伊家の菩提寺となり、豪徳寺と名を改めて栄える。
「そのきっかけをつくったタマは観音様の化身だとしてたいせつにされ、招福観音堂にまつられて現代にいたっている」
原典:『東京御利益案内』やまびこ社編(リブロポート)1987年刊
出典:『江戸東京庶民信仰』長沢利明著
● 豪徳寺説 その4
(前略)徳川初期にさかのぼる。
 その昔、世田谷城主吉良右京太夫が建てた豪徳寺も、吉良氏滅亡の後はさびれる一方であった。住職の雪岑和尚は、愛猫の頭を撫でて、
『このままでは寺もつぶれる。お前とも、そのうち別れなければならないだろう。野良猫になつても悪事だけは働くなよ』
 猫は、しんみりと聞いていた。
 その頃、大老井伊直孝は、世田谷村へ狩りにでた。寺の前を通りかかると、門前に一匹の猫がいる。猫は直孝を見ると、右手を耳の上まで上げて、おいで、おいでをした、
『妙な猫じや』
 直孝が、門を入つてゆくと、猫は玄関で、おいで、おいでをした。直孝が玄関に立つと、今度は、客間でおいで、おいでをした。
 直孝は、こうして雪岑和尚に逢い、豪徳寺を井伊家の菩提所と定めた。寺は近郊随一の大伽藍となり、縁起を祝う猫が江戸ッ子の神棚に飾られるようになつた。猫が天寿を完うしたのち、和尚はこれを猫塚に埋めて供養した。
出典:『色模様 江戸から東京へ』田井真孫著
この情報は安次富さんに提供いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。
● 豪徳寺説 その5
 豪徳寺は初め弘徳庵と称し、法筵を敷いていたのが天極秀道禅師であった。この禅師は、寺にネコを飼って、自分の子供のように可愛がっていた。ある日、禅師はこのネコにむかって、「汝、年来わが寵愛を受けて食住し来たり、此の寺の貧しきを知らば何か果報を得来らずや」と、人物いうごとくにいい聞かせた。
 ところが、後日のことであった。ある日、騒々しい人声がするので、見ると、六、七騎の武士が馬からおりて寺に入ってきた。そして和尚に、
「われら今、門前を通りしに猫一匹うずくまり、われわれ一行を見てしきりに招くにより入り来れるなり。暫時休息させくれよ」という。和尚は茶などをすすめて饗応しているうちに、一天俄に曇り、雷雨が轟然として降りだしてきた。その間にも、和尚はネコの話をはじめ三世因果の説法などをつづけた。武士達は大へん喜び、「われは江州彦根の城主井伊直孝なり。今、猫に招じ入れられて雷雨の難を免れ、貴僧の法話にあずかる。これ何かの因縁ならん。以後心安く参らすべし」といって、雨もやんだので立ち去っていった。これが動機となって、弘徳庵は井伊家の保護をうけることになり、直孝公が死んだ万治二年に、公の法号久昌院殿豪徳天英大居士をとって豪徳寺と改称したのである。
豪徳寺門前の花屋の猫(なな)
豪徳寺門前の花屋の猫(なな)
 『座談の泉』には、このネコの名を「たま」といい、その死後、猫児塚を築いて弔ったというが、現在では、この塚はなく、境内の一隅に「招福猫児供養」と刻まれた小さな供養塔があるだけであるが、この場所であるかどうかは、寺僧にも定かでない由である。しかし、「たま」をかだとっだ「招き猫」を、毎月一日と十五日に縁日には、商売繁盛、家内安全を祈願する人々には、今でも希望者に頒布しているということである。
※『座談の泉』植原路郎著
出典:『ねこ』木村喜久弥著

 年代は同じですが、豪徳寺の和尚の名が色々出てきて混乱します。
 井伊直孝の生没年を考えると、元和元年(1615)から万治2年(1659)の間に、豪徳寺の猫タマが井伊直孝公を招いたことになるでしょう。しかし、グッと時代が下がった縁起話もあります。

● 豪徳寺説 その6
一八〇三(享和三)年のある日、貧乏寺の弘徳寺の住職は長年連れそってきたたまに、『おまえもずっとわしのおかげで食ってきたんだから、この寺のビンボーぶりを知っているんだったら、なにか果報でも持ってこいや!』というようなことをいい聞かせた。
 そこでヤル気をだしたたまは、彦根の藩主・井伊直孝にむかって手招きした。直孝にしてみれば、激しい雨の中を突然寺の門から大きなネコがあらわれて、いきなり手招きするのでビックリした。
 とにもかくにも、寺に入って雨を避けていたところで住職と出会う機縁がつくられたのである。
 そして弘徳寺は井伊家のあつい保護を受けるようになって、みるみる裕福になっていき、直孝の死後(一六五九年・万治二年)その法号の『久昌院殿豪徳天英大居士』にちなんで豪徳寺と改められたのである」
出典:『ネコ 無用の雑学知識』沼田 朗著
豪徳寺門
豪徳寺門

 この縁起話など話になりません。著者には失礼ですが、考えて書いたのかと聞きたくなります。弘徳寺(現豪徳寺)のタマが井伊直孝を招いたのが「一八〇三(享和三)年」で、井伊直孝が死んだのが「一六五九年・万治二年」というのですから話になりません。タマが招いたのが井伊直孝の霊だというのなら話はわかりますが……。

 同じ井伊でも時代は幕末、井伊直弼が主役の縁起話もあります。さすがにストーリーは全く別物です。

● 豪徳寺説 その7
 井伊掃部頭直弼の愛妾は猫好きだった。その妾宅から桜田門外の本邸に帰った直弼は、嫉妬に狂った奥方に鼻の頭をかまれ、頬にも何本かのみみず腫れを作られた。その翌日は三月三日の総登城の日である。傷だらけの顔では将軍の前にでられないので、奥方が一計を案じて猫に引っかかれたことにした。そのためには、猫を手討ちにしなければならない。「猫こそ災難だが、他に名案はない。しかし、如何にも気が引けるので、手討ちにした死骸は、井伊家の菩提寺、世田谷の豪徳寺境内に立派な猫塚を営んだ」という。
出典:『色模様 江戸から東京へ』田井真孫著より要約
この情報は安次富さんに提供いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。

 顔が傷だらけなのを猫の責任にするのはいいとして、なんで手討にまでしなければならないのか? 面白い話ではありますが、現実にはあり得ないでしょう。あったとしても、井伊直弼と招き猫が結びつくことはありません。なぜなら、豪徳寺自身が井伊直孝を招き猫の縁起話の主役として語っているのですから。

● 豪徳寺説 その8
招福猫児の由来
まねぎねこのゆらい

東京都世田谷区豪徳寺一丁目所在の豪徳寺は幕末の大老井伊掃部頭直弼公の墓所として世に名高く寺域広く老樹欝蒼として堂宇荘厳を極め賽者日に多く誠に東京西郊の名刹なり、されど昔時は至って貧寺にして二三の雲水修行して漸く暮しを立つる計りなりき、時の和尚殊に猫を愛しよく飼いならし自分の食を割て猫に与へ吾子のように愛育せしが、ある日和尚猫に向い、「汝我が愛育の恩を知らば何か果報を招来せよ」と言い聞かせたるが其後幾月日が過ぎし夏の日の午さがり俄かに門のあたり騒がしければ和尚何事ならんと出て見れば、鷹狩の帰りと覚しき武士五六騎、門前に馬乗捨てゝ入り来り和尚に向い謂えるよう『我等今当寺の前を通行せんとするに門前に猫一疋うずくまり居て我等を見て手をあげ頻りに招くさまのあまりに不審ければ訪ね入るなり暫らく休息致させよ』とありけれぱ和尚いそぎ奥へ招じ渋茶など差出しける内天忽ち雲り夕立降り出し雷鳴り加りしが和尚は心静かに三世因果の説法したりしかば武士は大喜びいよいよ帰依の念発起しけむやがて『我こそは江州彦根の城主井伊掃部頭直孝なり猫に招き入れられ雨をしのぎ貴僧の法談に預ること是れ偏へに仏の因縁ならん以来更に心安く頼み参らす』とて立帰られけるが、是れぞ豪徳寺が吉運を開く初めにしてやがて井伊家御菩提所となり田畑多く寄進せられ一大加藍となりしも全く猫の恩に報い福を招き寄篤の霊験によるものにして此寺一に猫寺とも呼ぶに至れり。和尚後にこの猫の墓を建ていと懇に其冥福を祈り後世この猫の姿形をつくり招福猫児と称へて崇め祀れば吉運立ち所に来り家内安全、営業繁昌、心願成就すとて其の霊験を祈念する事は世に知らぬ人はなかりけり。

東京都世田谷区豪徳寺一丁目二四番六号
豪 徳 寺

(招福猫児配布所)

 お寺の和尚がいっているんだから、招き猫の生誕の地は豪徳寺で決まりだ! と結論づけるのは性急です。

 『江戸東京の庶民信仰』(長沢利明著)によりますと、「この伝説は井伊家による豪徳寺への庇護のとだえた明治維新後に、参詣客誘致のため、豪徳寺の檀徒有志が創作したものであることが明らかにされている」とのことです。つまり、豪徳寺の招き猫縁起話は、参詣客を呼び込むためのフィクションだったのです。

豪徳寺の招き猫
豪徳寺の招き猫

 否、例えフィクションだとしても、豪徳寺が招き猫という縁起物と物語両方を作ったのではないか、だから豪徳寺が招き猫生誕地なのだ、と言えないこともありません。しかし、招き猫は江戸期から存在していたとされ、明治維新以降の創作という豪徳寺縁起話はすでに存在していた招き猫をネタに作られたことになります。

 話は逸れますが、豪徳寺に残る(作られた)報恩猫の話は、全くオリジナルなものとは言えないようです。貧しい寺を猫が救うという報恩猫伝説は各地に残っているようなのです。

 京都の猫寺・称念寺にも、同じような伝説はつたわっている。ある晩、寺の住職は夢の中で、飼い猫から報恩のお告げを聞かされた。すると、翌日には土浦の松平家から姫の葬儀をひきうけてくれと、たのまれる。その葬儀を執行してから、同寺院は土浦家の支援をうけ、ゆたかになったという。

『人形の誘惑』井上章一著

 常滑で招き猫を買いますと、招き猫を紹介したチラシが入っており、その中に上記の称念寺で招き猫を授与していたと書かれています。しかし、現在はペット供養の寺となっているようです。

>>常滑焼きの『招き猫の由来』全文

■ 座布団 ■

 豪徳寺と招き猫ではなく、豪徳寺と猫を結び付ける縁起話も残っています。

 井伊直孝が没し、嗣子の直澄が父の遺骸を守って彦根に帰るときのこと、箱根の山中にさしかかると、激しい雷雨になり、火蛇が現れて直孝の遺骸を奪おうとした。すると、どこからともなく老僧があらわれて、雷雨をはらす祈祷をしよう、という。老僧が経文を誦むと、雷雨はやみ、火蛇も失せた。老僧は、世田谷の弘徳庵の住持である、と名告って消えた。
 直澄はこの奇瑞におどろき、その高僧の住む寺こそ菩提寺にふさわしいと、箱根からもどって、父を弘徳庵に葬り、井伊家の菩提寺と定めた。寺号も、直孝の法号をとって、豪徳寺と改め、伽藍を営み、田地を寄進して繁栄の基をきずいた。箱根の老僧は、この弘徳庵の飼い猫が化けたもので、庵主の恩に報いたものであるという。

※『旅と伝説』第三巻第五号
「東京郊外の伝説めぐり」矢野弦著(三元社)

 ある貧乏寺の坊さんが、猫をかわいがっていたが、病気で托鉢ができなくなった。そこで、猫によそに行くように告げると、その夜、猫が坊さんの夢枕に立った。いついつ箱根を井伊直弼の葬列が通る。その時に大雨が降るが、そこへ行って経をあげると雨がやむ。そうすれば、しあわせがくるという。そのとおりにすると、坊さんは信用され、遺骸はその寺に安置されることになった。それが豪徳寺であるという。

※『全国昔話資料集成』35
『武相昔話集』小島瓔禮著(岩崎美術社)

 以上は小島瓔禮著『猫の王』の中で紹介されていたもので、豪徳寺関連以外にも類似の猫檀家話が紹介されています。




● 遊女薄雲説を検証してみる

 豪徳寺説の次によく耳にするのが、遊女薄雲に関わる招き猫の縁起話です。愛猫に命を救われた遊女薄雲が猫の死を悼んで猫塚をつくった――というのが基本で、悲しむ薄雲のために客が木彫の猫の像を贈ったという後日談が付くものがあります。色々探してみると、7パターンが集まりました。まずは、後日談が付かないものから。

● 遊女薄雲説 その1
「元禄年間(一六八八〜一七〇四)、江戸新吉原京町・三浦屋お抱え遊女薄雲という評判の名妓がいた。
(中略)猫好きが有名で、愛猫に『玉』と名付けて可愛がっていたという。
(中略)彼女は日頃から三毛の子猫を溺愛し、緋縮緬の首玉に金の鈴をつけ、朝夕側から離さずに枕頭まで侍らせる程だった。そのうちよくない噂が立ちはじめたので、ある時三浦屋の主人が心配のあまり、その猫の首を打ち落としてしまった。すると、その首は宙を飛び、薄雲を狙っていた大蛇を食い殺したという。新でもなお主人に対する恩を忘れないその猫を不敏に思って人々は猫塚を建立した」
出典:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論
猫を抱く薄雲
薄雲と猫(広重)
出典:『猫と日本人』永野忠一著

 吉原の三浦屋に薄雲という花魁がいたのは間違いないようです。猫好きも知られていたようで、猫を抱いた薄雲の絵を広重が描いています。そして、この話は、『燕石十種 第五巻』に含まれる『近世江都著聞集第五』の「三浦遊女薄雲が伝」が元になっているようなのです。要約といってもいいでしょう。長くなるのでここでは割愛しますが、原本を読んでみたい方は、こちらをどうぞ。

>> 「三浦遊女薄雲が伝」全文

● 遊女薄雲説 その2
「吉原の太夫は高尾と薄雲に代表されるが、いずれも京町三浦屋の抱えである。薄雲太夫は信州埴科郡鼠宿の出身で、元禄年間に全盛を極めた。鼠宿生まれのくせに大の猫好きで、玉という三毛猫を溺愛し、太夫道中にも禿に抱かせて連れ歩くほどであった。ところがある日、薄雲が入浴の折り、玉もいっしょに入ろうとする。もちろん叱って追い払おうとしたが去らず、凄まじい形相で呻りつづけた。三浦屋の主人や男衆が駆けつけ、玉を追おうとするがやはり離れない。これはてっきり狂ったか、さもなければ薄雲に魅入ったのであろうと、主人が脇差で玉の首を刎ねた。すると玉の首は風呂場の竹窓に飛び、そこから這いこもうとしていた大蛇の咽にかみついた」
「猫はそれを知って主人を守ろうとしたのかと、人々も初めて覚ったがもう遅い。薄雲は勿論、他の人々も猫の忠義を憫れんで、その死骸を近所の寺へ送って厚く弔ってやりました」
(『半七捕物帳 薄雲の碁盤』岡本綺堂著)
出典:『江戸編年事典』稲垣史生著・『岡本綺堂 江戸に就いての話』岸井良衛編

 歴史考証家の稲垣史生氏は『江戸編年事典』に上の話を掲載し、その結びで「その頃の吉原は、周囲に田圃や草原が多いので、大蛇が這いこんでもふしぎではない。しかしこれは猫好きの薄雲へ、猫ではなく忠犬の伝説を持ちこんだものである。単に薄雲が猫を愛せし事実にとどめたい。この猫を『招き猫』の元祖とするなどは、いよいよ根もない妄説であると手厳しく否定されています。
 よく読めば解ることですが、薄雲が愛猫の猫塚を建立しただけで、招き猫に関わるようなことは一切登場しません。

● 遊女薄雲説 その3
 吉原の名妓、薄雲太夫である。薄雲は、猫の年かと思うほど、明けても暮れても、ミイちやんを可愛がり、彼女にモテようとする客たちは、ミイちやんの機嫌を取るのに苦労した。
 ある夜のこと、薄雲太夫が便所へはいろうとすると、ミイ公が裾をくわえて離さない。その眼付きが、あまりに真剣なので、しまいには、薄気味が悪くなり、
『誰か来て……』
 声に応じて、楼主の三浦屋次郎右衛門。水もたまらず抜き打つと、胴を離れたミイ公の首は、流星の如く空を飛び、便所の天井板の間から鎌首をのばしていた毒蛇の喉へ噛みついた。さては、蛇のいるのを知つて、言葉のいえぬ悲しさに、裾を必死に引つぱつたのかと、薄雲は涙のかれるほど泣いた。そして、日本堤の西方寺に猫塚を営み、招き猫の像を建てた。
 西方寺は大正の震災で、豊島区西巣鴨へ引越したが、門の上には、いまでも招き猫を乗せている。
出典:『色模様 江戸から東京へ』田井真孫著
この情報は安次富さんに提供いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。

 この縁起話では、愛猫の猫塚を建立したときに、招き猫の像を建てたことになっています。また、宮崎良子著の『招き猫の文化誌』「道哲(西方寺)は大正十二年の大震災でやけてしまっていたが、その猫塚は、自然石でできていて寝ているような猫の姿の形をしていららしい」とあります。こちらの話では招いてはいなかったようです。寝ながら手招いていたのなら別ですが。

猫を抱く薄雲
西方寺門柱の上の招き猫

 ともかく、「その塚は大正十二年九月の関東大震災で潰滅し、その後豊島区西巣鴨四丁目浄土宗西方寺に改葬となった。今高尾塚のある側のこの寺門の上に一匹の招き猫の石像が据えてあるのが、現住職が忠猶の徳を讃えて作ったものであるという」(『猫・ねこ・ネコ』粟津きよさと著)ので確かめようがありません。

 『近世江都著聞集第五』の「三浦遊女薄雲が伝」に書かれていない後日談がつく話もあります。後日談では力業で招き猫を登場させています。

● 遊女薄雲説 その4
「信州埴科の百姓清左衛門という者の家から出た遊女薄雲は、京町一丁目三浦屋四郎左衛門抱えの太夫で、高尾と同じ郭で全盛を争ったのであるが、大の猫好きで知られていた。いつも猫を抱いて道中し、愛猫のために友禅の布団を作り、緋縮緬の首輪には純金の鈴をつけてやったという。ところがこの愛猫が、ある日化け猫に間違われて殺されてしまった。悲しんだ薄雲は吉原をあげて葬式を出し、土手の道哲寺に埋葬してやった。(中略)
 この話を客の一人である日本橋の唐物屋の主人が聞いて、薄雲を慰めてやろうと、わざわざ長崎から伽羅の名木を取り寄せ、愛猫の姿を彫って薄雲に贈った。薄雲はたいへん喜び、木彫りの猫を片時も離さず、その猫を抱いて道中した。この猫の模造品を作るものがいて、浅草の歳の市で売り出したところ、たちまち全国の水商売を営む人々に広まった。これが『招き猫』のはじまりだというのである」
出典:『民具の博物誌』岩井宏實著
参考:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論著
 猫を飼っていた遊女を信濃屋薄雪(うすぐも)太夫とする説もあり。この場合、客の一人が銘木で猫を彫り、薄雪に贈ったのが招き猫の始まりとなっている。
出典:『猫は三年の恩を三日で忘れるは本当か?』武藤眞著

 これと同じ伽羅の木で猫の像を彫った話は『猫・ねこ・ネコ』(粟津きよさと著)でも紹介されていました。

● 遊女薄雲説 その5
「その猫の形は左手を耳の上にあげて、おいでおいでをしている姿であった。この客は当時にあって支那の学問が出来た男と見えて、その出典が『酉陽雑姐』後集巻八の『俗言猫洗面、過耳則客至』にあったことは頗る面白い」と、薄雲に贈られた木彫の猫の像は左手上げの招き猫であったと書いてあります。更に、「兎に角これが江戸中の大評判になって、この左利きの猫は商売繁昌の福の神として、後世に至るまで世人にあがめられている」というのです。そして、左手上げの招き猫が客を招くという通説の根拠としています。
出展:『猫・ねこ・ネコ』粟津きよさと著

 本当なのでしょうか? どこで見たのでしょうか? 残念ながら出展は書いてありません。

● 遊女薄雲説 その6
「ある朝、トイレに入ろうとすると、愛猫が裾をくわえて引っぱった。あまりしつこいので、『こいつ、気が狂ったなッ』と、楼主の四郎左衛門が刀を抜いて猫の首を切ってしまった。ところが切られた首はロケットのように飛んでトイレの天井裏にいた蛇の喉へ噛みついた。猫は蛇が主人を狙っているのを知って必死に引き止めたのだが、悲しいことに言葉が通じなかったのだ。薄雲太夫は涙がかれるまで泣いた。そして愛猫の姿を今戸焼きに焼かせて守り本尊にすると、色町の女性たちの間にひろまって誰もがタンスの上に祀って幸運を祈った」
出典:『江戸女人物事典』田井友季子著

 この縁起話では、今戸焼きで焼いたとなっています。元禄6年に発刊された井原西鶴の『西鶴置土産』に、「土人形師が浅草の北の方にいた」(『今戸焼』東京都江戸東京博物館調査報告書第4集館蔵資料報告1)との記述があり、元禄年間(1688〜1703)には今戸で土人形が焼かれていと考えていいでしょう。しかし、「今戸土人形の人気が出、『今戸焼』というブランドが18世紀後半に確立した」(同)と思われます。元禄の頃の今戸焼は瓦や土器が中心であり、吉原の花魁の頼みとはいえ、猫の人形を焼いたとは思えません。
 そもそも、今戸土人形は三文人形とも呼ばれ、安価な庶民的な土産物として人気が出ました。吉原の花魁が愛猫の姿をそんな安物の土人形に焼かせるとはとうてい考えられません。絶対にないとは断言できませんが、すこぶる怪しい縁起話です。
 今戸焼と招き猫の関係では、後ほど紹介する浅草の老婆が猫の人形を焼いたという縁起話の方が近いと思われます。

● 遊女薄雲説 その7
 昔、吉原の太夫が買っていた猫が、死んでしまって大々的に葬式まで上げた。猫を飼っていれば、太夫になれるという噂で猫を飼うこと、もしくは猫の人形を持つことが吉原遊女にひろまった。
 これは招猫倶楽部をご覧になったS.Sさんからの情報です。出典は記憶されていないそうですが、何かの本で読まれたとのことです。この吉原の太夫というのが、薄雲のことかどうかは不明ですが、吉原太夫関係ということで、遊女薄雲説に入れてみました。
 S.Sさん、情報有り難うございました。

 とまあ色々なバリエーションがあるのですが、元になった話は先述の通り、『近世江都著聞集第五』の「三浦遊女薄雲が伝」でしょう。ここで注意しなくてはいけないのは、「三浦遊女薄雲が伝」には招き猫はおろか、招き猫の土人形、木彫り人形、どちらも登場しないということです。後日談の伽羅の猫像や今戸土人形がどこから生まれた縁起話なのかは不明です。おそらく、薄雲と招き猫を結び付けるための創作でしょう。歴史考証家の稲垣史生氏が書かれているとおり(『江戸編年事典』)、遊女薄雲に関しては、その様な逸話があったのは事実かもしれませんが、招き猫に結び付くとは思えません。

 その後、色々調べていく内に、動物研究家(?)の平岩米吉著の『猫の歴史と奇話』という本を見つけました。この本を読んでみますと、薄雲と猫の話自体が怪しいものだということが解ってきました。
 薄雲の話は元禄七〜八年(一六九四〜五年)とされていますが、その三十年以上前に京都に主人の命を狙う蛇を噛み殺した猫の話があるのです。『松下菴随筆』に載っている話で、万治の頃(一六五八〜六〇年)の京都は岡崎での出来事です。ある浪人の娘が可愛がっていた猫が厠にもついていこうとするので、猫に娘が魅入られたと思われるのを恐れて猫を捨てました。その夜、娘が厠に行こうとすると大蛇が襲ってきたが、捨てたはずの猫が戻ってきていて、大蛇を食い殺し、娘の命を救ったというのです。この話を引用し、有名な遊女薄雲と猫の話は、これに基づいて作られたものであろう、と山東京伝が『朧月猫乃草紙』の中で書いているそうです(『猫の歴史と奇話』平岩米吉著)。他にも、松平定信著『退閑雑記』(寛政十二年・一八〇〇年)、同著『花月草紙』(享和三年・一八〇三年)に同類の話が載っているということです(同)。
 こうした蛇を食い殺す猫の報恩談自体も、実は忠犬伝説を基にしていると平岩氏は述べられています。『今昔物語』の忠犬伝説をはじめ、「害心あるものと誤られた犬が、首を刎ねられると、その首が飛んで、樹上でねらっていた大蛇に咬みつき、主人を救ったという」(同)多くの話が残っているそうです。
 更に平岩氏が著書の中で述べられていますが、薄雲の猫が殺されたとされる「元禄七〜八年ごろといえば、綱吉将軍の『生類憐みの令』が徹底的におこなわれていた時代で、どんな理由があるにせよ、犬や猫を殺すということは到底できるはずがない」のです。そう言われればその通りで、今まで気付かなかったのは猫に魅入られていたのでしょうか。恥ずかしい話です。
 ということで、薄雲の話は作り話の可能性が高いということになります。薄雲が猫が好きで、愛猫のために猫塚を建立したというのは真実だと思います。しかし、刎ねられた猫の首が大蛇を噛み殺した云々というのは創作でしょう。薄雲の話が招き猫に結びつくと考えるのには無理があると思います。

 もっとも、招き猫の縁起話としては作り話でも差支えはありません。この伝説を基に後世の人が招き猫を創作したと考えることは可能でしょう。しかし、それならば招き猫は小判を抱える代わりに蛇を咥えていると思うのですが……。




● 金猫銀猫説を検証してみる

 江戸時代、遊女を隠語で「ねこ(寝子)」と呼びました。そのことから、女郎屋が猫の置物を置いたことを招き猫の始まりとする縁起話もたくさんあります。

●金猫銀猫説 その1
 吉原の遊郭の一つ、猫屋が金銀で飾った猫を飾ったのが始まり。銀の猫を飾った遊郭が早く潰れたそうだ。
 江戸時代、三味線や芸者のことを猫とも呼んだとか、格子から手招きする遊女の姿が人を呼ぶという猫の手招きの(顔を洗う)姿に似ているとか、猫と花柳界は関係が深いようである。
参考:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論著
『来る福 招き猫手帖』荒川千尋・坂東寛司著

 いろいろ調べてみましたが、吉原に猫屋という女郎屋があったという記録はまだ見つけられていません。

●金猫銀猫説 その2
 天明年間(1781〜)、本所回向院前、一つ目弁天前の遊女屋が、それぞれ金猫銀猫の置物を置いて繁盛した。
参考:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論著
『来る福 招き猫手帖』荒川千尋・坂東寛司著

 本所回向院前で商売をした揚げ代が金一分の遊女を金猫、二朱(金一分の半額で銀でできていた)の遊女を銀猫と呼びました。金猫銀猫は遊女の呼称であったのです。本所辺りには、そこらじゅうに金猫銀猫と総称される遊女がいたわけで、ある遊女屋だけが猫の置物を置くというのはおかしいのではないでしょうか。

 金猫銀猫の置物を置いて女郎屋が繁盛したというのは、寛政九年(1797)刊行の喜多順有著の『親子草』(『新燕石十種』収録)という随筆を元にしていると藤田一咲・村上瑪論著『幸せの招き猫』には書かれています。そこで、この『親子草』を当ってみたところ、

「本所回向院前、一つ目辨天前、此二箇所を猫といふ」

 という記述がありました。しかし、金銀の猫の置物を置いたという記述を見つけることが出来ませんでした。その代わりに見つけたのが、昭和五年刊の有坂輿太郎著『おもちや葉奈志 招猫』という本の以下の記述です。

「天明時に行はれた金猫銀猫と称する魔窟が店頭に金猫を彩つた大きな招猫を飾つたのに基づくらしい」

 とあり、先の『親子草』の記述が続きます。この有坂氏の記述が何を根拠としたものかは不明です。

 この金猫銀猫説には更に具体的な人間の物語を付随させるものもあります。

●金猫銀猫説 その3
「花柳界の縁起棚に招き猫を飾るようになつたのは、今から百五六十年前の明和頃からのことである。その頃向ふ両国は回向院のほとりに、金猫銀猫の延喜招きを置いた二軒の売女屋があつた。西側の店を金猫と呼び東側の銀猫を俗に東家と呼びなして、旺んに客をよんでゐたものであると、当時の柳樽にも
 回向院ばかりは涅槃に猫も見へ
 と云ふ句があり、又彼の俳書奴師労(ヤッコダコ)にも『天明の頃まで両国の東回向院の前に隠売女あり、金一歩を金猫といひ、二朱を銀猫といひしなり』云々と見へてゐる。(中略)銀猫の亭主彌平というふは(中略)始終家を外に遊び暮らしてゐた。それに引き換へ女房のお綱は如才のない女で、世辞もよければ愛敬もあつて人気者の一人に数えられてゐた。(中略)両国の村松町に近江屋といふ古着屋があって、(中略)番頭の八郎兵衛というふが、(中略)いつか女房のお綱と人目を忍ぶよい仲となつたが、(不義密通を知った亭主彌平の策略で八郎兵衛)いつか主家の大金を費ひ込んで今更工面もならず、(それを知った女房お綱も)はた博奕打の女房として此の先々憂苦労を見んよりはとの厭世気分も手伝つてか、共に死ぬ気になり(中略)情死を遂げたのであつた。
 此の情死沙汰が市中の大評判となつて当時の浄瑠璃や芝居狂言にまで仕組まれて、非常に人気を沸かしたものであつたと、金猫の方は競争者もなくなつたので、天明の末頃までに彌栄へに栄へてゐた。今に伝はる客商売の家々に招猫を飾る風習は実に之れが縁起をなしたものであると」
(『大東京猟奇』吉井武平著;亀甲堂;一九三五年)
出典:『招き猫の文化誌』宮崎良子著
●金猫銀猫説 その4
 両国に、金眼、銀眼という遊女屋があつた。湯河原温泉の金ペン、銀ペンのようなものらしい。ここを舞台として、おつま八郎兵衛の悲恋物語が発生するが、それはそれとして、金眼の猫、銀眼の猫を、招き猫の姿に作つて、看板に置いたところが素晴らしく人気に投じた。それを江戸中が真似しはじめたというのである。
出典:『色模様 江戸から東京へ』田井真孫著
この情報は安次富さんに提供いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。

 浄瑠璃や芝居狂言でそのような心中話があったのは確かなよう(『招き猫の文化誌』宮崎良子著)です。また、当時の演劇は実際起こったスキャンダラスな事件を素材として演じられることが多々ありました。おつなの話は史実かもしれません。
 しかし、その3で引用した芝居の記述には、招き猫はおろか、金猫銀猫を置いたという記述すらありません。招き猫があったと言っているのは、上の文章を書いた吉井氏だけです。その根拠となるものは全く明らかにされていません。また、その4は芝居と現実を混同しているように思えます。
 最も、この辺りの真相は、芝居の脚本などを当たるまでは不明とすべきでしょう。個人的にはおつな(おつま)の悲恋話と招き猫を関連づけた創り話だと思います。

難波八坂神社の招き猫
難波八坂神社の招き猫
こんな金銀猫だったのか?

 そもそも、金猫銀猫が招き猫の始まりとするのならば、招き猫は三毛猫ではなく、金銀の猫で流行るのではないでしょうか。金銀といういかにもお金や繁栄につながりそうな色を捨てて、白や黒を選ぶとは思えません。招き猫は花柳界(遊女屋)を中心に流行ったといわれます。花柳界なら、金猫銀猫を作る資金は持っていたはずです。
 金銀の猫の人形ではなく、金猫銀猫の遊女を置いて繁盛した、というのが本当のところではないでしょうか。




● 小判猫説を検証してみる

 先の紹介した遊女薄雲説は、報恩猫の伝説をもとにしていますが、こちらの小判猫説も主人に小判を運ぶことで恩返しするという報恩猫の伝説から派生したものです。

●小判猫説 その1
「『宮川舎漫筆』によると、文化十三年春(一八一六年)のこと、江戸両替町の時田喜三郎の家に飼われていた猫は、平常出入りの魚屋が、来るたびに魚肉をくれるので、その魚屋が来ると、まず猫が出て魚をねだるようになっていた。
 ところが、魚屋が病気になり、長わずらいで少しの貯えもなくなった時、何人とも知れず、金二両置いていったものがある。それで快気して久しぶりに時田方を訪ねると、いつも出てくる猫が出てこない。不思議に思ってきくと、『先達て、金子二両がなくなり、(中略)この猫の所為ならんとて、猫をば家内寄り集まりて殺したり』とのことであった。
 これを聞いて魚屋は涙を流し、先日思いもかけぬ金を得て難儀をすくわれたわけを話し、(中略)金をくわえ出したのも、日頃魚を与えられた恩に酬ゆるため、魚屋の元手にやろうとの志であったろうに、不びんなことをしたと人々皆感じ入った。(中略)
 私は先年(昭和四十三年五月)東両国の回向院に、この猫の墓を訪ねたが、墓石は三重の台石(約六〇cm)の上にあって、(中略)正面に『徳善畜男』と『三月十一日』の文字があり、その下の台石に横に『木下伊之助』と刻まれていた。(中略)猫に救われた魚屋の名であったろう。また墓石の上にはお粗末だが、丸くなって寝ている猫の石像がおかれていた」
出典:『猫の歴史と奇話』平岩米吉著
参考:『ニッポン神さま図鑑』宗教民俗研究所著

 この小判猫の話が評判となり、左手を上げ、右手に小判を抱えた招き猫が作られるようになったといわれています。

>> 『宮川舎漫筆』関連部全文

●小判猫説 その2
 ある職人が怪我をして働けなくなった。職人は食うに困り、飼い猫に苦しい胸のうちを語って聞かせた。すると、その飼い猫が毎日小判をどこからかくわえて運んでくるようになった。ここから招き猫につながるかどうかは不明。
出典:『猫は三年の恩を三日で忘れるは本当か?』武藤眞著よ要約

 小判を運ぶ猫が登場する猫の報恩談は数多く存在します。上の紹介したものの他にも、同じ文化十三年のこととして、『街談文々集要』「文月猫名誉」と題された話があります。神田川辺の魚屋、福島屋清右衛門に猫が恩返し、同様に二度目に小判を運ぶ時に殺され、回向院に葬ったということです(『猫の歴史と奇話』平岩米吉著)。明治三十七年(一九〇四年)にも東北に病に伏した魚屋に玉子を運ぶお寺の猫の話があります(同)。

 小判猫の報恩談は、そこら中にある話で、同じ年に同じ回向院に同じような逸話があるというのは何とも疑わしい限りです。フィクションかどうかはともかく、猫の墓には丸くなって寝ている猫の石像が残されているのですから、招き猫がこの話を元にしているのならば、寝姿でないとおかしいのではないでしょうか。もしくは、墓石の猫が手招いていなければ話になりません。

猫を抱く薄雲
小判をくわえた猫

 右の写真は深川江戸資料館で飾られていた猫(?)です。これは現代のものですが、もし猫が小判をくわえて帰ってきたとしたら、こんな風になったのでしょうか?

 小判猫説は、猫の報恩談を招き猫に結び付けたものでしょう。いずれも恩を返してくれた猫を手厚く葬った程度の話で、直接、招き猫が登場するわけではありません。招き猫が小判を持つようになるのはかなり時代が下がってからのことと思われるのです。古い招き猫ほど小判は持っていません。




● 今戸土人形説を検証してみる

 最後に検証するのは今戸土人形説。豪徳寺説や遊女薄雲説に比べると地味ですが、伝説の真偽はともかく、招き猫が生まれたとされる年代に一番近いことから、注目される話です。

●今戸土人形説 その1
「浅草今戸に独り暮らしのお婆さんが、金目の三毛猫を飼ってからトントン拍子に運が向いた。そこで人々がこれにあやかりたいと、土で作って神棚に祀ったのが今戸名産招き猫の起源」
出典:『江戸女人物事典』田井友季子著
猫を抱く薄雲
今戸焼の風景(明治頃)
●今戸土人形説 その2
「浅草花川戸に住む一老婆が、一匹の猫をわが子の如く愛育した。が、寄る年波に、やがて老婆は生活にも窮し、泣く泣く愛猫と別れて縁者へ引き取られていった。ところが、その夜猫が夢枕に立ち、『自分の形をこしらえて売ったなら、必ず福徳がさずかろう』と教えた。よって老婆が今戸焼で猫を作ったところ、いいことばかりが続く。評判を聞いて借りた人も、また幸運つづきとあって、布団を作り供物をして拝むようになった。老婆はやがて三社権現の傍らでこの今戸焼の猫を売り、大いに富んだとある」
出典:『江戸編年事典』稲垣史生著
●今戸土人形説 その3
「日々の暮らしもままならない貧しい老婆が、たいへん可愛がっていた猫をついには飼えなくなってしまった。よくよく猫に今の生活が苦しいことを言い聞かせて手放したところ、その夜、その猫が夢に現れた。そして自分の姿を今戸土人形にして裏に丸〆の印を付けて売ることを教えてくれた。すると、不思議や不思議、丸〆の猫はたちまち縁起を呼ぶ招き猫として評判になり、大いに売れたという。
 これはあくまでひとつのお伽話のようなものであるが、これが嘉永年間(一八四八〜五四)に浅草の今戸で売られたという〈丸〆猫〉なのだ。招き猫の優れものといわれ、いまや幻の招き猫となっているものである」
出典:『幸せの招き猫』藤田一咲・村上瑪論
●今戸土人形説 その4
「浅草で駄菓子屋を営んでいたおばあさんが、どうにも商売がうまくいかず、いよいよ店を畳もうかという時、夢枕に立った一匹の年老いたネコに、『この形の猫を作れば福がつくであろう』と教えられました。
 夢枕のお告げ通りの形招き猫を売ったところ、これが爆発的に売れて、お婆さんは一躍財をなしたという話です」
出典:『猫は三年の恩を三日で忘れるは本当か?』武藤眞著
●今戸土人形説 その5
 浅草の今戸に、貧乏な未亡人が住んでいた。人生に絶望して、隅田川へとびこもうかと思つたが、ふとしたことで、金眼のオス猫を飼つたところ、トントン拍子に運が向いて、大層幸福になつた。聞き伝えた人が、猫を借りて行つて飼つておくと、忽ちその人も不幸が舞いこむ。我も我もと、借り猫の希望者が殺到したので、婆さんは、今戸焼の製造所と相談して、その猫の最も得意なポーズの肖像を作り、身代わりとして配布した。浅草名物、今戸焼の招き猫がこれである。
出典:『色模様 江戸から東京へ』田井真孫著
この情報は安次富さんに提供いただきました。この場を借りまして御礼申し上げます。
●今戸土人形説 その6
 江戸浅草のほとりに野菜の担売りの男がいた。患った父と嫁の三人の貧しい暮しであった。ある日、男は「お前を養うことも出来ぬほど貧しくなった、お前もよく思案しておくれ」と飼い猫に憤懣をぶつけた。看病疲れのぼやきで、悪気はなかった。しばらくして猫は姿を見せなくなった。男も嫁も忙しさにまぎれて猫のことは幾日かたつと忘れてしまった。
 ある日、病床の父が猫はどうしたと嫁に聞いた。夜は床の上で寝ているが昼間は姿を見ないというのだ。夜、猫が痛いところの上に乗ると痛みが消えてよく眠れるという。そのせいか、父の痛みはやわらいでいった。
 数日後、「貴方の家に木とか土で作った猫がありますか? 夢に見ました。是非買い受けたい」と訪問者があった。男は近所の番太郎(番屋の男)が手遊びに作った土の猫を持っていたので、それを売った。翌日、翌翌日と、同じように猫を求める客がやってきたが猫の人形はもうない。近所の人のアドバイスで、今戸から土の猫を仕入れたところ、不思議と次々と売れ、家の暮らしがよくなり父の患いも快方に向かった。そして、飼い猫が戻ってきた。
 嘉永4年(1851)の冬、男は浅草寺随身門に見世を開いて今戸焼きの猫を売り出した。半年もすると大評判となった。
出典:『江戸時代諸国奇談』原武男著より要約

 今戸土人形説はバリエーションが豊富です。老婆になったり老翁になったり、老婆の職業もいろいろ変わります。しかし、基本は夢枕に立った飼い猫の言う通りに今戸土人形を作ったらよく売れたというところです。この元になっているのは、『武江年表』嘉永五年の記述かと思われます。紹介済みのその2が『武江年表』に一番近いようです。

>> 『増訂武江年表』関連部全文

 ご覧のように招き猫は登場しません。丸〆の猫も登場しません。出てくるのは今戸焼きの猫の人形です。この猫が招き猫なのか、ただの猫なのか、この辺りが一番重要となるのですが、どの出典もこのことに触れてあるものはありません。
 それでも、この今戸土人形説が一番真実に近いような気がします。老婆の枕許に猫が立ったかどうかは別として、誰かが手を上げた猫の姿を土人形にしようと思い付いたのでしょう。それがたまたま評判になって売れた、といったところではないでしょうか。伏見土人形の流れをくんだ猫の土人形の中で、顔を洗う姿のものが人を招くみたいで縁起がよさそうだというので、顔を洗う猫の土人形がよく売れた――その程度のことだったのではないでしょうか。

 尚、今戸土人形説は次の【第2章 江戸の招き猫を探す】でも考察します。

 今戸土人形説の中でも、その6はちょっと異質です。この逸話の元本『巷街贅説』をあたったところ、招き猫の挿し絵にめぐり会いました。この『巷街贅説』についても【第2章 江戸の招き猫を探す】で詳しく考察します。




● 招き猫縁起話エトセトラ

 その他にも招き猫の縁起話は存在します。こちらに紹介するのは明らかにこじつけ、作り話の類です。招き猫もいろんな姿を見せてくれますが、縁起話もバラエティに富んで楽しいものです。

●大陸から来た招き猫
 『週刊文春』の連載『読むクスリ』に招き猫の話題が載りました('97.4.10号/'97.4.17号)。それを読んだ発明学会常任理事・日本狆クラブ副会長の末長昇さんから、招き犬に関するお手紙がよせられたそうです('97.4.24号)。
 狆というのは日本で品種改良された犬で、神社の狛犬は狆の原型とされているとのこと。狆はもともと魔除け、開運の犬だったわけです。日本狆クラブ副会長である末長さんは、招き猫に負けじと招き犬を作られました。
 さて、招き犬の末長さんは、中国の大連で生れ、子供の頃、中国人の家庭で招き犬を見た覚えがあるそうです。「最近中国の人に確かめてみましたら、あちらでは十二支の動物はたいてい、手を挙げた縁起物にこしらえていたそうです」ともおっしゃっています。招き猫の元祖は中国にいるのでしょうか?
 子、丑、虎、卯、辰……辰? 巳……蛇? と考えていったら、辰、巳、酉は手を上げようがありません。それ以外の動物達は手を上げて招いていたのでしょうか? 猫は十二支に入っていないので、中国には招き猫はないそうです。もし、中国にルーツがあるとしたら、十二支をそのまま輸入した日本で、なぜ招き猫になったのでしょう?
 果たして中国に招き戌は存在するのか。今のところ未確認です。もし、中国の縁起物に関する情報をお持ちの方がおられましたら、ご一報下さい。
●両手上げ招き猫の縁起話
 東京に『えんぎ屋』という縁起物専門店があり、オリジナルの両手上げ招き猫を販売しています。その通信販売のチラシを出雲市の侘茶さんが送って下さいました。その中に、両手上げ招き猫に関する平安時代の縁起話が載っていました。
「その昔、讃岐の満濃地の潅漑工事をまかされた弘法大師(空海)が、かつてない難工事に悩まされ、思い余って近くの黒見十二社に、成功を祈願したところ、山頂より現れ、両方の前足を上げて、しきりに招く動作をくり返した猫がいました。すると、大変、不思議なことにそれ以来、次から次へと人手(労働力)が集まり、また、たちまちのうちに朝廷(御上)からも多額の資金がくだされたというのです。以来、この空海上人を救った猫は黒見十二社の権現様として大切に奉られております。「人来い、金来い」の両手上げ招き猫は、この故事より誕生した元祖、招き猫であり、ほんとうのご利益を授ける招き猫としてごく一部の人々に驚くほど信奉されておりました。『えんぎ屋』が招き猫の研究を通して、ついに発見した両手上げ招き猫こそ、この由来を持つ元祖、招き猫なのです」
 この両手上げ招き猫は、『えんぎ屋』が選ぶ平成8年度えんぎ物大賞に輝いたそうです。尚、チラシの画像は〔平成珍猫百覧会〕にあります。
 侘茶さん、情報提供ありがとうございました。
●絵を描く猫
 この【招猫倶楽部】をご覧になっているなるとさんから、絵を描く猫が招き猫の元になっているという情報を頂き、メールで文献の引用を送ってくださいました。
1893年、小樽のある村に住むよろず屋の主人が、飼い猫のオタキがものした絵を売りに出したが、この絵には、書道の文字のような雰囲気が漂っていた。それにヒントを得た店の主人は、この猫の絵を利用して運勢占いめいたことを始め、店の客寄せに成功を収めた。オタキの才能とこの猫が主人にもたらした富の話は、たちまち国中に広まり、今世紀末頃になると、この猫が絵を描いている姿は客扱いの良さと商売繁盛のシンボルとなった。今日の日本でも、客寄せのおまじないとして、片方の前足を挙げて絵を描く姿勢をとった招き猫を店頭に飾っている店が少なくない。
「WHY CATS PAINT」より抜粋 Heather Busch, Burton Silver/著 Benedikt Taschen


● それにしても、招き猫縁起話の多いことと、そのバリエーションの広がり、イマジネーションの豊かさには感心させられます。招き猫自身、そのデザインにおいてバリエーションが多く、その多様性が招き猫の魅力になっています。縁起話の多様性もそうした招き猫の魅力の一つなのでしょう。
 いずれにせよ、江戸の後期、遊女薄雲や金猫銀猫などの色街で生れた逸話を元に、今戸の土人形に招き猫が始まった、というのが世間の定説です。そして時代が下がり、三毛猫が小判を抱えている姿の招き猫が常滑で量産されるにいたり、三毛猫、小判という、我々が連想する招き猫のスタンダードな姿が定着したようです。
 どの縁起話を信じるかは、貴方しだいです。それどころか、新しい招き猫の由来を作ることだって出来るのです。

 しかし、実際のところ、招き猫はいつどこで生まれたのでしょう。世間の定説では、招き猫は江戸時代から作られるようになったとなっています。しかし、江戸の風俗が好きで色々な江戸の文献、江戸研究の文献を読んできましたが、一度も「招き猫」の記述を見たことがありません。本当に招き猫は江戸時代に生まれたのでしょうか?

【第2章 江戸の招き猫を探す】

2002/12/1


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