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どこにもいない江戸の招き猫
本当に江戸時代に招き猫はいたのでしょうか?
招き猫は江戸時代の花柳界で流行したという通説があります。それではと、前出の江戸風俗本である『近世風俗史』の「第二十編 娼家 下」を調べてみました。「招き猫」の項はありませんが、 「娼家」のところに「縁儀棚」という項がありました。招き猫は縁起物。もしかしたら、招き猫が登場するかもしれません。期待が持てそうです。
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| 吉原の縁起棚 出典『浮世絵に見る江戸の暮らし』 |
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『幸せの招き猫』の最後のページに美しい堤土人形(宮城県)の招き猫の写真と、「江戸時代の型からぬかれたもの」という解説があります。彩色は別として、その整い過ぎた形が江戸時代のものだとは思えません。古い招き猫は必ず首輪か前垂れをしていますが、その招き猫は首に何もつけていないのです。それに尻尾が長い。昔は尾の長い猫は猫股になると嫌われました。古い招き猫は短尾が多いのです。堤土人形そのものは江戸時代から存在しましたが、招き猫の型は時代が下がって登場したものではないでしょうか。 |
● 延宝年間(1673〜1681)
張抜きの猫も知る也今朝の秋
この句は延宝七〜八年(1679〜1680)の作と言われています。深川転居以前で、素堂上野不忍池畔に住んでいた時に詠んだようです(『芭蕉年譜大成』今栄蔵著)。
これは張子の猫を詠んだようですが、招き猫であるかは不明です。おそらく違うと思われます。この「張抜きの猫」というのは、頭を振る猫の張子と推察されるのです。と言いますのも、風に頭を揺られて張子の猫も秋が来たのを知るというのが句の意味だからです。ここでは、延宝年間にはすでに、江戸(江戸産かは不明)に張子の猫の置物があったという事実にとどめたいと思います。
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| 『彩画職人部類』の土器 出典『図説日本の人形史』山田徳兵衛編 |
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| 拡大図 |
富士見西行、五重塔、鐵砲擔いだ猟師、腹鼓打つ狸、はては今戸新造と云ふ様な土焼が最も普通であったが、鬼とあるのは――
とあり、猫のネの字も出てきません。
世渡りに今戸ハ猫を焼いて喰イ (樽八七25オ)
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子供らにいさとらせなん猫もあり
またあらかねの土の西行
これは伏見人形を詠んだ狂歌です(出典『伏見人形』塩見青嵐著)。猫の伏見人形の存在を読み取ることができます。しかし、この狂歌がいつの時代に詠まれたものかは今のところ不明です。狂歌は江戸時代に流行しましたから、江戸時代だとは思うのですが、断言はできません。この狂歌がいつ頃詠まれたものかご存知の方がおられましたら、ご一報ください。 |
「天保頃、同所で特に猫を製作してゐた事は、明らかに判るであろう。畢竟するに招猫は江戸によって生れ、江戸によって流行したのであって、地方に存在する同型のものは、単に江戸の傍系に過ぎないのである」
「同所」とは本所のことですが、本所で猫が製作されていたことの例証として、有坂氏は為永春水『春色傳家の花』の一節をあげています。
鎌倉の大河を越へて東の方、園庄の面手町とかいふ所に、最も貧困しき母子あり、母は活業の手所為に土人形を細工へて、娘もこれを見ならへば、猫の形、鼠の形なんどを七才八才の頃よりこしらへ覚え、是に僅かの價なれども、母の活業の手助と幼遊びは少しもせず(中略) ▲「アノウ此の節は猫娘が大壮に他見繕て歩くのウ」 ●「ヲヤヲヤ猫娘とは気味の悪い、何處の娘だ」 ×「猫が邪崇いてゞもゐるのかネエ」 ●「アレサ察知の悪い衆女だノウ土人形屋の娘よ」 ×「チヤ何故彼小女の事を猫娘といふのだ」 ▲「アレサ彼小女は近頃まで母人に手傳つて土の猫ばかり細工へてゐたアナ」
ここで鎌倉というのは江戸のことです。御上の取り締まりが厳しい時代のことですから、鎌倉を舞台にして江戸の話を書くというのは、当時の常識でした。そのため、園庄面手町というのは、本所外手町のことです。
ここにも猫は出てきますが、招き猫は出てきません。しかし、有坂氏はこの猫を招き猫と断定してしまうのです。
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| 『狂歌雀 後編』 出典;『図説日本の人形史』山田徳兵衛編 |
本当に猫=招き猫と考えていいのでしょうか。
右の図は『狂歌雀 後編』(天保13年(1842)刊)の扉です。布袋や千成瓢箪もあるところから、上方の玩具を描いたもの(『図説日本の人形史』)ということです。この中に猫らしき人形が描かれています。左の絵が拡大図です。下の方は犬かもしれませんが、少なくとも招き猫ではありません。他に福助や達磨、撫牛など縁起玩具が登場しますが、招き猫はここにもいません。もし、招き猫がこのころに流行していたのなら、招き猫も仲間に加わっていてもよさそうなものです。
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| 国芳作『江戸じまん名物くらべ 今戸のやきもの』 出典:『人形歳時記』小林すみ江著 |
美女が左手で持っているのが今戸焼きの猫です。拡大図を見ても解るように、猫ではありますが、招き猫ではありません。今戸焼きの猫=招き猫ではないのです。もちろん可能性はありますが、今戸焼きの猫が流行ったと言い伝わるからといって、招き猫が流行ったとは言えないのです。江戸後期の今土焼の猫については、【第4章 招き猫以前】で詳しく検証します。
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| 国芳『猫飼好五十三匹』から 出典:『浮世絵大系10』 |
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| 国芳『猫飼好五十三匹』から 出典:『浮世絵大系10』 |
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| 国芳『たとゑ尽の内』の「猫に才槌」 出典;『幕末の修羅絵師 国芳』 |
其の夜の夢中にかの猫告げていふ。我がかたちを造らしめて祭る時は、福徳自在ならしめんと教へけれぱ、さめて後その如くしてまつる。夫よりたつきを得てもとの家に住居しけるよし。他人此の噂を聞きて、(中略)世に行はれでいくらともなく今戸焼と称する泥塑の猫を造らしめ、これを貸す。かりたる人は蒲団をつくり、供物をそなヘ、神仏の如く崇敬して、心願成就の後金銀共の外色々の物をそへて返す。其の廛は浅草寺三社権現鳥居の傍にありて、此の猫を求むる者夥し。(中略)四、五年にして此の噂止みたり。
上記の嘉永5年の記述が、この『武江年表』の記述を元にしていることは、ほぼ間違いないでしょう。
さあ、嘉永5年に招き猫がいる!? と期待が膨らんできました。嘉永5年に今戸で招き猫は誕生したのでしょうか?
ところが、「縁起の招き猫始まり」と書いた稲垣史生氏本人が別の自著の中で、この嘉永5年の招き猫を見事に否定して下さいました。
著書『江戸編年事典』の嘉永5年のところで「招き猫考」という項を設け、「『武江年表』嘉永五年のところに、その由来らしきものがある」として、前述の今戸土人形説その2を紹介してあります。そして、以下のように続きます。
が、これを招き猫の由来とするのは正しくない。招き猫の俗信は明治以後のこと。芸者の異名を「ねこ」と呼ぶことから始まったものともいう。まして元禄年間、薄雲太夫の愛した猫を招き猫の元祖とするなどは、まったくの妄説である。
嘉永5年に招き猫が始まったとする『三田村鳶魚 江戸生活事典』は昭和34年が初版であり、否定している『江戸編年事典』は昭和41年が初版です。七年の間に何があったのかは解りませんが、後の記述の方が稲垣氏の本意であることは、その語り口からしても間違いないでしょう。しかし、稲垣氏が正しくないとする根拠がないため、稲垣氏の主張をそのまま受け入れるのは性急かもしれません。
ここで気になるのは、「招き猫の俗信は明治以後のこと」としていることです。これには賛同するのですが、その根拠となるものが記述されていないのが残念です。遊女薄雲説、今戸土人形説を否定し、代わりに出してきた説が、「芸者の異名を『ねこ』と呼ぶことから始まった」という曖昧な説では、ちょっと無責任ではないかと思います。
○浅草の猫
(前略)ふと人ありて此方に猫ありや、夢みる事ありて買請ばやと言、主答へて、久しく飼馴たる猫の有しかど、いづち行げん暫く帰らずしで、日を送る由を答るに、いなとよ生たる猫にあらじかし、土にても木にても作りたる猫あらば、此家より買求めたしと、達ての所望に、是非なく程近き番太が店にて、手遊に作りたる土のねこ取てあたへしに、初穂ぞ迚鳥目置て帰りぬ、翌日も又の日も、末に来る人追々に増ぬる儘に、其不思議を人にも語り親子三人相談して、今戸なる土の猫を買出して、十まれ二十まれ置て見るに、日に増尋求るもの多くなりて、(中略)親を養ひ夫婦の餓をしのぐに足り、(中略)今戸焼なる土製の猫を買取て、去年の冬浅草寺の境内、随身門の内に店を開きて猫を売出すに、聞伝へ言伝へて、請求る者お猫さまと号して、初尾と唱へ、或は願望成就の神酒代備物代として、奉納銭を置ぬ、子年の春に至りては、さまざまの小蒲団迄製し添で売るとなん、猶猫の大小製作の麁密、張子なども追々に増ぬらん、
かゝる戯れ事は、多くは北廓吉原町、猿若町などの遊所の者より流行出す事になん、売妓を猫と唱へたる方言もあれば、なほよしとせん歟、(略)
其始は有ふれし今戸焼の猫なりしを後は此形に作りかへて専らに鬻ぎぬ
この書物に関しては、作者も含めて詳しいことは解っていません。自序文は文政12年(1829)秋に書かれており、最後の記事は安政4年(1857)のアメリカ使節の出府登城に終わっていますから、この文政12年から安政4年の約三十年間にわたって書き綴られたと推測できるだけです。この自序を信用するならば、筆者塵哉翁は、浅草の猫が売れたという嘉永5年をリアルタイムで目撃したことになります。老人の病気を癒したり、猫の置物を求めて見知らぬ人が訪ねてくる件は噂話の域を出ませんが、土製の猫が売れたという記事は信用できるのではないでしょうか。嘉永5年ぐらいからの数年間、今戸の猫が評判となったということは事実と考えて良いでしょう。
で、問題は先程から気になっている招き猫の挿図です。もうこれは招き猫以外の何者でもありません!! 嘉永5年の今戸の猫は招き猫だった!! とは喜べません。挿図の説明文が問題なのです。引用した『続日本随筆大成』には、招き猫の白黒の挿図の上に、本文から三文字ほど字下がりで「其始は有ふれし今戸焼の猫なりしを後は此形に作りかへて専らに鬻ぎぬ」とあるのです。「後は此形に作りかへ」たということですから、嘉永5年の流行当時は此形をしていなかったということなのです。つまり、嘉永5年の猫は招き猫ではなかったということなのです。
『巷街贅説』の最後の記事は安政4年です。つまり、少なくとも安政年間には招き猫が存在したことになります。ぎりぎりですが、江戸に招き猫が存在したことになります。
しかし、疑り深い私はまだ疑念を感じています。といいますのも、この『巷街贅説』の実態がよく解っていないからです。
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ちまきさんによりますと、安藤広重の判じ絵『浄るり町繁花之図』に横座り右手上げの招き猫が描かれているそうです。背中の丸〆印は見えませんが、お店の暖簾には丸〆の印があるとのことです。 ということは19世紀後半に招き猫は存在し、なおかつ、丸〆猫には招き猫も存在することになります。 この情報に関しては、確認後詳しくレポートしたいと思います。 |
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『深川江戸散歩道』(藤沢周平他著)の中に「深川江戸資料館」で江戸時代の船宿を再現した写真があり、そこに招き猫が写っていました。おかめの面のついた熊手、宝船と並んで、縁起棚横の箪笥の上に陶器製らしき招き猫がいるのです。しかし、これは現代に再現したもので、当時の現実に100%忠実であるという保証はありません。 |
招き猫は幕末を招いたか?
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| 『子供手遊』五蝶亭貞重画 出典;『図説日本人形史』山田徳兵衛編 |
左の絵は『子供手遊』と題された、子供のおもちゃを集めた絵です。作製年代は不祥だとありますが、画家の名前から幕末頃のものと思われます。![]() |
| 草双子『弓張月春廼宵榮』の丸〆猫 出典:『郷土玩具大成』 |
丸〆猫については【第4章 招き猫以前】で詳しく検証します。
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| 『浅草田原町 ねり人形』作者不詳 出典;『図説日本人形史』山田徳兵衛編 |
座っている女性が福助人形に彩色しようとしている場面です。女性の膝元に桶が置いてあり、作りかけの練り人形が十体ほど刺さっています。その中の一つに猫らしきものがありました。シルエットしか解りませんが、おそらく、今戸人形の猫を模倣したものでしょう。ご覧のとおり、どうやら手招いてはいないようです。もし、江戸時代から今戸人形の招き猫が評判を呼んでいたのならば、今戸人形を模倣した練り人形にも招き猫があってもよさそうなものです。
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高崎にはその後も何回か行き九月には、京都の人形研究家吉田知義氏に同行しました。河野家の人形の中に、高さ三十センチ、半分近く壊れた饅頭喰いがあり、これこそ佐土原と胸踊らせましたが、壊れた割れ口の幅が薄く、佐土原の土にしては上等すぎるようです。佐土原のであれば高さ三十センチもあればもっと割れ口が重く厚いはずです、伏見の人形であろうとあきらめました。同行した吉田氏も同感のようすでした。 (『佐土原土人形の世界』青山幹男著)
もう一方の、招き猫が出土した肥田木覚左衛門の墓の人形は、伏見人形から直接型を取ったようです。
肥田木家の人形は伏見人形から直接型をとり、製作したのではあるまいかと思われる節があります。型から出した人形の前と後ろを接着する時、接着面が高くなります、それを「ちり」と言いますが、玄人はちりをきれいに削り落とします。しかし、接着の技術が十分でない人形は焼き上げ接着が外れます。それを恐れてか肥田木家の人形の側面には、ちりが五ミリ位の幅で残してあります。 (同)
青木氏の考えでは、肥田木覚左衛門自ら窯を築き、土人形を製作したのではないかということです。200近くあった墓の中から土人形が出てきたのは、河野十太夫と肥田木左衛門の2基の墓からだけです。生前の土人形に対する関わりが想像できます。伏見人形の影響を強く受けている鹿児島県(『郷土玩具辞典』)の「帖佐や垂水の人形は下級武士の工夫」(『佐土原土人形の世界』)ということですから、土人形好きの肥田木覚左衛門が、伏見人形から型を取って土人形を自作したとしても何らおかしくはないのです。
| (6)動物を型どったもの | ||
| A 哺乳類を型どったもの | ||
| 1 | 招猫・初辰猫 | 招猫の縁起物。左招きと右招きがある。店先に置く。 |
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| 5 | 鼠 | 俵乗り鼠・鼠乗り童子・招き鼠・俵持ち鼠・槌乗り鼠がある。 |
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| 14 | 猫 | 毬猫・猫の像がある。 |
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| 15 | 狸 | 狸が着物を着て酒とっくりと帳面を持って立っている像。化狸という土人形もある。招狸とは裃を着た狸が片手を挙げて座った像。 |
これは「近世後期の伏見人形の原型をもとに分類した」という「伏見人形一覧表」の中の項目です。そのサンプルとなった原型の出所が曖昧で、本当に近世後期のものなのか確認出来ていません。しかし、江戸時代後期の伏見人形の中に招き猫があったのではないかという記述が二つあったことで、江戸後期の伏見における招き猫の存在の可能性はかなり高いといえるのではないでしょうか。
招き猫というのは、洒脱を好み信仰マニアである江戸っ子の心をくすぐる縁起物グッズだと思います。それなのに、(私が知る限りにおいて)「招き猫」という言葉も「招き猫」らしき絵も、江戸の文献はおろか江戸風俗研究の書物にも登場しません。このことが、引っ掛かり、どうにも納得できないのです。
確かに、招き猫の原形ができたのは江戸の後期かもしれません。しかし、招き猫のスタイルが確立し、流行り出したのは明治になってからではないでしょうか。
もし、皆様の中で江戸文献の中に招き猫を見たという方がおられましたら、是非ともご一報下さい。お願い致します。