招猫倶楽部招猫研究室招き猫大解剖>七福神大研究


●招き猫大解剖●

〜 七福神大研究 〜

【もくじ】へ戻る


不景気のせいか、縁起グッズや開運グッズの本がたくさん出版されています。その中で、招き猫が縁起物のトップを飾ることが多いようです。招き猫愛好家としてはうれしい限りですね。
七福神と招き猫  招き猫に続いて縁起物として紹介されるのが、福助達磨七福神などなど。いずれも縁起物としては招き猫より歴史が古く、広く庶民に愛されています。招き猫にとっては手強いライバルです。
 中でも七福神は歴史も古く、彼らのキャラクタは個性的で魅力的です。しかも正真正銘の福の神軍団です。強敵ですね。
 ということで、今月の特集は七福神。まずは敵を知ることが肝心です。七福神を研究し、招き猫の魅力を再認識いたしましょう。




● 七福神誕生

 七福神が何者かは皆さんご存知でしょう。恵比須、大黒天、弁才天、毘沙門天、布袋和尚、福禄寿、寿老人の7人の福の神のことです。
 それぞれの神様については後程詳しくご紹介いたします。その前に、七福神のいわれについてお話しましょう。

 ● 六は歌七は神にて八は芸

恵比須 恵比須
ebisu
商売繁盛の神
清廉
大黒天 大黒天
daikokuten
豊作の神様
知足
弁才天 弁才天
benziten
学問と財福の神様
愛敬
毘沙門天 毘沙門天
bisyamonten
勝負事の神様
威厳
布袋和尚 布袋和尚
hotei-osho
開運・良縁・子宝の神様
度量
福禄寿 福禄寿
fukurokuju
福徳・長寿の神様
人徳
寿老人 寿老人
jurouzin
長寿と幸福の神様
長生
 七福神信仰は室町時代末期頃の京都に始まったといわれています。

 江戸後期の画家谷文晁(1763〜1840)が、七福神の絵は「狩野松栄以前の絵を見ず」と『三養雑記』に書き残しているそうです(『江戸文学俗信辞典』)。狩野松栄は文禄元年(1592)に没しているので、安土桃山時代には七福神があったことになります。
 また、出展は不明ですが、文明年間(1469〜87)の京都に七福神を装った盗賊が出没したという言い伝えがあります(『ニッポン神様図鑑』)。この盗賊は、七福神とは縁起がいいと庶民の間に人気があったとも言われます。そういうわけで真偽の程は定かではありませんが、室町時代後期には七福神があったと考えてよいでしょう。

 この室町末期、京の庶民の間には、福の神信仰が広がっていました。室町末期といえば、応仁の乱(1467〜77)などの戦乱の時代です。武士のみならず、庶民も疲弊しており、福の神を求める土壌があったわけです。同時に、商業が形を持ち始めた頃でもあり、庶民が蓄えをできるようになった時代でもありました。庶民が個人の富を願うようになってきたのです。
 そんな中で、庶民の間に福の神信仰がはやり始めました。従来の神様や仏様は国や村の護国豊穣を願う対象でした。室町時代後期になって、ようやく庶民の個人的な願いを託す信仰が始まったのです。
 こうした福の神の広がりを背景に、七福神は生まれました。当時、人気の福の神であった西宮の夷三郎、叡山の三面大黒天、鞍馬の毘沙門天、竹生島(ちくぶじま)の弁才天女を中心に、布袋和尚福禄寿、寿老人が加わり、七福神が生まれたのです。



 ● 六歌七福飛切りのたぼを入れ

 七福神は、はじめから七神がそろっていたわけではありませんし、顔ぶれも固定されていたわけではありません。”モーニング娘。”のごとく、メンバーチェンジが頻繁に起こりました。七福神の固定メンバーが生まれるまでには、いろいろと紆余曲折があったのです。

大黒と恵比須  七福神は、恵比須大黒天というポピュラーな福の神のペアから始まりました。関西の商家では、今も大黒さんと恵比須さんの二神を祀る風習があります。

 人は欲深いですから、人気の高かった弁才天という女神が加えられて三神になりました。男女平等と考えたのでしょうか。
 当時、吉祥天という女神も信仰されていましたが、三神に採用されたのは弁才天のほうでした。といいますのも、吉祥天は恐ろしい女神と思われていたからです。吉祥天は次第に敬遠されるようになり、代わって弁才天の人気が出たために、七福神には弁才天が採用されたのです。
 しかし、弁才天とてはじめから七福神のメンバーだったわけではありません。実は、弁才天の前に天細女命(あめのうずめのみこと)がメンバーになっていました(『民具の博物誌』)。
 天細女命は天照大神が岩戸にこもったとき、岩戸の前で踊った女命として有名です。そのため、芸能の元祖と仰がれました。また、天孫降臨(記紀の神話。天照大神の孫、天孫が高天原から日向国の高千穂に降ったこと)に随従して苦りきった猿田彦神の表情を和らげた女神であるともされ、後に、笑う角には福来るとして、道化のお多福にも見立てられるようになりました。
 天細女命は福の神の性格から七福神に加えられました。しかし、京都では弁才天のほうが人気があり、不人気の天細女命に代わって弁才天が七福神の紅一点の座にすわったのです。

 三神でも物足りないと思ったのか京の庶民達は毘沙門天を加え、さらに四神では縁起が悪そうなので布袋和尚を加えて五福神にしました。
 室町時代というのはあるジャンルのものを集めて名数的に数えるのが流行っていました(『民具の博物誌』)。幕府の職制、三官・四職、寺院の五山十刹。三所明神、五社明神、八所明神、七観音、七薬師。そして六歌仙。何でも集めて数えたのです。
 七福神もそうした流行のひとつだったのでしょう。五神に福禄寿寿老人を無理やりに加え、七福神を誕生させたのです。

 六神でもなく八神でもなく、七神にこだわったのは、仏教経典の「七難即滅七福即生」にちなんだとか、中国の「竹林の七賢」にちなんだとかいわれています。
 『江戸の小さな神々』(宮田登著)によりますと、京都では恵比須、大黒天、弁才天、布袋、毘沙門天までの五福神が一般的で、江戸に行ってから福禄寿と寿老人が加えられ、七福神となったといいます。しかし、京都の街に七福神強盗が出没したという伝説を鑑みると、京都にも七福神はいたと考えられます。




 ● 七福は財七賢は徳に富

 室町時代末期に京都で生まれた福の神ユニット七福神は、七福神にちなんだ寺院を巡る「七福神めぐり」として江戸時代に全国的に大ブレークします。
 そのきっかけは、徳川家康の政治指南役天海僧正による、七福神信仰の奨励だといわれています。恵比須は律儀(または清廉)、大黒天は有徳、毘沙門は威光、弁才天は愛敬、布袋は大量、福禄寿は人望、寿老人は寿命を表し(『江戸文学俗信辞典』)、これら七徳によって天下を統一したので、皆も神仏の七徳を拝めるように、というわけです。

 江戸時代も中期を迎え、全国的に庶民文化の台頭、庶民の余暇の増加にともない、庶民のレクリエーションも盛んになりました。「七福神めぐり」にちなみ七福神信仰も全国的に広がりを見せました。しかし、”モーニング娘。”の例を見るまでもなく、ブレークしたユニットにはメンバーチェンジの動きが生まれます。七福神も例外ではなく、福禄寿と寿老人をユニットから外そうという動きがありました。

七福神 福禄寿と寿老人は神様ではなく仙人であり、もともと数合わせ的に参加させられたものだったからでしょう。
 「五人をばさまつけにいふ宝舟」、「七福の寿のお二人に様付す」という江戸川柳があります。前の句は、宝船に乗っている七福神のうち、福禄寿と寿老人以外には様をつける、という意味で、後の句は、七福神の中で様をつけない福禄寿と寿老人にも様をつけて呼ぶ、という意味です。二人が庶民からどういう扱いを受けていたかが解かりますね。

 『日本七福神伝』(元禄10年)には、福禄寿の変わりに吉祥天を七福神に加えてもよいとしています(同)。また、『書言字考』(享保年間)では猩猩を寿老人に変えています(『江戸文学俗信辞典』)。
 猩猩は想像上の獣です。「犬や猿に似て、黄毛で人面人足をして、長髪で顔は端正、(中略)酒を好み、人の言葉をよく理解しよく語る」(『七福神』)ということです。室町時代、日本では海の霊獣と考えていたようです。猩猩は謡曲の詞に「吾を祭る者ならば富貴の身となさん」(『近世風俗志』)とあり、福の神と考えられていました。

 メンバーチェンジだけではありません。メンバーを増やそうという動きもありました。新たに加えようとした福の神は、福助お福さんです(『江戸の小さな神々』)。特に福助には大きな後押しがあったようです。
 文化元年(1804)、景気回復にと吉原の桔梗屋の主人が福助人形をこしらえて売り出したのです。桔梗屋の主人は頭でっかちの人で大金持ちになれたので、自分をモデルにして売り出しました。桔梗屋の主人は何とか福助を七福神の仲間に加え、八福神にしようとしましたが失敗しました。しかし、福助人形は売れ、桔梗屋も繁盛したということです(同)。

 という次第で、江戸中期に形が固まった七福神は現代にいたるまで全国的に信仰されています。七福神めぐりは全国で81箇所も存在するのです。「七福神」をキーワードにWWWを検索してみてください。たくさんのおらが村の七福神がWWWで紹介されています。

● 七福神解剖

 激しい競争を勝ち抜いて選ばれただけあって、七福神の面々は非常に個性的です。その風貌だけではなく、生まれも育ちも他に類を見ないほど個性的です。一度見ると忘れられない七福神たちについて研究してみましょう。




 ● 宝船日本からも一人のり

恵比須  恵比須さんは七福神の中で唯一の日本の神さまです。ご存知、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊邪那岐命(いざなみのみこと)の三男、夷三郎が恵比須だといわれています。
 夷三郎は小さな船で九州日向の里から小船で流されてしまいました。流されてたどり着いたのが、摂津国西宮(兵庫県西宮市)の武庫の裏。夷神社があるところです。

 「えびす」の語源ははっきりしていません。昔は「夷」と書いたようです。「夷」には東方という意味があり、異郷人、来訪人を表しているともいわれます。恵比須神は遠方から福を運んできてくれる寄神(よりかみ)、客神(まろうどかみ)として信仰されたのです。
 日本各地の漁村には海中から拾ったり浜辺に漂流した丸い石を恵比須の御神体として祠に納め、初漁祝い、大漁祈願などの信仰の対象としました。また、漂流物を恵比須と呼び、粗末に扱わないようにしました。死体でさえ、恵比須として祀ったといいます。恵比須は海の富を授けてくれる神様なのです。
 そういうわけで、恵比須は漁業の神さまとして信仰されました。

 海の神様恵比須ですが、農民や商人にも信仰されました。
 農民の間では、田の神、山の神としても信仰されたのです。日本では、春に山の神が里に降りて田の神となり、秋に山に帰って山の神となると信仰されていました(『民具の博物誌』)。季節によって往来するので、遠方からやってくる客神としての恵比須信仰と重なったのでしょう。恵比須は豊作の神様となっていきます。

 豊作の神恵比須を全国に広めたのは、夷神社の神人たちです。恵比須の絵を配ったり、エビスカキ(恵比須舞わし)という人形芝居をして恵比須の徳を布教して回りました。西宮夷神社の人たちが、恵比須を宣伝して回ったのです。その結果、恵比須は大黒天と並んで全国で福の神として信仰されるにいたったのです。

 恵比須は釣竿を持ち鯛を抱えています。この姿にはどんな意味があるのでしょう?
 その姿は、「暴利をむさぼらぬ清廉の心を象徴」(『七福神』)しているといいます。網を使って一気に漁をするのではなく、先を見越して竿で少しずつ釣をする、というわけです。そんな地道さが喜ばれ、恵比須は商売人の神様、商売繁盛の神様になりました。




 ● ありがたい大黒日本をふんまへる

大黒天  丸い頭巾を被り、右手に槌を持ち、左手で袋を背中にかけ、米俵の上に乗っている――というのが現代の大黒天の姿です。今でこそ、温和な顔をしていますが、元をたどれば大黒天はヒンズー教の破壊の神、シバ神です。
 シバ神は青黒い身体をもつ破壊神(『ニッポン神さま図鑑』)で、仏教に帰依すると、サンスクリット語でマハーカーラ(摩訶迦羅)と呼ばれるようになりました。マハーカーラには「偉大な黒い者」という意味があるそうです。

 仏教に帰依したマハーカーラは、飲食を豊かにする神として信仰されました。天竺の諸大寺では、厨房の柱にマハーカーラを守護神で祀れば、何人の僧が訪れても出す食事には困らないとされたのです。福の神というよりは荒々しい神で、台所に入ってくる邪悪を追い払うという性格を持っていたようです。

 台所の神マハーカーラを大黒天として日本に持ち込んだのは、天台宗の開祖最澄とされています。天台宗の多くの寺の厨房に大黒天が置かれるようになりました。この信仰が庶民にも広がっていき、台所に大黒天を祀っておけば食べることに困らないと信じられたのです。
 台所の神ということで、大黒天は主婦の守護神となりました。主婦の台所仕事が上手くいけばその家も安泰ですから、大黒天は更に家の守護神となり、広く信仰されるようになりました。

 こうした大黒天の出世の影に、大国主命(おおくにぬしのみこと)の存在があったことを忘れてはいけません。
 大黒天は大きな袋を持っています。中国の大黒天が小さな床机に腰をかけ、手に金の袋を持っていたことに由来すると考えられます。と同時に、大きな袋を背負って全国を回ったという大国主命と混同されたからとも言われています。
 大国主命は記紀伝説に登場する日本の神さまで、日本全国の神さまが集まるという出雲大社の主でもあります。神話の中で、大国主命は全国を修行して回ります。兄達の衣類のほか、一切のものを袋に詰めて担ぎ、全国を行脚したのです。大国主命は「ダイコクさま」とも呼ばれ、五穀豊穣の神として広まりました。
 その袋を担いだ大黒天の姿と、大黒=大国という語呂から、大黒天は大国主命と混同されて福の神として全国的に信仰されるようになりました。

 また、農業から商業へと庶民の生業が変化するにつれ、大黒天は商業神としての信仰対象にもなりました。振れば何でも出てくる小槌を持ち、何でもはいっている大きな袋を背負う姿は、無尽蔵の財宝と富の象徴だったのです。

 その小槌ですが、もう少し深い意味があるようです。(つち)は(つち)に通じます。土というのは全てのもの(作物)を生み出すものです。その土はすなわち(た)。宝(たから)は田から出てくる、つまり、宝は土(田)から出てくるという意味で、大黒天は豊作の神となりました。
 また、大黒天がかぶっている大きな頭巾は、それ以上、上を見ないためで、謙虚であるべきことの教えだそうです。さらに、大黒天が乗っている二俵の俵は、二俵で我慢せよという「知足(足るを知る)」の教えであるといいます。




 ● 七福の内一つぷくの美しさ

弁才天  琵琶を持った容姿端麗な女神が弁才天です。弁財天と書き、弁天と略されることもあります。
 弁才天はインドの古代神話の大河の神でした。サンスクリット語では「水を有するもの」を意味するサラスバティと呼びます。ヒンズー教では梵天の妃とみなされています。
 サラスバティは大河の神ですから水と関係があり、水が流れる音にちなんで、音楽の神、弁舌の神(知恵の神)として信仰されていました。
 この女神を仏教の世界に引き込んだのは『金光明最勝王経』です。弁才天の声には、寿命増益怨敵退散の利があるとされ、弁才天のお経を聞いたものには知恵や長寿が授かるとされました。
 日本にやってきた弁才天は、室町時代になると弁財天と書かれるようになり、「才」が「財」にとって変わりました。そこから、弁財天には財産の神としての性格も加わったのです。
 琵琶を弾く白肉色裸形という弁才天の姿は、市杵島姫命(いちきしまのひめのみこと)の姿と習合した結果と思われます。市杵島姫命は天照大神の娘の一人で、市の神として信仰されました。




 ● 六人に腹と袋を邪魔がられ

布袋和尚  これまで紹介してきた大黒天、恵比須、弁才天は神様でしたが、布袋和尚はその名のとおり僧侶です。神様ではありません。
 9〜10世紀頃の中国唐代の禅僧契此(かいし)は、常に大きな布袋を担いで喜捨を集めて回ったため、布袋和尚と呼ばれるようになりました。弥勒菩薩の化身とも言われ、中国では王朝が交代時に現れてくる一種の聖人である(『江戸の小さな神々』)として、神格化されていきました。大きな腹をして福福しい顔をしていたので、福徳の神とされたのです。
 日本へは禅画のモデルとして入ってきました。京都では伏見人形の布袋像を集める習慣があり、その風貌から日本でも人気の福の神になったようです。




 ● 毘沙門はからしのきひた顔つつき

毘沙門天  甲冑を着て、右手に槍(宝棒)、左手に宝珠をささげる厳しい顔をした毘沙門天は、もともと暗黒界の悪霊の主だったそうです。ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神になりました。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王の一つになったのです。
 仏教の世界では、護法神となり、サンスクリット語でバイシュラバナと呼ばれました。四天王の一つとして、弥勒山に住み北方を守りました。右手の槍で怨敵(災害、仏教を弾圧する権力)を退治し、左手の宝珠で人々に福徳を与えてくれるといいます。
 別名、多聞天とも呼ばれ、知恵の神様としても信仰されたようです。
 日本では武闘の神様としても名高く、武将達の信仰が厚かったようです。京都の北方、鞍馬寺に祀られ庶民にも信仰され、『陰涼軒日録(おんりょうけんにちろく)』によりますと、長亨3年(1489)の庚寅の日には2万人の人たちが鞍馬山の毘沙門天に参詣したそうです。その人気の高さから、強面ながら七福神に加えられました。




 ● 神か和尚かなんだろう福禄寿

福禄寿  福禄寿道教の星の神様だそうです。南極星の化身(南極老人)で、寿老人と同体異名だとも言われます。
 福禄寿の正体は、はっきりいって、よく解かりません。書物によって星の神様(福星・禄星・寿星の三つの星の神様が合体したともいわれる)であったり、仙人であったりします。確かなのは、中国の神様(仙人)で、画題として室町時代に人気があったということです。おそらくは、庶民の信仰の対象ではなかったのでしょう。
 頭が長いという独特の風貌が絵として面白く、福禄寿という名前がいかにも縁起がよさそうなので、七福神におさまったのではないでしょうか。




 ● 粋な隠宅弁天に寿老人

寿老人  寿老人は白ひげをたらし杖を持ち、鹿を伴っています。中国宋時代元祐中の人で、天南星(または寿星)の化身だといわれます。しかし、福禄寿と同様、実態はわかりません。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されています。
 ともかくも、寿老人という名前のとおり、長寿の神様として信仰されたようです。





● 宝 船

 最後に宝船と七福神の関わりについて簡単に紹介いたしましょう。
 江戸中期に定着した七福神ですが、宝船との関係を無視することはできません。




 ● 七人の笑ひ声する春の夢

 宝船というのは、宝を満載した船の絵で、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」という回文が書かれているものもあります。この宝船の絵を大晦日から元旦にかけての夜に枕の下に敷き、良い初夢を見ようという風習が江戸時代に流行りました。
 実際は、大晦日は忙しくてゆくり夢など見ていられないということで、元旦の夜に見る夢を初夢とし、元旦に夜に宝船の絵を枕の下に敷きました。
宝船  その宝船に七福神を描いたのです。いつの頃から七福神が宝船に乗るようになったのかは不明ですが、調べられた範囲で最も古いのは、宝永年間(1704〜1711)に大阪で出版された俳諧本の挿絵です。少なくとも、江戸中期煮の大阪には七福神が宝船に乗っていたことが解かります。
 しかし、一般的には江戸のほうが七福神が乗った宝船が多いといいます(『江戸東京の庶民信仰』)。また、古いものには七福神が乗っておらず、新しいものでも将軍家、禁裏、武家の宝船には七福神は乗っていないそうです(同)。七福神が乗った宝船は江戸の庶民に流行したといえるでしょう。
 宝船は元旦の夜に枕の下に敷きます。そして、初詣で七福神めぐりが流行りました。宝船と七福神は正月の縁起物としてセット販売されていたわけです。本来、宝船は枕の下に敷くものでしたが、現代では、何も乗っていない宝船の絵を最初にもらい、それに七福神めぐりで七福神のスタンプを押していき、七福神宝船を完成させる、という集印帖の役割をもったものもあるようです。


※一部の七福神、宝船のGIF画像はやっしゃんのFREE素材集からお借りしました。


【もくじ】へ戻る